福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』を読んでいて思ったことを少しだけ書いてみたいと思います。
印象に残っていることは、私たちの身体は日々、物質的に入れ替わっているということです。解釈を交えた表現になっていますが、食事として摂取した物質が体内でどのように流れていくかを観測する動物実験において、そのような結果が示されたということでした。食べたのものが食道・胃・腸を通して排泄されるのではなく、内臓一つ一つ、細胞一つ一つに、それらの構成物質として蓄積され、そしていずれ体外に排出されるのです。つまり私たちを構成している物質は日々入れ替わっており、(おそらく)一定の時間が経てば総入れ替えに至るのだと思います。
言われてみれば当たり前に思えることかもしれません。目に見えるところでも、皮膚や毛などが代謝によって身体から離れていき、新たにつくられています。そのような代謝が目に見えやすい体表だけで起きているのではなく、体内でも起きていて、目に見えないような微細な細胞レベル(タンパク質レベル?)でも起きているということです。
しかし改めてそのような事実を知ると、ではワタシとは何をもってワタシとして定まっているのかということにもなってきます。どこかの哲学者のようですが…。今、自分の身体として認識しているものがどんどんと入れ替わり、イマ・ココの身体とは別のものになっていくのです。
脳さえ同じであれば、とも思うかもしれませんが、脳ですらも物質的な話だけをすれば入れ替わるのだと思います。また、そもそも脳だけで私たちの身体は司られているわけではないと考えられており、私はこの考えに共感しています。記憶においても、何かに触れた皮膚感覚で記憶が想起されたりしますし、身振り手振りを交えた方が思考が良く働いたりもします。脳とは器官のうちの一つでしかなく、やっぱり私たちは全身で生きているのだと思われます。
少し話が逸れましたが、物質的な入れ替えが起きても、ワタシがここに在り続けるということは、何か等身大の精神のようなものがあるというのが一つの見方になってくるのではないかと思いました。科学的にどうかということは一旦置いといて、イメージとしてはそのように思われます。
これはヒトに限った話ではないと思いました。例えば企業にしても、創業間もないところは別にして、老舗企業では従業員も創業者すらも入れ替わっています。なんなら、売る商品やサービスも、本社の場所も変わっているかもしれません。しかしそれでも、その会社はその会社として存在しています。三菱と言われれば三菱のイメージがあり、浮かぶのは岩崎弥太郎の凛とした濃い顔です(何が浮かぶかは人それぞれでしょうが…)。
私たちは身近ないろいろなものに、物質的なモノとしてではない、抽象的な何かをみているのだろうなと思いました。そしてそれは、想像や空想の範疇にとどめずに、確かに存在するとしていいのではないでしょうか。なにせ、物質的には入れ替わってもワタシはワタシとして存在しているのですから。
話の方向が見えづらくなってきましたが、目に見えないものでも、もう少しざっくりと捉えてみたり、モノとして存在するかどうかだけが実際に在るかどうかの基準にはならないのだと感じられました。私たちが生きる世界は、あいまいでもあり、だからこそ広がりもあるという、何だか少し不思議な気持ちになりました。
(吉田)