2022.02.28

いただいた感想 「読書のもやもやについて話す時間」

  月に1回程度開いている「読書のもやもやについて話す時間」でいただいた感想です。未消化なこと・考えてみたいこと・もやもやしているを持ち寄って、その場で1つ選んで話す時間です。

〈読書会について〉
 主に読書会を開いています。事前読書のいらない、その場で読んで感想をシェアするスタイルの読書会です。事前申込をあまり求めない、出入り自由な雰囲気で行っています。スタンスや日程などについてはこちらをご覧ください。

2024年2月24日(土/午前):「第三者的な空間ってどんな空間?どんな態度で?(対話ってなんだろう)」

 今回はこちらのテーマについて話されました。

「第三者的な空間ってどんな空間?どんな態度で?(対話ってなんだろう)」

『正欲』(朝井リョウ著)を読んだ方から出されたもやもやです。少し独特な表現ですが話すなかで文脈を感じるとることができ、はっきりとは言葉としてまとめられないけどイメージは共有しながら話すことができたと思います。

yuさん
もやもやの会に初めて参加しました。風邪で声も出にくかったので聞いておくだけにしようと思ってはいました。
第3者的な目線や話をしたいというテーマが3つくらい出て興味深かったです。自分は正しい問題。なかなかそうじゃないかもしれないなという境地にたどり着くことは遠い道のりだなと思いました。

よしださん
 「第三者的な」と言う言葉は普段から使う言葉なのでその印象で話していましたが、もやもやを出した人の話を聞くうちにそうではないのだなと気づいていきました。例として出たのが、政府がLGBTQというワードを出して多様性の尊重と言っている時点では、おそらく言っている側は「こっち」にいると思っている。ここでいう「こっち」とはマジョリティのことです。人は無意識のうちにこっちとあっちというふうに分けていて、何かを軽々に言えるというのはこっちだと自分で思っているからなのかもしれない。そんなところがこのテーマのスタート地点だった気がします。
 「なんでそんなこともできないのか」「普通できるでしょ」みたいにリアルでなのかメディアをみていてなのか思うということは、自分を「こっち」に置いているということなのだと思います。でも、こっちにいると思っている自分がひっくり返ってあっちになる場合もあるという話も出て、僕もそうだなと思います。そういうことを実感しているとき、他者のことを上にも下にも見られなくなるし、その人のキャラによるかもしれないですが口に出すことも憚られるようになる気もします。自分が向き合える多様性などというのはごく限られた領域に対してなのだろうと思いました。

2024年1月28日(日/午前):「平安時代なども含めた天皇制について/没入できる小説はありませんか/おすすめの新書はありませんか」

 テーマは「平安時代なども含めた天皇制について/没入できる小説はありませんか/おすすめの新書はありませんか」でした。

2023年10月28日(土/午前):「人が生きること・自分が生きていくことに、意味を見つけられているだろうか、もしかしたらそもそも意味なんてないんじゃないだろうか」「生きづらさをどのように感じているか」

 「人が生きること・自分が生きていくことに、意味を見つけられているだろうか、もしかしたらそもそも意味なんてないんじゃないだろうか」「生きづらさをどのように感じているか」といった問いをめぐって、ずっと話が続きました。

2023年7月23日(日/午前):「サードプレイスにはどんな場がある?なんで必要なの?」

 今回のテーマは「サードプレイスにはどんな場がある?なんで必要なの?」でした。

よしださん
 サードプレイスは横文字で難しそうなんだけれども一文で説明されるとみんなに理解される、不思議な概念だなといつも思います。サードプレイスとは、「職場でも家庭でもない第三の場所」。
 今回のもやもやの会でも、みなさんそれぞれに思い思いのサードプレイスの話をされていたように思います。また、webメディアでもサードプレイスをワードとして含む記事をみることも少なくありません。その説明を聞いただけで、自分が居心地いいと思えるあの場のことなのではないかとピンときているように感じられます。
 でもみなさんがピンとくることにこそ、一緒に話をするときの難しさもあるようにも感じました。みんなが話をすることができるのだけれど、すでにそれぞれの人のなかにイメージがあるから微妙にみなさんの定義が違っている気がする。今回は僕が進行を務めさせていただきましたが、その点は勉強になりました。
 サードプレイスに関しては、僕も関心が高く、それに関する本を読んだこともあります。今回改めて感じたのは、僕の関心はただそのときの気の赴きに合わせて話をする場であり、目的などは明確にない効用や便益がみえにくい場や時間にあるのだなと思いました。何かを目指して進むのではなく、その時々で気づきながら会話や思考が弾む、みたいな時間です。あと、人は自分の考えを言葉に出す、ただ人と話すということ自体がとても大事なことのように漠然と思っています。

2023年5月28日(日/午前):「読書のアウトプットについてどう思うか。」

 今回のテーマは「読書のアウトプットについてどう思うか。」でした。

2023年3月25日(土/午前):「仏教を実際の生活で実践するには?」

 今回のテーマは「仏教を実際の生活で実践するには?」でした。

原有輝さん
原始仏教は実践が難しい部分もあるが、マインドフルネスなど普遍性もあると思いました。

Takashiさん
不安や苦しみは無くしたいけど、美味しいものを食べたりWBC見て喜んだりもしたい。これって欲張りなんでしょうか。もやもやしますね~~。

tetsuさん
仏陀の言葉に「愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、 わずらいの絆が存在しない。」という言葉があるということが驚きでした。これには「思い通りにいかなくて苦しいのなら、いっそのこと…!」みたいな極論としかとらえられず、たしかにもやもやとしました。
後から少し調べていて、原始仏教で指す「愛」は我欲・執着としての愛欲を指していて、西洋的な慈愛とは異なるという説明を目にしました。また、そうでなかったのだとしても、教えというのは誰かに授けられ、委ねられる中でアップデートされていくものだと思います。
原始仏教の示す通り、人生は思い通りにならないし、大事な人ともずっと一緒にはいられない。だからこそ、限りある今このときに感謝の念をもって過ごしていくことが大事なのだと受け取りたいと思いました。興味深いもやもやをありがとうございました。

