2024.05.11

記憶でつながっている。

コンピュータが出てきてから記憶の価値が薄れたような気もしてしまいますが、その記憶がなくなったら一体〈私〉はどうなるのだろうと思ったりもします。記憶というのは脳のメカニズムとしてだけではなく、人が生きる上でという意味でもとても興味深いと思いました。

 私は今『記憶のしくみ(上)』という本を読んでいます。基本的には脳の話で、神経ネットワーク内の分子的な動きや、記憶に関係する脳の部位とそれらの互いの関係性についてなど、厳密なメカニズムの話が書かれています。
 そんな本を読んで感想を共有すると、メカニズムについての話にもなりますが、メカニズムとは離れた記憶の話にもなります。たとえば同窓会などで昔話に花が咲くとか、子供の頃の記憶の方が強烈に残っている気がするなど。そのような記憶の話は、もちろんメカニズムとしての要素もはらんでいるのですが、もうすこし情緒的な面もはらんでいます。
 今は別々のところに住んでいたとしても、昔の話をしているとき、あの時のあの場所にこころを置くことになります。今となっては普段のつながりはなくても、その話をすることでつながりが復刻します。その話は記憶をもとにして展開されていくので、互いにその記憶がなければできません。時間を遡って「あの時ああだったよね」という話を共有することで、今は一緒に過ごすことはなくとも確かにつながっていたことを思い出すことができるはずです。
 記憶によるつながりは、他者との間にだけ生まれるわけではないと思います。自分という者とのつながりにも記憶は確かに寄与しているはずです。自分はこういう人間であるとか、この点においては自信があるけど逆にこれは苦手だとか。「そういう自分である」という認識のもとに〈私〉は行動したり思考したり、判断したりしているのではないかと思います。そしてその自分に対する認識は記憶の蓄積や、その蓄積された記憶の昇華の結果なのではないかという気がしています。つまり、記憶があるから過去からの延長線の上に安定感をもって生きていられるのではないかということです。言い方を変えると、自分がここにいる理由というか、それは物理的な面でも精神的な面でも過去からの連なりのなかで合理性が説明されるものであり、それによって不安を感じずに居ることができるのではないかということです。脳震盪で直前の記憶がなくなった人に遭遇したことがありますが、自分がなぜここにいるのか分からなくなることはものすごい不安定さを生じさせるものでしょう。
 頑張ったご褒美に自分に何かを買ってあげたとします。それはご褒美だから買ってあげたのであって、その前の頑張った記憶がなければただの贅沢であり人によっては罪悪感を感じるだけの結果になるかもしれません。自分がそうあること・そうしていることの合理性は過去からの連なりのなかに説明される、そんな自分というものとのつながりの生成や維持を記憶は担っているように思いました。記憶がなければ今がものすごく不安定になるのではないかということが想像されます。記憶と生きることとは、深く関係し合っているのだろうと思いました。

(よしだ)

カバー画像出典元

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#身体・心・脳

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