2020.07.08

食物残渣(生ゴミ)と人骨を分けていなかった縄文の人々。

 貝塚とは、主に縄文時代に見られる生活廃棄物を投棄する場所、いわゆるゴミ捨て場として一般的に認識されているものです。大きなものでは、東西・南北に200メートルに渡って広がる規模のものがあり、発掘される考古学的資料からは当時の生活の様子を伺い知ることができます。

 ゴミ捨て場という認識で見ていると少しショッキングに思える発掘資料が、貝塚から発見されています。それは、人骨です。
 この事実を聞くと、縄文の人々は人の骨をゴミ捨て場に捨てていたのか、とあまりいい気持ちはしないのではないでしょうか。

 しかし、これは現代の私たちの認識による見方です。
 研究者の中には、貝塚は精神文化的な意味合いを併せ持っていたのではないかという考えを持つ人も多いようなのです[1,kindle1815]。つまり、人も動物も貝も、家や道具に使った木も草も、等しく命が宿っているから同じ場所に埋葬し、自然にかえすというような考え方です。
 現代の私たちが認識するゴミとは化学合成されたようなものが多いため、縄文の人々のような認識は持ちにくいでしょう。しかし、狩猟採集を中心的な営みとしていた縄文の人々は、人と動植物の間の差異はあまり感じていなかったのかもしれません。

 弥生時代以降、人々は「分ける」ということを活発に行うようになっていきます。自然を切り開き田畑を造ることで、自然とは分けられた人工的な環境が出来上がっていきます。より多くの田畑や米などの資産をもつ者が敬われるようになっていき、階級という人の序列が出来ていきます。そして、田畑という守るべきものが出来たことで侵略に恐れを抱くようになり、敵と味方という対立関係がより生じやすくなっていきます。

 なぜ人は分けてしまうのか。

 よく人は、何かと比較しないと判断できないというようなことを聞きます。良いものかどうかは、何かと比べることで良いと判断できる。お手頃かどうかは、何かと比べることでお手頃と判断できる。分けることで違いが明確になり、自分たちは何者なのかが判別されてきたということは言えそうです。


〈参考〉
1.山田康弘著『縄文時代の歴史』(講談社,2019)
2.画像元のフリー写真提供者:https://www.photo-ac.com/profile/815776

(吉田)

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