田中さん
・現代とブッダの時代との状況の違いはある。
全てを自分の生活で実践することは可能か?例えば、束縛の絆を断ち切ることは可能か?
・フロイトの快楽の分析と、ブッダの快楽の分析の違いは何か?
・自分の心の平穏を得るために、原始仏教は本当にヒントをもたらすか?(他に参考にすべき思想はないか?)
・原始仏教を現代の生活に適用した先行研究はないか?

2023年2月25日:「ポジティブなもやもやとネガティブなもやもやとは何か。」

 今回のテーマは「ポジティブなもやもやとネガティブなもやもやとは何か。」でした。

2023年1月29日:「読書と現実(悩み)」

 今回の主に「読書と現実(悩み)」というテーマで話されました。

原有輝さん
読書が生活を反映しており、読み方次第では立派に現実の回答にもなり得るというところに、感銘を受けました。わからないことを人に聞いたり、相談したり、深い話をするばかりでは解決しない、自分の問題があるのだと知りました。

2022年12月24日

 任意で持ち寄られたテーマを行ったり来たりするように話されました。

〈持ち寄られたテーマ〉
・あなたにとってコミュニテイとは何ですか?
・コミュニケーションとディスカッション
・孤独感について
・ポストモダンとは?
・戦争が始まったらあなたはどうしますか?

2022年11月27日:「生きることと死ぬこと」

 今回のテーマは「生きることと死ぬこと」でした。

〈出されたテーマとメモ〉
・「生きることと死ぬこと」
人間にはいろんな出会いと別れがある。自分自身の死についてどう考えるのか。死について考えづらい。死の話題がタブーになっている。死ぬのが怖い。突然死と病死は考え方が違う。死に関して、違う意見があまりない。概念的な死と実際の死を分けていたい。
トルストイ『イワンイリッチの死』。死は考えにくいもの。自分がいる状況で死に関する認識が変わる。医者と一般人で死の認識が変わる。自分が死んだ後の世界についての想像。死と生の関係。生物学的な死と、物理学的な死。

・「テレビを見ていれば読書しなくてよいのでは」
本は時間がかかる。読書は知識を得るだけのものなのか?読書をすることによって。本は読み返すことができる。時代を超えて評価される本。テレビは人とつながるために。オーディオブックについて。スピード感の違い。

2022年10月22日:「読書のもやもやとはなにか」

 今回のテーマは「読書のもやもやとはなにか」でした。「私達は仕事をやりすぎなのでは」も交えて話されました。

〈出されたテーマとメモ〉
1.「私達は仕事をやりすぎなのでは」
・もっと休みがあればよいのでは。なぜ人間は仕事をやっているのか。
・仕事をしていくと自分と乖離するのでは。ルーティーンが自分で決められない。
・お金が発生すると乖離するのでは。個人事業主と会社勤め。
・しんどさの種類を選びたい。ゲームのキャラクターはしんどさを感じるのか?
・お金に支配されている。グローバル化で移動できない人が辛い。
・自分の周り3メートルを見ましょう。相対的に見ると辛い。

2.★「読書のもやもやとはなにか」
言語化できていないもやもや。メタ的にならざるもえないともやもやが発生する。
もやもやを探すために読書をしている。理解していることを崩された場合もやもやが発生する。
もやもやしている方が普通。もやもやよりクリアでいたい人のほうが多い。

よしださん
 今日はいつもよりは少人数でなんとなくしっぽりとした雰囲気で話されたような気がしました。
 いつも通りいろいろと話は及びましたが、感想を書くにあたって僕のなかで浮かんだのは「私たちはなぜ自分が意味や価値を感じないことに時間を費やすことになっているのか」という問いであり、その答えは「グローバル化したから」というものでした。
 たとえば「因数分解なんてなんで勉強しなきゃいけないの?」という問いに対する答えももしかしたら「グローバル化したから」なのかもしれません。昔は田んぼを造るなら土木の知識と自然と必要とされる数学などだけでいいというか、目の前の必要に応じた知識を身につけていたのではないかと勝手に想像します。それが今や国・数・社・理・英とまんべんなく勉強しなければなりません。これはなぜなのか。僕は学習指導要領のことなどわかりませんが、イマ・ココではなく、ミライ・アチラの方をより強く意識するようになったからのように思います。なんとなく、自分とは関係ないそういう先の方まで意識しなければいけないというか、影響を無視したままではいられないこと、つながっていくことをグローバル化と呼んでみることにします。
 しかしながら人間の能力はそんなグローバル化に合わせて生物的に進化しているわけでもないと思います。GDPや幸福度ランキングは本当に自分に関係あるのか、メタバースやWeb3は関係あるのか。グローバルな流れに引っ張られすぎると自分の時間がなくなります。スマホはもはやiPhoneじゃなくてシャープのアクオスでいいのではないか。

2022年9月25日:「本を読む意義って何か?高校生からの疑問」

 今回のテーマは「本を読む意義って何か?高校生からの疑問」でした。

〈出されたテーマとメモ〉
1. 読書、本を選ぶのに季節性はあるか。秋は小説多めなのか。テーマ性はあるのかな。
・小説好きの人は夏はこれ、秋はこれ、みたいなもの決まっている。クリスマスとかなら決まっているけど。季節がテーマになっているわけではなく、自分のなかでテイストとして決まっている。
・どうして読書の秋なのか。秋は気候がいいから?
・夏はレゲエ聞いていた方がいいかもしれない?
・行楽シーズンって秋な気がする。
・読書の春とかあるのかな。冬に哲学書読むと病む?

