2021.07.31

価値観の学び直し。

 人の価値観は、言動のひとつひとつに滲み出て、人間関係や生き方に大きな影響を与えているものであると感じられます。また、変えることは容易ではないその人の本質であるようにも思えます。しかし一方で、世代が1つ違っただけで価値観が大きく異なることも、日常的に感じることではあるでしょう。会社への帰属意識だったり、結婚や子育てに関することだったり、あるいは最近では自然環境との共生意識に関することだったり。考えるまでもなく当たり前と思っていることに、同じ時代に生きているのに少し年齢が異なるだけで、大きな隔たりを感じることがあるのです。人の価値観とは、一体どれくらいの根深さをもつものなのでしょうか。

 社会心理学という学問分野があります。まだ何度か表面的にしか触れたことはありませんが、社会環境が人の心理に与える影響や、人が集団になったときに生まれる、個体では生じえない集団的な心理などについて知見を深めている分野だと解釈しています。人間の感情や価値観や選択は多分にそのときの社会環境に影響を受けており、また個人の足し算がそのまま集団の性質になるのではなく、集団化することでまったく異質なものに変貌するというような性質を教えてくれる学問のように感じています。
 社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900-1980年)は、著書『自由からの逃走』[1]の中で次のようなことを記しており、印象的でした[1,P102]。

内的な強制はあらゆるエネルギーを仕事へと準備させるのに、どのような外的な強制よりも強力であった。

ここでいう内的な強制とは、個人を縛り付けてしまうような考え方や価値観という意味合いで使われています。よくモチベーションの心理学では、「内発的動機付け」という言葉が用いられますが、それとは似て非なるもののようです。内発的動機付けは、その行為自体を好きでやっていたり自分なりに意味や価値を感じてやっていたりする場合に生じる活動の源泉です。それに対してフロムがいう内的な強制とは、個人が何らかの力や過程によって屈服させられるように備わってしまった、観念や呪いのようなものであるといえます。また外的な強制とは、食べるのに困るから仕事をする、というような必要性を意味するようです。つまりフロムは、普遍的に生じうる必要性よりも、個人の内に備わった観念の方が、人を仕事やその他の活動に突き動かす強制力をもつというのです。
 では、内的な強制とは、具体的にはどのようなものをいうのでしょうか。どのようにして備わっていくものなのでしょうか。

 『自由からの逃走』の文脈から考えると、内的な強制を生じさせたもののひとつの例としては、カルヴァン(1509-1564年)の「予定説」という、キリスト教のひとつの思想が挙げられるようでした。
 予定説は、神に救済される者と救済されずに滅びに至る者は、あらかじめ決められているとする思想です。つまり、個人個人の運命は生まれたときにあらかじめ決まっているというのです。このような思想を受けたとき、人はどういう考えを抱いたり行動を起こしたりするのでしょうか。運命があらかじめ決められている言われたら、頑張っても無駄だという考えを抱き無気力になってしまいそうです。しかし実際は、それとは逆だというのです。
 多くの人は自分は救済の対象でありたいと思うはずです。しかし自分がその対象であるかどうかは、誰も分かりません。すると、救済の対象となるのはどういう人物なのだろうかと考え始めます。そしてその結論として、なにかで成功したり、人から認められたりしている人物が救済の対象であろうと考えるようになるのです。そうすると、自分は救済の対象であるのだと自ら示すために、成功や承認を得ようと努力をします。誰も分からないから自分がその対象であろうと信じるために勤勉になるのです。こうして、勤勉や努力が絶対的な善い価値観として備わり、その人を動かす内的な強制力となっていくようなのです。言い方を変えると、何かを為すために勤勉であろうとするのではなく、勤勉であること自体を目的とするようになるのです。そしてフロムは、このような思想なしに資本主義の発達はなし得なかっただろうとも言っています[1,P102]。

 このような勤勉の起源ともいえるような思想や論理を知ったとき、なんだか少し恐ろしくなりました。勤勉や努力を善とする考えは、カルヴァンのような誰かによって植え付けられたものなのか、と思えてしまうからです。善悪の判断や好き嫌いといった、人そのものを表すような価値観が他者によって定められたものであるとは、あまりいい気はしません(実際にそうだと言われれば、それまでなのですが…)。もっともフロムは「指導者の心理と支持者の心理という二つの問題は、もちろんたがいに密接に結びついている」とも言います[1,P74]。つまり、その時代の人々に広く深く浸透する思想は、思想の提言者が一方的に植え付けられるものではなく、その時代の人々の精神状況に合致したものでなければ浸透しないと言えるようなのです。しかしながら、まっさらなこころや、どこか不安や不満があるこころに、それらしい言葉や思想が投げかけられれば、それを答えとして受け入れてしまいそうでもあります。〈私〉の価値観は、何によって作られているものなのでしょうか。

 このような、価値観に強く影響を与えるような外的な思想の力を知ったときに、2つ思うところがありました。
 1つ目は、社会的に喧伝されている思想には、自分なりの考えや感覚をもって向き合っていかなければいけないということです。フロムはドイツ生まれのユダヤ系の研究者ですが、ナチスの台頭に伴いドイツを追われアメリカに帰化したという経歴があります。『自由からの逃走』も、民主主義を勝ち得た人々がなぜ自由を捨てて権力が集中し偏った思想をもつナチスに傾倒していったのか、ということを一つの主題としているようでした。それから時代は変わっても、なんらかの思想を植え付けようとする人はおそらくどこかにおり、しかし他方で、多くの人で共通の思想をもたなければ同じ方向を向いた協力活動は困難であることも確かです。社会的な思想は人間が生きていく上で必要なものなのでしょうが、その一方で自分なりの見定めや批判は必要なことなのではないかと思いました。
 2つ目は、すべてではないまでも価値観が外的な思想によってつくられる側面があるのであれば、自分なりに変えていくことも十分に可能なのだろうと思ったりしました。価値観は絶対的なもので変えられないと決めつけてしまう必要もなく、その起源を探ってみたり、なぜそういう考えを抱いているのか解きほぐしていくことで、少しずつ変えていくこともできるのかもしれません。先に引用したフロムの「内的な強制はあらゆるエネルギーを仕事へと準備させるのに、どのような外的な強制よりも強力であった」には、働きすぎや追い込みすぎにつながるような観念の元をみているようにも感じました。どこかおかしいのではないかと感じてしまう価値観があるとき、それは知識やスキルの学び直しをするように、少しずつでも変えていくこともできるのかもしれません。また、世代を越えた理解やコミュニケーションにおいても、価値観の学び直し・捉え直しは重要になってくるようにも感じます。

 価値観は自分の性質にもとづいて備わるべくして備わったものであるように思うこともあるかもしれません。しかし、大きな目線では時代ごとに人間の価値観は異なるようで、そのときの社会によって備え付けられた側面も大いにあるようです。決して絶対的なものではないと捉えて、自分なりに剥ぎ取ったり、解釈し直したりできるものなのではないかと感じました。また、そもそもその価値観の起源がどこにあるのかという視点は、とても重要なことに思えます。価値観の元になっていそうな思想の成り立ちや多様性を知ることで、決して今のものに縛られる必要はないと思えるのではないかと感じました。



〈参考図書〉
1.エーリッヒ・フロム著/日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社)

(吉田)

カバー画像出典元

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