2023.12.09

個人でも全体でもなく。

多様性と言われた途端によくわからないことが増えるような気がしています。それをよく考えなければいけないのだろうと思いますが、独りで考えすぎてもいけないような気しています。不安すぎたり孤独すぎたりしないことの上に個というのは存在しえるように改めて思いました。

 以前読書会で、現代思想に関連する本を読んでいる方がいました。最近だと『現代思想入門』(千葉雅也著)が売れていましたが、現代思想とはどういうものなのかわかりません。そこで現代思想とはどのようなものなのか読んでいる方に聞いてみました。

 現代思想とは、ナチスの件をきっかけに生まれた側面があるとのことでした。ここからは私の理解や解釈も交えて書いていきますが、ナチスといえば全体主義と結びつきます。全体を向いて大衆が思考や行動をしていく、ということです。協調性があっていいではないかと思うかもしれません。私も最初そう思いました。しかしここでいう「全体」とは、国家のことであり国家の意向に無批判に従うということを意味しています。ナチスが席巻していた社会では、全体主義の働きがとんでもないことを引き起こしました。政治的トップが決めた差別的な取り決めに基づいて虐殺が行われていく、大衆はそれを容認していくという事態が為されたということです。幹部はトップが決めたことを達成するための手段を考えて実行していく、大衆もそれに従う、たとえそれが非人道的なことでも。社会が決めた一つのことを盲信し突き進んでいく、全体主義にはそのような危険性が潜んでいるということです。

 それに反発するように盛んになった現代思想とは、取り決められた一つのことからこぼれるものに目を向けるような考えがあるのだといいます。今重要視されている多様性にも通じる考えなのだと思います。

 しかし、こぼれたもの一つ一つに目を向けるのは時間がかかります。多様性とはいくつもの解への理解をしようとすることであり、これもまた時間がかかります。さらにやっかいなのは、違いがあるものを全て正しいとするのではなく、ときには誤っている・不適切であるという判断をすることも求められることでしょう。正しさがどこにあるのかは考え始めていくとやっかいな問題であることに気づきます。私の常識や正しさを相手も共有しているとは限らず、それを一方的に押し付けることは多様性を尊重する世界では適切ではないからです。それでも、正しさ、少なくとも妥当性は見出し、互いに認め合っていかなければならないのです。

 話を少し戻して、全体主義とは、個人が考えなくなることであるとも言えます。おかしいと思ったり、嫌悪感を抱くようなことがあってもそれにひたすら従う。そうして従うことを繰り返していくうちに考えられなくなったり、おかしいと感じられなくなったりするように思います。では、なぜ従うようになるのか。

 私が以前読んだ『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著)では、個人主義によって個人が責任を背負うようになり、その不安や孤独から逃れるように全体へ傾倒していくようになったと書いてあったと理解しています。個人で考える・判断する・責任を負うことは不安で孤独なので、誰かが決めた一つのことに従ってとにかくその不安と孤独から逃れようとするということです。不安や孤独が個人を全体の一部へと向かわせる。しかしそれでは、誰かの偏った考えや悪意に利用される危険性があるということです。

 個人主義から全体主義へ、そして多様性へ。多様性とは耳障りはいいけど実践しようとするととてもやっかいだと気づいたとき、それを放棄した先にはまた全体主義的な一つの正しさの決定と従属へと向かうような気がしないでもありません。では、全体主義へと向かわないためにはどうすればいいのかと考えると、個人主義的ではない多様性を目指すということなのではないかと思います。つまり、多様性とは個を尊重することではあるのですが、個が孤独や孤立に向かわない状態で個を尊重することなのではないかということです。なんだか難しい話になりましたが、不安や孤独が生まれにくい環境でおかしさや違和感に目を向け続けることが大切なのではないかと思いました。ずっと答えが出ない可能性も高いですが、それが当たり前なのかもしれないとも最近は思ったりしています。

(よしだ)

関連するタグ

#個性・多様性

このページをシェアする

読書会

 本を読んだり、なにか考えごとをしたり、ゆっくりと使える時間になればと思っています。事前読書のいらない、その場で読んで感想をシェアするスタイルの読書会です。事前申込はあまり求めていませんので、気が向いたときに来てください。

詳しく見る >>