2.安定剤的な本はあるか?
・読みかけの本を読む、読むこと自体を安定剤にしている?
・江國香織なら読める、ビブリオマンシエって占いの本。
・突き詰める本を読み続けていると宇宙の本、哲学者の本でバランスをとっている。

3.★本を読む意義って何か?高校生からの疑問
・本を読む目的を設定する人は読書に向いていない?時間を味わい深くなれる。
・他の人の会話に触れられる、簡単に他の人の会話に触れられる。
・動画じゃなくて本の本質を見極められる時代なのかもしれない。
・言葉の直接性が高い、それによる効果高くて、人が思考する考えるところは大きい。言葉を直接受け取ってやるのがいい悪い。尖った体験な気がしている。
・本は人と向き合う、その人と向き合う体験。まとまった行の文章があって、情報量が多い。抽出されたもの。
・動画は本60冊分の内容。情報媒体として見ると動画と本は別物。
・毎日読む本を探している。救いを求めているので、本ない生活の方が幸せかもしれない。図書館の主人、悩んでいる人たちに本をすすめる。悩める人が本に行き着くのではないかと思った。

よしださん
 高校生からそう質問された人がいたということから始まりました。最近は動画も豊富にあるので、読書とは何を指すのかということがまた一段と定義が難しくなったように思います。知識を得ることも他者の考えを知ることも動画でできるようになったからです。でもそこから考え始めていては先に進まないので僕の中では結論を知るだけではなく過程をたどることという定義(?)で読書について考えていました。あくまでも切り抜き動画や要点をまとめたweb記事との比較ですが、本は著者と対等に思考の過程を追える媒体であるように思います。

 僕は人の認識とは、過去の経験や知識や記憶が複雑に絡まりあったものなのではないかと思っています。だからそれを変えていくためには、一つ一つ解きほぐしていく過程が必要であり必然的に時間がかかるものだと思います。過程のない答えをただ放り込まれても自分のなかには入ってこないのではないかと思います。
 あるいは全く無垢な領域に(例えば高校生にとっての「仕事とは」という問い)明確な答えが投げ込まれたらそれをただ信じることにもなりかねません。アニメの悪役がよく明確な答えを示して若者を洗脳していくのを思い出します。
 読書とはめんどうくさい面もあると思いますが、でも世の中もなかなかめんどうくさい面もあるので、めんどうくさい読書をしながらもやもや生きていくのもありかなと思ったりします。

2022年8月28日:「本との付き合い方」

 今回のテーマは「本との付き合い方」でした。

〈持ち寄られたテーマ〉
・老害を害とする境界は(知識や経験が煙たがられるのはどのようなときか)
・読書が楽しいのか苦しいのか。読書が苦痛になるときがある
・読書はフローかストックか
・本との付き合い方。タイミング。生きているうちにあと何冊読めるのか。どこまでして読み終えたことにしようかな。
 ・本読んでいても覚えていないことがある
 ・読み返したくなる本がある
 ・思考を変えたくて手放した本がある

tetsuさん
 
「読書のもやもやについて話す時間。」に初めて参加させていただきました。あらためて、本との付き合い方についてふりかえることのできる有意義な時間を過ごさせていただきました。読書に対して「メンターを求めている」と表現をされた方がおられ、たしかにそのような一面があるなと反芻しながらお聞きしていました。哲学などの学術や自伝・伝記、物語などさまざまな形で表現される考え方や在りように触れることは自分の人生を生きることにつながっているのだと思います。また、終わりの方で「結局は自分自身の中に答えがある」とのご意見があったことも印象的でした。
 読書をすることで、心が動いたり、視野が開けたり、想像が作り出す美しさに身を委ねたり。読書は、おそらく私にとって身近で、手軽で、自分のペースで「体験」を起動してくれる装置なのだろうと思います。そして、その体験に「ひらく」ことができるかは時機が大切であると思います。それは必要に迫られたからかもしれないし、その時の周りの人や環境の中で生じるものなのかもしれません。無理矢理にひらこう、よく噛んで咀嚼しようとしなくても、何も起きないときは起きない。限りあるこの先の一冊一冊の読書体験にできるだけ丁寧に向き合いつつ、いずれ準備ができたときにはあらためてお会いしましょう、ぐらいのスタンスで肩の力を抜いてみようかなと思いました。ありがとうございました。

としさん
読書が苦痛になることはある。
以前の私なら、理解出来なくても読んでいたが、
理解出来る私に変わりたくて、
疑問を飛ばさず、理解しながら読み進めることにした。
勿論、全然進まない。
なぜなら、今まで理解しなかったツケが回ってきているのだ。ここでやめたら戻ってしまう、という恐怖心から、私は苦しみながら本を読んでいる事に今回気がついた。

