2021.01.23

縄文にみる贈与的生活。

縄文的文化には贈与の慣習があるといいます。取引や経済合理性とは対極にありそうな縄文的文化について見てみました。あいまいな縄文、きっちりな弥生。

 水田開発にみられるようにきっちりと何かを組み立てていくイメージのある弥生文化に対して、縄文文化はもう少しあいまいさや抽象をはらんだものいうイメージがあります。水田開発においては、水がまんべんなく作物に行き渡るように地面を水平に保たなくてはならず、また大規模な土木工事であったため労働の組織化が必要でした。弥生時代を一つの境として、現代に通じるような文化や社会ルールができていったのではないかと考えられています。それに対して縄文時代は、自然と人間は一体であり、自然を支配の対象としては見てなかったと思われます。自ら生産する手段を持たなかったため、自然の一部として、自然に任せながら生きていくしかなかったのです。
 さて、そんな違いが縄文と弥生の間にはあると思っているのですが、とても個人的な感覚として、何かをきちっと仕上げていくような生活に傾いている時、縄文的なモノやコトに触れると気持ちに自由さのようなものが生まれることがあります。たとえば神話の一端を目にした時、正直意味が分かるとは決して言えないのですが、その神話を一つの社会秩序として生きていた人たちがいたのだと感じられます。また土器にしても、弥生式土器は現代の器に近く、縁は直線的・水平的で、側面にも目立つ細工は施されていません。それに対して縄文式土器は、火焔式土器に代表されるように縁が波打っており、側面に激しめの細工も施されています。このような縄文土器は飾るためのものではなく、実際に煮炊きなどに使われていたことが分かっています。実際に使うものに、利便性を下げてしまうような装飾を施していたのです。
 以前、古代のモノなどに施される美を研究している先生にお話を聞く機会がありました。その先生は、縄文土器の装飾は、つくる時に心や身体が動くままに施されていったのではないかと言っていました。つまり、つくる本人にも明確な装飾の意思があったわけでもなく、また誰かに明確に指示されて行ったわけでもないのではないかということです。このようなつくり方・つくる時の様子は、弥生文化と縄文文化とを比べるとイメージしやすくなります。
 弥生時代の土器はシンプルで装飾性に乏しいものになりましたが、装飾を生活に求めなかったわけではありません。銅鏡や銅鐸、銅剣といった、自然界にそのままでは存在しない金属的な輝き・直線・頑強さを伴う美を、普段の生活とは少し離れたところに求めていました。また土器からも装飾が一切なくなったわけではなく、「特殊器台」と呼ばれる別の種類の土器に装飾がふんだんに施されるようになったのです。つまり、機能と装飾の「分離」が起きていたのが弥生文化だったのです。それに対して縄文文化は、そういった分離に対する観念や思考が全体的に強くなく、実用品にもふんだんに装飾を施すことがあったのです。そういった観念や文化様式は、心や身体に沁みついたものであったと考えられます。だから、身体が動くがままに装飾が施されていったのではないかと想像されるのです。あまり分けすぎないこと・あいまいさを普通とすることに、合理性の対極にある、広がりや自由さのようなものを感じられるのかもしれません。

 縄文的文化の特徴の一つとして、贈与的であったことも挙げられるそうです。北海道を中心に居住するアイヌ民族の研究をしている瀬川拓郎氏は、アイヌや日本南島の人々が縄文の習俗や世界観を継承してきたという考えを示した上で、縄文的な贈与について紹介しています[1]。贈与の紹介の前に、縄文時代から弥生時代への移り変わり方について少しだけ紹介させてください。
 縄文時代から弥生時代へは、ある年代を境に日本列島全体で変わったものと覚えているかもしれません。しかし実際には、本州が弥生文化へと移り変わっていく中でも、北海道では古墳時代頃まで続縄文ぞくじょうもん文化と呼ばれる文化体系が続いていたとされています。さらに続縄文時代の後も、飛鳥時代から鎌倉時代後半まで擦文さつもん文化という独自の文化体系が続いていました。沖縄でも、本州と同じ文化ではなく独自の文化で説明されており、さらに瀬川氏は日本列島の海側周縁に住む海民と呼ばれる人々も縄文的文化で長い間生きてきたと言います。つまり、学校で習うようなメジャーな歴史の変遷が当てはまらない地域が日本にはあり、アイヌや南島、日本列島周縁では縄文的な文化が残り生活が営まれてきたというのです。今では北海道から沖縄諸島までを一つの国として語られますが、かつては異なる文化で生活をする別々の国であったとも言えるでしょう。では、近代まで縄文的文化が残っていた地域に見られる贈与的な文化や慣習とは、どのようなものなのでしょうか。
 船を住まいとし移動を繰り返した家船えぶね漁民は、自分たちの漁った魚などが金銭で買われることを好まず、陸上の知人に贈り物として与えるのだと言います[1,P218]。その返礼は、祭事に招待してもらうことであり、金銭的なものではないのだそうです。そして、そのような関係を「親戚」と呼ぶのだと言います。つまり、贈与をする相手は擬制的な身内であることを表しています。このような贈与をする関係を「内」の関係とすると、他方で「外」の関係となる客人などには、もう少し違う接し方をするのだそうです。例えば、客人が神棚に供えた魚をもらうことになった時に、居合わせた現地住人が金銭で買い取るような行為を行い、その上で客人に振舞うということも行うのだそうです。瀬川氏は次のように説明しています[1,P217]。

