今週の水曜日に、「弱いロボット」をコンセプトとして研究をする豊橋技術科学大学の岡田美智男先生にお話を伺ってきました。お話を伺う際は事前にテーマを決めさせていただくのですが、今回のテーマは「人の不完結さから考える私たちの生き方」でした。
「弱いロボット」とは、何でもできる高機能なスーパーロボットではなく、どこか頼りないけどだからこそ助けたくなるようなロボットです。例えば、ゴミは拾いたいけど自分は拾う能力がない、けれどもゴミを拾いたそうな仕草をしているから、周りがついつい拾ってあげちゃう、そんなことを促すロボットとか。まだ言葉を覚えていない赤ちゃんのように「む〜む〜」という発声だけをする、するとついつい周りも気になって話しかけちゃう、コミュニケーションの媒介になるロボットとか。主に、コミュニケーションや人の集まり、時には協調的な活動をも促すロボットです。
このような研究をする先生にお話を伺いたいと思ったのは、研究を通して「人のほんとうのところ」みたいなものが客観的に見えているのではないかと思ったからです。
ロボット研究の世界では当初、なんでも最初からプランを立てて、正確に返答するようなロボットが研究されていたのですが、どうも処理が複雑で重すぎるし、発せられた言葉も人同士の会話とはどうも違う、という違和感のようなものが一部では抱かれていたそうです。
そこから、人と共にあるロボットとはプランありきの高機能のロボットでいいのか、または人とはそもそもロボット研究者が描いているほど高度な知能だけを用いて生活をしているものなのか、というような疑問が生じ始めたというように解釈しています。
そのような背景から始められた研究では、人同士の関係のあり方とか、人そのものについて見つめ直すきっかけになっているのではないかと思い、今回のテーマにさせていただきました。
個人的に興味深く、また言われてみれば確かにそうだよなと思ったのは、歩く時や話す時は、意識的に考えているばかりではなく、反射的に行為を繰り出しているということです。
例えば、六つの足を持つ昆虫のようなロボットがあります。そのロボットに不整地を歩かせる実験では、ロボットに不整地の凹凸などのマップを学習させることなく、歩く中で足の踏み出し方を調整しながら不整地を歩くことができるのだと言います。つまり、プランがなくても歩くことはできるし、歩くことを頭の中だけで考えているわけではなく、周囲の環境との交互作用の中で、不整地を歩くことが成立していくということです。
このようなことは会話に関しても同様に言えます。人同士で仮に数分間の会話を行う場合でも、最初からその全貌が分かっているわけではなく、相手の反応によって会話の方向は変わっていくし、そもそも自分の発話も相手の反応を見ながら言葉を試行錯誤して繰り出していくはずです。
決して自分一人の頭の中で最初から完結しているわけではなく、周囲との関係性の中で完結していくということが言えるのです。
歩く・会話するとは、ごく単純なものですが、私たちの生活の決して小さくない部分を占め、これらの積み重ねで生活が成り立っているとも考えられるかもしれません。また、不完結な行為は歩く・会話するだけではないはずです。
このような人の行為の不完結さに目を向けてみると、「先を見越して行動する」というようなことは、大切ですが、それを重視する時はあまり多くなくてもいいと言えるのではないかと考えられるのです。
言い方を変えると、一歩を踏み出さないと次は見えてこないし、そんな考え方を行動の主体に置く方が適切なのではないかということです。
先を見越そうとしすぎると動けなくなることがあります。ただ実は、人の行為の大部分は最初は不完結なのが当たり前ですし、行為の意味は後から分かるのではないか、ということです。そんなことが「弱いロボット」を研究する岡田先生の知見から見えてきたので、これからブックレットにまとめていきたいと思います。
今週もおつかれさまでした。
そういう知見のことだけではなく、これから先いろんなロボットが出てきそうで、おもしろくなりそうだなとも思いました。ちなみに、岡田先生のラボのホームページには、いろいろな弱いロボットが紹介されています。
(吉田)