人生は自分を理解する旅だと最近思うようになった。
今まで分かっていなかった自分、
何が嫌いで何が好きか、
最近になってやっと分かるようになった。

文章を書くことを学んだのも数年前。
それまでの私は文章を書くことから逃げていた。
感覚人間なため、言葉なんて重要に感じていなかった。

占星術を読んだ時に書いてあったのは、
前半(若いうち)にし残したことを
後半になって回収するようになっているという事だった。
人間は、惑星の影響を強く受けている。
ただ、それは、そういう流れの中にあるけど
自分の意思でどうとでも変えられるという。

読書は娯楽。苦しみながら読む。
理解しなきゃいけないと思い込んでる。
そう。考えたこともなかった。

実は私はメンターと思える人にあった事がある。
色々な事情があって疎遠になった。
その人と同じような人を探しているのかもしれない。

新たな発見のあった会でした。
いつも有難うございます。

よしだ
 いろいろな話が出て、振り返ってみると「読書をしているとき何をしているのか」というテーマだったようにも個人的には感じました。
 何かをわかるためという人もいれば、そうでもないというような人もいます。ひとつの目的をもって読書をしているわけではないのでその時々ですが、僕自身はなんとなく何か(たぶん自分)を動かすために読書をしているような気もしました。もう何がなんだかわからない状態だと動きようもないので、何かをわかるために読んでいるともいえますし、でもそれで何かがわかったと思うわけでもない。でも求めている何かには近づくような気がするし、別のやりたいことが出てくるときもあります。ゴールがあるわけでもないしそれを欲しいともあまり思っていないけど、どこにいくのかわからないから本を読みながら考えているような気もします。

2022年7月30日:「みんなスマホをみている」

 今回のテーマは「みんなスマホをみている」でした。

〈持ち寄られたテーマ〉
・対話はいかにして可能か。対話と会話の違い。まったく知らない他者と対話するか。誤解が生まれる。
 ・想像と理解 会話は一人相撲、対話は心象を想像したり理解する

・本やサイトなどが多くキャパシティが追いつかない。どのようなバランスをもっているか。
 ・何のために読書をするのか

・問題が起こったときに自分の問題として捉えているか。
 ・あたりまえが違うことについて

・村上春樹さんはそんなにりっぱ?読む人が読めば違うのだと思うから聞いてみたい。いろいろな解釈をする人がいるが、村上春樹さんの心のなかを覗いてみたいというのもある。

・★みんなスマホをみている。

おおにしさん
Soiさんの「東南アジアでは街中の人々がスマホをいじっている」という話から、スマホ社会が人々に及ぼす影響やスマホ社会の将来について話し合いました。
みなさんのお話を思い出しながら、自分の感想(もやもや)をまとめておきます。

(1)先進国も途上国もスマホはすでに人々の生活の一部になっており、スマホがないと生活できない人が大多数を占めているのが現実。スマホ社会の未来がディストピアになりそうな予感はするが、規制をかけることはなかなか難しく、企業も利潤を生むスマホ・サービスを手放すことはありえないだろう。
さらに、生まれた時からスマホが存在する世界で育ったデジタル・ネイティヴたちはスマホがない社会など想像できないだろう。そんな若者たちがせめてスマホ依存症にならないように啓蒙していくことは必要だと思う。

(2)日々膨大な情報が行き交うデジタル社会の中で、人々は少しでも多くの情報を吸収しようと様々な努力をしている。その一方で本を読むという非効率でアナログ的な行為は敬遠されがちだ。
しかし、脳の処理速度を超えた情報の流入は、思考停止や適切な判断を損なう恐れがある。
内容をよく吟味せずに脊髄反応的にツイッターで「いいね」やリツイートを繰り返すうちに誤った世論形成に加担してしまうことにもなりかねない。
デジタル社会に生きる我々にとって”自分の頭でじっくり考える”トレーニングは必要不可欠だ。
例えば、本を読んで感想を述べ人と意見を交換するという「リベルの読書会」はこのトレーニングにふさわしいものだと思う

よしだ
 今回はスマホを切り口にいろんなところに話が及びました。おおむね、スマホに時間をつかいすぎていることに対しては批判的な見方が多かったのですが、これは皮肉とかではなく、それでもみなさんたぶんスマホを使っています。最後の方に出た、なんでスマホをつかうことを抑える方向には世の中は進まないのだろうという疑問は印象的でした。
 たとえば一つの考え方として、自然とそれを使ってしまうのだからそれが自然体なのではないか・無意識に求めているのではないかというのもあるかもしれません。しかしこのような考え方は元々の自然環境から大きく離れたところで生きている今の人間には当てはまらないように思います。生き物の本能とは育ってきた環境に適応していると考えられますが、ヒトにとってのそれは草原の狩猟採集生活であると考えられるからです。そのときに適応した本能が今の環境で反応したからといってそれは自然体であるとはいえないように思います。
 感情や身体的反応に抗うことはとても難しいというか、体力がいるように思います。なんかでも大変だろうけど、スマホをつかう時間を減らす方法を考えてみようかなと思いました。でも持ち運びしやすすぎるし情報も更新されてるし、なにか仕組みみたいなものを自分で考えないと引き離すのは難しいだろうなとも。あるいはスマホは怖いという本を延々と読み続けるか。。

2022年6月26日:「非科学的なことをどう構想するか?」

 今回のテーマは「非科学的なことをどう構想するか?」でした。

〈持ち寄られたテーマ〉
・Zoomとリアルで話すことの違い。リアルの方がいいのは本当か。
・リベルの読書会の個性は何か。
・小説の読み方がよくわからない。生物系や研究者の本が多い。もっと深く読んでみたい。
・★非科学的なことをどう構想するか。科学は人の思考を縛っているのではないか(帰納法と因果)。その外側を構築する必要があるのではないか。選択肢の幅を広げる。
・科学は縛るのものなのか?

