縄文時代の人々は、水田稲作の受け入れを数百年間保留していたと考えられます。
稲作は、朝鮮半島を経て九州北部に最初に伝わりました。そこから各地に広がっていきますが、広がるまでの時間は比較的ゆっくりであったと考えられているのです。九州北部から近畿に広がるまでに約350年、関東南部に約650年かかっていると考えられています[1,kindle670]。また、九州北部玄界灘沿岸地域から外に出るのに約250年もかかっていると考えられているのです。
近畿や関東南部、または玄界灘沿岸地域の外の人々は、稲作の存在を知らなかったのでしょうか。いいえ、そうとは考えにくいでしょう。なぜなら、縄文時代後期以降は、列島各地にネットワークが形成されており、モノや情報が行き交っていたからです。地域を越えた分業も成されていたと考えられています。
つまり、稲作のことを知ってはいたけど、自分たちの地域に取り入れることは保留にしていたと考えられるのです。
では、なぜ保留にしていたのでしょうか。
一つは、狩猟採集から稲作・農耕への切替は社会生活全般の大きな変革が伴うものであったからであると考えられます。つまり、躊躇したのです。
稲作を行うということは、水田を作るために自然を切り拓く必要があります。これは、自然と一体となって生活をしていた縄文人にとっては、大きな心的抵抗を感じることであったでしょう。
また、水田造作は大規模かつ精緻な土木事業でした。そのためには労働を組織する必要があり、狩猟採集に比べると人を管理する必要性を迫られるものでした。非階級的な社会であったと考えられている縄文時代の人々にとっては、人を管理するということは抵抗のある考え方であったのではないでしょうか。
そして二つには、実は食料にそれほど困っていなかったということも考えられます。
縄文時代の前期頃からの地球の温暖化により、獲れる食料は増え、また保存するための方法も確立されていました。したがって、数百年も保留にしていたという事実と重ねても、実は食料にそれほど困っていなかったという可能性も考えられるのです。また稲作は、洪水などによって水田を失うリスクがあり、必ずしも安定しているとは言えませんでした。
しかし、それでも稲作を導入することを選びました。
組織的で大規模になっていく他の農耕集落に、羨ましさや脅威のようなものを感じたからでしょうか。あるいは、自分たちで食料獲得を管理できるということに、安心を想起したのでしょうか。それとも、大陸由来の稲作という技術や青銅器などを用いる祭祀に、抗えない魅力を感じてしまったのでしょうか。
いずれにしても、私たちの祖先は数百年の保留の末に、大きな変化を受け入れることを決断したのです。
〈参考〉
1.藤尾慎一郎著『弥生時代の歴史』(講談社,2015)
2.画像元のフリー写真提供者:https://www.photo-ac.com/profile/2396340
(吉田)