神への供えものを川島という共同体外部の者に与えるに際して、それを金銭による売買という商品化の場(市庭)へいったん投げこみ、人とモノの有機的な関係を断ち切るものだった、とみられるのです。(※川島とは客人のこと)

 贈与的なモノの提供では、人とモノの濃密な関係が伴うため、金銭売買によって市庭(いちば、市場)に持ち込むことで、その関係を遮断する必要があるというのです。モノには人の魂のようなものが宿っていると考え、贈与ではその魂ごと行き渡ると考えます。外の人にはそのようなものが及ばないように、一つの儀礼として市庭を模した行為をするということのようなのです。
 このような文化的慣習から見えてくることは、縄文的文化では、内と外の区分けが明確になされているということです。内の人とはモノに宿る福もわざわいもそのまま贈与されて共有されますが、外の人とはあまり共有されないのだと思われます。さらに、縄文的文化には贈与だけではなく、非階層・閉じた系・自治的であるという特徴も見られると言います[1]。
 非階層的であるとは例えば、何か共同体内で事案が持ち上がった時は、みなで相談することを重んじることが挙げられます。代表者的な人が一人で意思決定をするのではなく、さらには合理的に結論を導く議論をするでもなく、相談すること自体に重きを置いているのだと私は解釈しました。また、誰かが突出して目立つことや富を得ることは好まれず、そのような者がいようものなら強い批判にさらされたりもするようです。他方でみなが人格者と認める老齢な者ならば、大きな家を建てるようなことも好意的に捉えられるのだそうです。
 閉じた系であるとは、例えば漁民の婚姻相手は、農民ではなく同じ漁民でなければいけないなどです。自治的であるとは、例えば国家的な大きなルールや枠組みに従うのではなく、小さな社会の慣習が重んじられ、それによって秩序を保っているということであると思われます。

 市場を介した取引は効率的ではありますが、あたたかさのようなものは感じにくいと思います。一方で贈与はあたたかさのようなものを感じられます。ただ、そこに連なる文化を見ていくと、贈与は内に対してより強く働きやすいものであり、必然的に非階層で閉じた系で自治的な文化が伴うように感じられました。外に対して排他的で、あまりオープンではないとも言えそうです。このような文化様式は、特に機能的組織においてはムラ的であるとして批判の対象となります。でも、そのような複雑で論理だけではないあいまいさが伴う文化に、合理的な日々に浸りすぎた時には少し触れてみたくもなるのかもしれません。
 最近では、贈与や寄付といったワードをSNSやメディアで見ることも多くなってきました。そういうことに関心を寄せたり、そういう社会で生きたいと思う人が増えてきているのかと少し納得できるような気もしています。ただ縄文的文化を見て分かったことは、贈与には私たちが一方では面倒だと感じてしまうような観念や慣習もセットになってくるのかもしれないということでした。ただ思うことは、取引的な世界と贈与的な世界は、個人がどちらか一つを選択するのではなく、両方を並行してもちながら生きることができるのではないかということです。仕事は取引・プライベートは贈与という分け方だけではなく、仕事でも取引と贈与の両方の世界観を持って切り替えながら生きていくことは十分にできると感じています。贈与的文化で生きる人々は、それが神から与えられたものであり自分のものではないから、惜しみない贈与や分配をできるのだと言います[1,P230]。言い換えると、所有の意識が薄いとも言えます。自分が持っているモノ・コト全てではなくても、一部にでもそういった意識でいられるモノ・コトを持てると、また生活に豊かさが生まれるのかもしれないと思ったりもしました。


〈参考図書〉
1.瀬川拓郎著『縄文の思想』(講談社現代新書)

(吉田)

カバー画像出典元

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