おおにしさん
「帰納法、因果律という科学的思考が人の思考を縛っているのではないか」という問いは、とても難しい問題ですが問いを立てた方の話を聞いて、この問いが出た背景が見えてくるといろいろな意見が出てきたました。対話には抽象と具象のスパイラルが必要なのだと改めて感じました。

先日の対話を振り返った時、頭に浮かんだことを少し感想として記しておきます。

例えば、原因不明の不調が続いたとき、医者に診てもらって病名が分かると治療する前でも何かほっと救われる気がします。昔なら祈祷師が先祖の霊が原因とか言ってお祓いをするだけで病気が治ったりすることがあったようです、自らの不幸の原因探しに救いを求めることは人の自然な行為だと思います。

一方で因果の法則を起きていない未来のことにまで拡張してしまうことはよくありません。「この大学の合格レベルは偏差値65以上だ」とか、「〇〇株式会社にはあなたの大学の出身者はいません」というようなエビデンス?(前例?)を見せつけられて、あっさり諦めてしまう人が多いように思います(私もその傾向がありました)。
蓋然性を因果性と混同してはいけません。

ちょっと考えてみればわかることですが、この世に出てきた原因が受精だとしても、どの母親から生まれるかは偶然によるものです(中には前世の因縁で決まっているという人もいますがエビデンスはありませんね)。
私の人生を振り返っても偶然の出来事が複雑に絡まりあって生きてきたのだと思うことが多々あります。

我々の生きる世界は偶然性に満ちあふれているのなら、”たまたま”起きたことに注視して適切に反応して行動することがベストだと思います。それが自分を縛っている科学的思考の枠から抜け出す第一歩ではないかと思います。

”たまたま”の出来事は日常的に発生しますが、自分に感受性がないとつい見逃しがちです。「心がはっと動かされるときはどういうときか」という問いが出ていましたが、まさにそれが偶然に対する感受性を高めることではないかと思います。

つやまさん
 ものごとを科学的な枠組み(因果律や帰納法)で捉えることで、何か本質的なものを取りこぼしてしまうのではないか、という今回のテーマは、日々の生活の中でふと感じる虚しさとも関連していそうで興味深かったです。ロジカル偏重への違和感の話から、言葉の不自由さや、人間の認識の限界の話など、だんだん哲学的な話になっていき、この問いの根の深さを感じました。後半は論理的思考の対極にあたるような、想像力や偶然性、魂、センス・オブ・ワンダーの感覚、などが話題にあがっていて、このあたりに人生の限界効用逓減を打破するためのヒントがありそうな気がしました。案外、「外側」は「内側」にあるのかもしれない?
 印象的だったのは、言葉には限界があるが真理の手触りは表現できるのでは、という話。言葉には世界を二分法で切り分けていく面もある一方で、文学は取りこぼされているものを言葉によって掬い上げようとする営みだと感じます。
 最近読んだ千葉雅也さんの『勉強の哲学』という本で扱っているテーマにとても近いものを感じました。無意識に囚われている価値観から自由になるための自己破壊としての深い勉強について書かれている面白い本です。

しょうごさん
 今回「非科学的なことをどう構想するか。」というテーマを出させていただきました。そこで「科学的」という言葉を使いましたが、これは実際の科学ではなく、人の思考を規定しうるなにかをあえて、「科学的」とかなり乱暴に名付けました。またこの人を規定しうる思考(読書会で出た話だと、因果、二分法、帰納法など)も悪だと思っているわけではなく、生きていく上で必要な思考だと考えています。ただ、それだけ生きていける人もいるかも知れないけど、少なくとも僕は、なにかそこで不自由さを感じてしまう所がある。この問いは自分の中で切実な問いだと捉えていました。しかし、人を規定しうる思考も不自由さも雲のように掴むことが難しく、正直何が問いなのかもよくわからず、結果的にたどたどしいしゃべりになっていました。ただ、このたどたどしくなるようなことの中にしか、僕にとっての切実な問いはないのではと感じています。この問いを考えるようになったきっかけとして、具体的に自分が急に仕事にいけなくなったことや、文章を書くときの不自由さを例として出しましたが、きっかけがあってこの問いが浮かんだのかも、昔から考えていたか、急に浮かんだことなのかも正直わかりません。また、僕自身この問いを心の問題として話し、解決策を提示していただきましたが、これが原因で精神的な不安に陥っているのかどうなのかもよくわかりません。この問いを心の問題と規定してしまったことに対して、今考えてみると多少違和感があります。なぜなら、心の調子がいいと感じていたときですら、この問いは傍らにずっとあったような気がするので。このよくわからないけど、切実な問いを考えること、道のない荒野でぼちぼちと歩くこと、これをやってみたいという衝動になりテーマに挙げさせていただきました。
実際にこのテーマで話してみて、やっぱりもどかしい気持ちで話していました。うまく伝えられない部分も多く、また、安易に話してしまい、読書会のあと後悔してしまう部分も多かったです。しかし、他の人の考えを聴けたことで、その中で自分にとって合う、合わない意見はありましたが、それによって、自分の考え方を再認識できたことは有意義であったと思います。
 読書会では様々な話が出ました。因果の外に出るという話と、必然性と偶然性の話になり、そこで「無人島に住む」「普段会わない人と会う」という実践的な話が出ましたが、そういった外的な方法論よりもーもしかしたら、それを実践することで何か考え方が変わるかも知れませんがー、内的な問題として語られていた時に、僕にとって必然性と偶然性というのは環境など外的なものではではなく、内的なものだと整理できました。人は常にどんな状況でも偶然性を感じることができる。それは生活のルーティーンだと思われているご飯を食べているとき、お風呂に入っているとき、仕事をしているときなど、全てにおいて感じることができると信じています。また、初対面の人に会う、行ったことのない土地に行くなどしても必然性しか感じることできない場合もあります。そして、偶然性に触れると、どうあがいても感情が動いてしまう、考え方のパラダイムシフトが起こってしまう。それは意識では操作不可能な体験です。もし操作されてしまうとそれは必然性になってしまいます。なので、偶然性に出会う方法論は存在しないのです。
 今回印象的だった発言をうる覚えですが挙げさせていただきます。

