2019.10.05

古墳にみる地方分権。

 古墳は、ピラミッドのように、奴隷的な強制労働によって作られていたわけでもないようです。もちろん、人々の間に階層はありましたし、古墳自体もヤマト王権という中央権力の承認のもと作られていました。ただ、もっと、自分たちの首長を誇りに思いながら古墳を築造していたようです。

 群馬県にある二子山ふたごやま古墳は、墳丘長130mを超える前方後円墳です。この古墳周辺の集落などの遺跡を調べると、この頃の首長の功績がみてとれます。用水路の大規模整備をはじめ、小区画の水田を導入することで土木工事を容易にしたり、渡来人との交流によって、知識や技術の積極的輸入も行っていたようです。また、馬や焼き物の生産といった、新しい産業も興しました。馬は、元来日本に存在しなかったとされているため、渡来人に手ほどきを受けた産業であったと考えられます。
 また、首長は経済発展をもたらすだけではなく、人々の精神的な柱としてもその存在を期待されていました。自然を神として敬い、豊穣や安全を祈る祭祀を行う一方で、それでも自然の猛威が襲ってきた時には、率先して自然に立ち向かう姿勢を示しました。実際に、古墳時代に起きた噴火の火山灰の層から、稀少な形状の甲冑をきた人物の遺骸が発見されました。これは、その出で立ちから首長クラスのものであると考えられ、噴火から逃げるのではなく、それに向かっていったために残された遺骸であると考えられます。

 古墳は、ヤマト王権ネットワークに属する証であったため、自分たちが築造する古墳の形状や大きさは、自由には決められなかったそうです。前方後円墳>前方後方墳>円墳>方墳の順番に、権威のある形状とされ、もちろん大きな方が権威がある証とされました。ちなみに、ヤマト王権は現在の大阪・奈良あたりに存在していたとされ、そこがヤマト王権時代の中央であったとされています。
 大阪・奈良という中央から離れた地方に、古墳が作れるというこは、首長が認められていることを意味します。他の地域よりも大きなものを造れるということは、ある種の誇らしさを覚えたのではないでしょうか。
 また、前提として、首長は、そこに生きる人々の代表として、その地域の経済や安全のために働いていました。そのような首長の功績の証として古墳が築造され、またその首長亡き後も、その威容のもとに地方を治められることは、決してネガティブな気持ちばかりではなかったのではないでしょうか。
 なにより、古墳の築造は農業の忙しくない時期に行われるとともに、その労働に対して報酬も出ていたそうです。また、古墳に並べられる葺石ふきいしや埴輪は、どこか雑多な部分もあり、あまり管理されすぎずに築造されたような形跡もあるそうです。報酬の多寡はわかりませんが、半ばボランティアのような感じで、古墳作りに参加していたのでしょうか。

 このような古墳時代の痕跡をみていくと、当時の地方経済は、その地方に住む人々の結束のもと、独立したかたちで営まれていたように思えます。
 自分たちのために自分たちで、水路などのインフラを整え、食料確保と共に新たな産業を興し、祭祀により精神的安定や結束を維持していました。ヤマト王権と地方の多少の上下の関係はありますが、この頃はまだヤマト王権の支配力は弱く、EUのようなゆるやかな連合であったとされています。その地域の人々が首長をトップとしてその地域のために働き、自立的で自律的な生活を営む、一つの良い地方分権の時代であったように思えます。
 しかし、その後、飛鳥時代に突入し、十七条憲法や冠位十二階、大宝律令に代表されるように、中央の管理体制が強まり、それに伴い古墳は造られなくなっていきます。明治期の廃藩置県を思い出してしまいますが、歴史は地方分権と中央集権をくり返しているのでしょうか。
 古墳時代も、なかなか住みよく良い時代だったのじゃないかな、なんて思ってしまいました。

(吉田)

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