2020.08.20

分からないことは分からないまま。

「言葉の本質は任意の記号と一定の記憶心象の結びつきですから、記号の相手方の記憶心象が曖昧なままだと、記号は音韻記憶として覚え込まれることになり、意味のない状態が生じます」[1]
これは、記憶障害や認知障害を専門とする山鳥重氏が、著書『「分かる」とはどういうことか』の中で記していることです。見たり聞いたりする言葉と、あらかじめ持っている記憶心象が結びついた時に「分かった」ということになるのだと解釈しました。

 ここから考えたことが二つありました。
 一つは、相手に分かってもらうためには、相手のもつ記憶と結びつくような表現を選ぶ必要があるということです。発している言葉が相手の中で記憶と結び付かなけれなば、相手は分かったという感覚を得られないのだということを確認できました。相手のバックグラウンドなどを考慮しながら言葉を選ぶ必要があるということであり、コミュニケーションの繊細さを改めて考えさせられました。

 もう一つは、誤った記憶と結びついてしまう怖さです。言葉はそれ自体は一つですが、相手のどのような記憶心象と結びつくかは発信者側でコントロールすることは困難です。
 たとえば、「沈まぬ太陽」という言葉を見たり聞いたりしたときに、心に浮かべる情景は人によって違うはずです。アフリカの雄大な大地に沈む太陽と、そんな場所で自身のサラリーマンとしての野生勘を研ぎ澄まさせるような情景を浮かべる人は、おそらく山崎豊子の『沈まぬ太陽』を読んだり観たりしたことがある人でしょう。ですが人によっては、青春時代に親友と暗くなったことにも気づかずに川辺で夢中で語り続けた情景を浮かべるかもしれません。または、仕事に失敗した記憶を早く薄れさせたいと思いながらオフィス街をとぼとぼと帰った日の情景を浮かべるかもしれません。

 このように、言葉と結びつく記憶心象は人によって異なり、それゆえに意味することも湧き上がる感情も異なるのだと考えられます。このような言葉の多義性が、例えばSNSでの炎上などをもたらしているのではないかと考えられます。
 普段から一緒に時間を過ごしている人であれば、相手の言葉が何を意味するのかを推察できますが、付き合いが浅い人やマスに向けたコミュニケーションでは困難であることの方が多いはずです。

 相手が分からない場合、無理に分からせるのではなく、分からないということをお互いに確認するに留める方が適切であると思いました。
 山鳥先生は著書の中で、福沢諭吉が『学問のすすめ』の中で英米の概念である「権利」や「義務」を言葉をくだいて説明しようとしていたことを挙げています。しかし、人民が主体である民主主義という概念が日本にはまだ持ち込まれたばかりの時代であったため、人々は記憶心象と結びつけることができず、分かったとは言えなかったであろうと推察しています。
 この時福沢諭吉が人々の分かったという反応を得たいがために、人々にとっての分かりやすい表現を使ってしまっていたらどうなっていたでしょうか。人々は「権利」や「義務」に対する誤った理解を後々にまで引きずっていったのではないかと考えれます。新概念である「権利」と「義務」を分からないまま心に留め、それがどういうことなのか時代の進みと共に徐々に分かっていくことが適切であったのだろうなと思いました。

 相手に何かを伝える時は丁寧に噛み砕いて説明し、分かってもらえるのが一番いいと思います。
 でも、分からないようなら、分からないことを確認してひとまず終わりにするのがいいのではないかと思いました。ちなみに、ここでいう分かる・分からないは理解力のありなしについて言っているのではありません。分かるということが記憶心象との結びつきによるものなのであれば、経験や知識の違いによってどうしても分からないことが人によってあるということです。

 分からないことがあることを前提に、分かるのが一番だけれど、分からないなら分からないことを確認して留めておく。そしてその引っかかる気持ちを、新たな経験や知識と結び付けていくことで分かるにつなげていくのが、発し手にとっても受け手にとってもいいのではないかと思いました。

〈参考〉
1.山鳥重著『「わかる」とはどういうことか ー認識の脳科学』(筑摩書房,2014)
2.画像元のフリー写真提供者:https://www.photo-ac.com/profile/1817920

(吉田)

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