・どういった時に人は感動するのか

・知性に情報の保有量は関係があるのか

・自分がある対象に対してどう考えたのか、どう行動したのか、それをメタ的な視点から観察し、白紙の状態からそのプロセスを書き込んでいく

・鬱は悪いものではなく、人の心のバランスから考えて必要だという考え方

・千葉雅也『勉強の哲学』

原有輝さん
 あまり考えないことなので刺激になりました。話の広がりという意味で課題が残りました。今の時代に科学の外で思考するのは、難しいかもしれないと思いました。

よしだ
 因果関係などの定められた思考様式からどのように抜け出すのか、みたいな話をしました。僕個人としては、自分の内にあるものをなるべくそのままの形でどう表現するのか、という解釈で考えていました。
 因果関係などを用いて表現しなければならないといったことは、相手がいるから生じる考えなのではないかとも途中思ったりしました。そしたら無人島に行くのはどうだろう、みたいな話が出てなるほどと思いました。しかし誰かに伝えたいという気持ちもあるということで、それは確かにそうだと思いました。
 明確な答えは出ませんでしたが、終わった後の雑談の時間で、「文脈をつくる」という話が出て、これがもっともしっくりきた考えに僕には感じられました。なにかテーマがあったときに、一般化すればするほど、間違いではないのだけれど求めているものではないと感じることがあります。人と協力する場合など共通解が必要なときは別だと思いますが、個人の問題と向き合うとき、納得できる答えはとても個人的な文脈の上に成り立っているように今のところは思っています。そしてその個人の文脈で話をしたとき、不思議と周りも納得してくれるように思います。不思議。そして、個人の問題とはどこまでを個人の問題として捉えていいのか、という疑問も新たに生まれました。

2022年5月29日:「本当かフェイクかの判断をどのように行なっていますか?」

 今回のテーマは「本当かフェイクかの判断をどのように行なっていますか?」でした。

〈持ち寄られたテーマ〉
・世界の境界について。ジャンルの分類など(フィクション/ノンフィクションなど)。分類そのものに対する疑問(日本人/日本人以外など)。
・本当かフェイクかの判断。どうやって感じているのか。
・言葉は現実を表せられないような気がするが、一方で人間は真実をもとに生きていかなければならないことについて。
・本当かフェイクかの判断をどのように行なっていますか

おおにしさん
・本当かフェイクかの判断をどのように行なっていますか

私がこのテーマで本当に聴きたかったことは、皆さんは何かを判断するとき
どのような基準で行っていますか?ということでした。後で気がつきました。
後半、神さまの話へシフトしたのは、私が持論を述べたことが原因しているかと思います。

私の持論は、何か判断・決断する時、自分自身の思考だけでない神秘的な
サムシングがそこに寄与しているのではないかということです。
それを私は「神」と仮に読んでいます。守護霊の方が言葉としては近いかもしれません。
「神」は私が何かを決断しようと悩んでいる時にヒントをくれます。
ヒントはどんな形で私に現れるかはわかりません。他人からのアドバイスだったりたまたま立ち読みした雑誌の中の言葉だったり様々です。
アクシデントという形で現れることもあります。
実際、電車に乗り遅れて運命が変わったことがあります。
これは私の「神秘主義」と言えるかもしれません。

「神」からのヒントに気づかず、失敗したこともあったと思いますが、ここまで無事に生きてこられたのは、私の「神」のおかげだと思っています。
これは私の「神秘主義」といえますね。

私の持論について、皆さんがどう思われるか機会があればぜひ聞いてみたいです。

よしだ
 本当かフェイク(ウソ)かというよりも、正しいか正しくないかの判断という話がされたように思います。そして後半は神についても話が及んだことは興味深かったです。なかなか普段話さないことなので。
 神については、たとえば神の教えを信じるというよりも、神のような超越したものが在り自分あるいは人間は部分的な存在であるという意味合いで話がされていたように僕は解釈しました。そのような認識をもつかどうかは判断に影響を及ぼすのだと今回考えることができました。仮に自分たちを絶対視した場合、他は正しくないという見方になる可能性があります。そうではなく自分たちは部分であり過程である・大きな世界や時間軸のなかの一部でしかないという認識であれば、正しいとしたものでも状況依存的なものであるという前提が伴います。その前提付きであれば、他をただ間違っているとみたり正しさの基準を変えられなくなったりということが起きにくくなるはずです。
 神の存在を考えることはすなわち自分のことを考えることであり、正しさの判断について考えることにもつながっていくことに驚きました。おもしろかったです。

