先日の読書会でツール・ド・フランスに代表される自転車競技を題材にした小説を読んでいる方がいました。そこで出た話題は「なぜこんなに辛いスポーツをするのだろうか」という疑問についてでした。
自転車競技は、練習はキツいし落車をすれば大怪我をする危険があります。自転車に限らず、トップを目指そうと思えばキツい練習をしなければいけないのは間違いないのでしょう。
楽しいから?お金のため?承認を得たいから?などなど、さまざまな応えが飛び交いました。国によっては兵役を免除されたいから、などといったことも動機づけになっているのかもしれません。
僕もそれなりにスポーツをやっていました。でも、プロになるなどとは少なくとも中学生の頃には既に考えたこともなく、なのですが高校も大学もそれなりに一生懸命打ち込んでいました。客観的に言えば、だまって勉強とか将来につながるスキルアップとかしていればいいのに。
そのときのことを思い返せば、そのスポーツをやることは僕にとっては当たり前であったし、ケリをつけたい何かがあったように思います。衣食住には全く関係がないのだけど、なんというか生きることには関係していた。
人間はふしぎです。客観的な合理性ではないところで動機づけられているようです。僕の感覚ではその動機づけの正体は、それが私の一部でありそれをやっているのが私だからというところにあるのではないかと思ったりします。それをしていないのは私ではないからやる。仮にやめるにしてもやめるまでに時間がかかるのは、失ったときにできるであろう穴を埋めるための時間が必要だからなのではないかと思うのです。だから客観的な指標やタイミングなどではやめられない、本人にとってはやめどきではない。
客観的には意味が乏しいことに人は熱中し、それをみて人は熱狂する。そこに他の動物との違いをみるのであればそれが人間の本質であるともいえ、そこは間違っても軽くみることはできないことだなと思いました。そして、やっぱり人間はふしぎだし変だなと思いました。
(よしだ)
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