読書会では、感想の共有が終わったあと20分くらい会を開けたままにしています。なにか話し足りない・聞き足りないことがあった人は、残って話せればいいなと思っているからです。この時間はフリータイムなどと呼ばれており、参加は自由なので帰る人は帰ります。
先日の読書会のフリータイムでは、「読書会っていろんなものがありますよね」という話になりました。参加者の方の一人がいろんな形式のものを体験しているようでした。体験しているのは主に哲学・哲学書を扱うもののようでしたが、一つの形式としては参加者同士で気になった点を取り上げて話し合うというものがあるといいます。この形式では、参加者同士が横のつながりで勉強っぽさはないものの、同じセンテンスを巡って割と長く話が続いてしまうこともあるのだとか。そして二つには、先生のような人がおり、出た意見などに対して比較的正否の回答が返ってくるというものがあるそうです。この形式では、着実に進んでいるという感覚は得られるものの、若干ゼミっぽさが出てくるのではないかという意見も出ました。
どちらがいいということもなく、一つ目の方は確かに進んでいる感覚は得られないかもしれませんが、参加者の方々がその話している時間自体を楽しいと思えればそれもいいですよねという話にもなりました。
こういう話に結論のようなものを見出すのは難しいのですが、私は哲学というものを題材に話すのであれば、自分で考える時間の長さという点は見逃せないのではないかと思いました。
哲学をするのも哲学書を読むのも、そこから直接的に答えを得るのは難しいのではないかと考えています。哲学者が本に記したことの結論だけ取り上げてもそれだけでは何を言っているのかよくわからないことが多いように思うからです。それよりも、そのテーマを扱うにいたった視点であったり、思考の過程に意味があるように思います。そこには、自分がもっている常識に反するものや無意識には思っていたかもしれないことに気づかせる慧眼のようなものがあります。
いつも当たり前に携えているものであれば、すぐに受け入れることができ反応も難なくできます。しかしそうでないものであれば、受け入れることにストレスが伴ったり反応がすぐにはできなかったりもするはずです。
さきほどの読書会の二つの形式を思考のために拡大解釈して取り上げると、談笑のようなコミュニケーションでは自分よりも場の方に考える主体が移り過ぎて自分のなかで考えるということが足りなくなるのではないかと思いました。ただでさえ難しい視点や言葉が並ぶ哲学書なので、自分のなかで考える時間もある程度は必要になってきます。それに対して先生のような方が仮に答えを教えてくれる場合でも、そこに自分で考える時間が介在しなければ既存の自分の思考や認識に馴染ませることができないのではないでしょうか。新しい視点や認識を得て自分のものにするということは、既に自分のなかにあるものを一度壊して再構築するという手間と時間がかかると思うからです。
どのような話題なのかどんな時間を求めるのかなどによって、どんな会であるのがいいのかは変わってくると思いますが、時間をかける・時間がかかることは必然的に伴うことがあるということを思い返すきっかけになりました。
(よしだ)
過去の読書感想はこちらに載せています。
〈読書会について〉
事前読書のいらない、その場で読んで感想をシェアするスタイルの読書会を開いています。事前申込をあまり求めない、出入り自由な雰囲気です。スタンスや日程などについてはこちらをご覧ください。