2022年4月23日:「教養とは何か?」

 今回のテーマは「教養とは何か?」でした。

〈持ち寄られたテーマ〉
・地球外知性が必ず読書をすると思いますか?(知性があるものは読書をするはずなのか?)
・生活に影響を与えるほどの衝撃的な本との出合い、そういう体験を聞いてみたい。例えば三島由紀夫の『金閣寺』など。
・教養とは何か?ある本によると、社会のリーダーが最低限もっておかなければいけない知識とあるけど。

つやまさん
 今日は「教養」をめぐって話しました。以下ような話題が特に興味深く感じました。

・本には文字情報以外の内容が含まれているのか。(言葉による伝達の限界について。)
・教養は社会や他者のために活かしてこそ意味があるのか。(教養は書斎にあるのか、現場にあるのか。)
・教養は否定神学と同様に、「~でない」という否定形でしか定義できないのではないか。
・生きるのに教養は必須か。教養には知識量だけではなく、常識や品の良さ、想像力などが不可欠なのではないか。
・既存の価値体系の外側や先にあるものを想像、志向することの大切さ。(いったん知識を全部捨てることも必要なのかも。)
・資本主義の良いところ、自由と豊かな生活。

最近読んだ茂木健一郎さんの本で、人工知能の知性と人間の知性は根本的に異なっており、前者が圧倒的なデータ量と計算速度を根拠にしているのに対して、後者は生物としての身体性をもって「生きる」ことが根底にあると説明されていました。また、既にわかっていることの外側を想像する能力が、人間の知性を発展させてきた、とも。今日の対話でも、教養と生きることや想像力とのつながりが指摘されていて、通じるものを感じました。ところで、茂木さんは世間的に「教養人」として認識されているのかどうか、少し気になりました。教養って難しいですね。

よしだ
 今日のテーマも何か明確な答えが出たわけではないのですが、個人的には想像力と教養が関連するもののように思えました。思えば、「教養がない」と非難されるシーンをテレビや最近ではSNSで見聞きすることがありますが、それは多少なりとも軽薄な言動をしたときにそう非難されるように思い出されます。(図らずも)軽薄になってしまうのは他の誰かの気持ちを想像することができないからではないかと考えると、教養と想像力がつながります。学問としても文学や歴史などが一般的には該当すると思われ、それらが人間や社会そのものについて考える学問だとすると教養は想像力とつながっていきます。
 教養とは考えれば考えるほどよく分からないもので、よく分からないものなのに言葉や概念として使われていることが不思議でなりません。でも人について想像するための知だと考えれば、よく分からないけれども漠然と必要に思えるもの、少なくとも気になってしまうものなのだと納得もしてしまいました。

2022年3月20日:「考えることと悩むことは何が違うのか?」

 今回のテーマは「考えることと悩むことは何が違うのか?」でした。

〈持ち寄られたテーマ〉
・考えることと悩むことは何が違うのか?
・本を読むときにメモをするべきかどうか。メモをしないと忘れそう。しかし読書そのものを楽しむというのもあるとも思う。
・本を読んだあとに自分はどうすればいいのか?知ったからには。しかし感動は薄れていく。行動に移すのが難しい。

おおにしさん
 対話しながら自分の認識がどんどん書き換わった感じがします。
 最初私は、悩みというのは選択することのしんどさ、選択した結果が自分の責任として降りかかる辛さのようなイメージで話を始めましたが、考えることとの対比、動物と人との比較、悩む・考えるの語源についての考察などいろいろな意見が活発に交わされるなかで、悩むことと・考えることについてのわたしの認識が大きく揺らいでしまいました。
 会が終了した今も、とてももやもやした状態が続いていますが、このように言葉に出来ずにもやもやした状態が「悩む」ということに繋がっているような気がします。
 問いを立て、自分の言葉で答えを見つけ出すプロセスが「考える」ということであり、言葉にできずに苦しでいる状態が「悩む」ことなのかもしれません。(暫定的な私の定義です)

 池田晶子さんは哲学者としての自分の言葉をしっかりもっていた方ですので、「悩むのは考えが足りないから」と言いきれたのでしょう。一方でヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言ったように、世界のすべてを言葉で語れることは決してないと私は思います。

 とても良いテーマだったのでいずれまた議論してみたいです。

としさん
 いつもと違うパターンで、皆さんの意見が聞けて、とても興味深い会でした。
 それぞれ考えていることが違い、近づくけどまた遠ざかるような、意見を例えると波にも似ていて、理解している間に次の話題に移っていました。メモしたのでもう少し考えて(悩んで)みます。
 私が言葉で悩むときは、英語で理解するのですが、皆さんが集まると英語、ラテン語、ドイツ語、古語と、沢山の解釈が出てきて、これもまた人が集まる醍醐味だなと感じました。
 私は、悩むってとても大切だと思ってたので、最後になるにつれ、悩みが悪いことのような流れになって少し残念に感じました。ですが、自分が思う反対の意見を聞くのが面白かったです。新しい主観を見つけました。でもきっと、やはり私はこれからも悩んでいくんだと思います。いつも有難うございます^^

Soi Tomsonさん
考えることと悩むことは何が違うのかについて思いを巡らしてみた。
様々な意見を聞き、知り、命題について深く考える良い機会だった。
しかし、悩む、考えるということのとらえ方は個人個人の主観的なとらえ方があるのだと感じた。
良い機会なので、語源について調べたところ
”悩む”は「ナユ/萎える」と「病む」の合成語という説があるらしい。身体に影響が及ぶくらい苦しい状態からきた言葉なのだろうか。読書会の中でWorryの語源も「窒息させる」からきたという意見があった。悩むという漢字からからみても「心」「凶+ひよめき」から成り立つ。

一方、”考える”は「かむがふ」からきており、「か(処/彼方)」と「むかふ(向かう/対ふ)」に分けられる。つまり「ことや先のことと向き合う」⇒「調べて/占って判断を下す(おおにしさんスゴイ!)」
という説があるそうです。

個人的には考えるの語源の方がポジティブで勇気ある行為だと感じ、悩むはどちらかというと心が深みにあるようなイメージを持った。
悩む、考えると同じ範疇にある言葉で”思う”、”想う”も浮かんできた。個人的には思い悩むという言葉もあるので悩む寄りなのかなあという印象を持った。

このようにアイデアをシェアしたり、時間をかけて思い・考えを巡らせることができるのも恵まれた環境にあるからであり、平和であるという状況に守られているからだと思います。
読書会の中でも言及されていましたが、このような限られた空間、グループの中で時事問題の話題に触れるだけでも何かのきっかけにつながるのではないでしょうか。

今回もありがとうございました。

よしだ
 今回は私が出したもやもやを(自分で)採用させていただきました。
 考える人・池田晶子さんが「考えると悩むは違う」「悩むのは考えが足りないから」とおっしゃっていたのを観たことがきっかけです。悩むことがなくなったらどんなにいいだろうと思って出させていただきました。しかしそんなに安易なものでもないように今回の時間では思いました。
 答えが出ないような問題だから悩む、そういうときは悩み続けるしかない。悩んだ末に直観が生まれるのではないか。悩むことの打開策は考えることだけではなく行動することもあるのではないかという考えが示される一方で、行動を阻むことそのものが悩みであるという考えも示される。ほかにももっといろいろな”考え”が示されました。私はこの時間は悩んでいたのではなく考えていたと確かに言えるのではないかと思いました。
 会の後の雑談の時間で、言葉にできないことに対して悩むのではないかという考えが示されました。語りえぬものはあるのだけれど、それを語り尽くしていると言えるのか、という格言(?)の紹介も。考えるとは言葉にしていくことそのものを言うのか、いや少なくとも言葉にしている間は悩んでいるのではなく考えていると言えるのではないかと今回思いました。しかし悩むことなしに考えることができるのか、悩む過程のない考えはやさしさに欠けるものになってしまうのではないかとも思います。悩むことと考えることは、それぞれに役割があるような気もしてきました。でもそこらへんはまだ分かりません。

2022年2月26日:「小説はなんで読むのか?」

 今回のテーマは「小説はなんで読むのか?」でした。
 ほかにもいくつかテーマが出ましたが、「小説はなんで読むのか?」に通じるものがあったので、今回はこのテーマを起点として話してみました。全体的に、本や読書そのものに関するテーマが多かったように思います。

〈持ち寄られたテーマ〉
・小説はなんで読むのか?
・誰もが感動する小説はあるのか?自分はなぜ感動しないのか?
・科学書はなぜ嫌われるのか?
・読書会に参加しすぎると飽きてくる。感動が薄れてくる。読書会は日常的な場所なのか、祭りの場所なのか?
・考える学問で順位を決めるのはどうなのか。芥川賞やノーベル文学賞など。
・そもそもなぜ本を読むのか。小説と実用書は目的が違うと思うが。

Takashiさん
 いつもと違った感じの会で面白かったです。
 喋ることをお酒に例えると、普段は読んだ本をつまみにお酒を飲む感じですが、今日はお花見しながらお酒を飲もうか、みたいな感じでした。
 普段の読書会を含め、喋れる会ってニーズがあると思うんですよね。勿論お金儲けにはなりませんし、よしださんみたいに上手く司会される方がいないと続かないので、誰でもできるもんじゃないですけど。
 とにかく喋るのって快感なんですよね。

しょうごさん
 普段できない非常に刺激のある会でした。
 なかなかうまく喋れなかったですが、次の機会があればもっと積極的に話したいと思いました。

つやまさん
 「なぜ小説を読むのか?」という問いは、小説を読むのが自然な自分は、あまり疑問に思ったり言語化したりしたことがなかったので、今回の対話は新鮮でした。自分は科学技術や資本主義に基づいた合理性重視の価値観(これらもある程度必要だとは思いますが、、)へのカウンターとして文学作品を必要としている気がしますが、あまり小説を読まない人がどうやってバランスをとっているのか気になっていたので、そういった話もできて興味深かったです。科学と文学はまったく性質が違うものだが、対立するのではなく寄り添ってあるべきという意見にも同意します。また、どちらも真摯に突き詰めると人間中心の狭い価値観から脱却していくようなところが共通点なのかなと感じました。

よしだ
 私は科学書をよく読むのですが、科学書と小説との対比のなかで話されたのはおもしろかったです。印象的だったのは、科学書は言われてみれば分かるものの先端を突き詰めていくもの、小説は分からないものを描くもの、という考えが示されたことでした。それぞれ好きな方を気ままに読めばいいとも思ったりもしますが、違いが分かるとその時に応じて読み分けてみたくなるような気がしました。

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