(文量:新書の約18ページ分、約9000字)
土曜日はミヒャエル・エンデ著『モモ ー時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』を使った読書会でした。いつもの読書会では、自由に読んで感想を交換するのですが、今回は「時間を奪われるとはどういうことか」というミニテーマを設けてみました。そう思い立ったのは、資本主義的な社会への批判ではなく、時間そのものに焦点を合わせて話してみたかったからです。今の社会は便利で効率的になっているはずなのに、なぜだか忙しさは解消されません。そこが不思議であり、豊かに生きていくために目を向けてみたいことであると思っていました。
読書会は、特に読む箇所などを定めずに行ったので、みなさん読む場所も着眼点も違いました。ただ、おおむね『モモ』で表現されている「時間とは何なのか」「それが奪われるとはどういうことなのか」に関心が寄せられていたように思います。ここでは、そこらへんを中心に読書会で出た話題を紹介し、考えをまとめてみたいと思います。尚、参加者から任意で感想をもらっておりまして、こちらの1月16日のところに感想を載せています。
時間は数字ではない
時間と言えば思い起こすのは時計であり、時計には数字が刻まれています。しかし、よくよく考えてみると、時計というのは後から作り出された一つの尺度でしかないのだと思われます。私たちは、太陽が昇って活動的になり沈んで休み始めるまでの一日という時間、作物が豊富に獲れる秋などの季節という時間、成人したと認められる二十歳などの人生の節目の時間など、1分1秒と数字的に刻む時間だけではなく、もう少し意味をはらんだまとまりのある時間をもっています。このような時間の方が、文明社会を想起させる時計の時間よりも、歴史的に古く自然な時間のあり方なのではないかと考えられます。
『モモ』はおそらく、ゆったりとした時間の流れの中世から、速く合理的になった近代への時代の転換期を背景に描かれたものです。そこには、時計の時間を絶対のものとして定量的・合理的に見すぎることで、逆に人々の時間が失われていく様が描かれています。床屋を営むフージーさんを紹介することで、その様をイメージしていきたいと思います。
フージーさんは、自分の腕に自信があり、お客さんと話しながら髪を切ることも嫌いではありませんでした。しかし、「自分の人生はこのままで終わってしまうのか」というような虚しさを無性に感じてしまうこともありました。そんなところに、時間泥棒と称される「灰色の男」が現れます。灰色の男は、床屋の椅子に座りながら、フージーさんの時間の使い方をどんどんと聞き出していきます。お客さん一人にどれくらいの時間をかけているのか、お母さんの世話にはどうか、他にも飲みにも行っているしインコの世話もしているのか、趣味の合唱団の練習にも行っているし、寝る前には窓の外をぼーっと眺めてもいるのか、それらの時間は何時間・何分か、ということを次々と聞き出していくのです。そして、それらの時間を秒に換算して床屋の鏡に書き出します。灰色の男は、それを「無駄な時間」と断じた上で、節約を勧めます。節約していけば貯金するように時間が貯まっていき、数年後・数十年後には大資本になっているというのです。
フージーさんは、この出来事のあと、お客さんを効率的にさばき、新たに雇った使用人の労働管理を徹底し、お母さんを安い養老院に預け、インコはペットショップに売り払いました。しかし、不思議なことに、時間を節約しているはずなのに、自分の手元に時間は残らずどんどん消えていくだけだったのです。豊かになっていく感覚は得られず、性格もイライラするように変わっていってしまいました。
ここで描かれていることは、人にとっての時間とは、1分1秒という数字で表されるものではないということなのではないかと思います。お母さんなどの家族と過ごす時間、インコの世話をする時間、お客さんと話しながら自慢の腕を振るいお客さんも自分自身も満足のいく仕事をできるだけの時間、そういったもの一つ一つが人にとっての時間なのではないかということです。時間を数字的に並べたて合理的に節約しすぎると、人間的な時間はただ失われてしまうか薄められてしまうことになるのではないかということが示唆されています。
灰色の男たちの策略によって街の人々が時間節約に取り憑かれていく中で、主人公のモモだけはその影響を受けることがありませんでした。その要因はいくつかあるのだと思われますが、一つにはモモが数字という概念に明るくなかったからではないか、というのも読書会で挙げられました。本の最初の方では、モモが年齢を聞かれてうまく答えられなかった様子が描かれています。おそらく孤児に近いモモは、十分な教育を受けることもできず、また本人も教育的なことを受けることを嫌っており、他の子どもたちが一般的に持っている知識などは持っていないようでした。普通とは違う価値観がモモの中では育っていたのかもしれません。フージーさんも、数字や時間の概念はもちろんもっていましたが、自分の日々の時間が経済合理的に考えるとどうなのか、ということはおそらくあまり考えたことがなかったのだと思います。そこに灰色の男が現れて教えてしまうことで、時間を使う対象や使い方をがらりと変えてしまいます。そうして、自分の時間と感じられるものを失ってしまったのです。私たちは日々いろいろなことを人やメディアを介して教えられていますが、感覚的にでも何かおかしいと感じたら取り入れない方がいいこともあるのかもしれません。少なくとも、一度どうしようかと自分の中で考えてみる時間はとった方がいいのだと言えそうです。
時間は心の中で刻まれる
では一体、時間とは何なのでしょうか。『モモ』の中では、このように書かれています[1,P95]。
時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
「時間とはすなわち生活」と言われても、分かるようで分からない感じがします。少し噛み砕いて考えてみたいと思います。
生活とは、私たちが日々行っていること全般を指すのだと思われます。ただ、私たちは一様に毎日を過ごしているわけではなく、いくつかのイベントを重ねながら一日一日を過ごしているのだと考えられます。太陽が昇り始めた頃に目が覚めて、朝食をとって、身支度を整え、活動的な体勢になっていきます。通勤や通学の過程で家とは違うモードの自分になっていき、場合によっては戦闘的なモードに入ることもあるでしょう。そうして活発に活動を始めて、少し疲れた頃合いで昼食の時間になります。午後になっても同様に活動をし、日が暮れた頃に帰路につきます。人によっては、子どものお迎えに行き今日何があったか話しながら帰るかもしれませんし、飲み屋で一杯やってから帰るかもしれません。夕食の後は、もしかしたら残務があるかもしれませんが、余裕があれば趣味の時間に当てることもあるでしょう。そうして徐々にリラックスしていき、布団に入って一日を終えます。
一日を振り返る時にはここで思い返してみたような、今日起きたこと・やったことという、イベントや出来事ごとに振り返るのではないでしょうか。だから、時間とはすなわち生活であると言っているのかもしれません。一日という時間を、出来事としてのまとまりごとに認識し、「私の時間」としているということです。そして、振り返る時には「今日はこんなことがあった」「誰がどうだった」ということを心に思い浮かべるのだと思います。ただただ記憶を機械的に抽出して箇条書きにするようなこととは少し違うのだと思います。それを「生活とは、人間の心の中にあるものなのです。」と言っているのかもしれません。表に出ている行為そのもののことではなく、自分というものが伴っている行為が生活である、という意味合いなのかもしれません。
『モモ』の中では、心は時間を知覚するためにあるとも描かれています[1,P211]。
光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。
時計の時間を知るためには主に目がその役割を果たすでしょう。それと同じように、「私の時間」を感じとるためには心が必要だということなのです。そして心と時間に関する、このような話が続きます[1,P211]。
もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじようにね。
太字はこちらで足しましたが、これはまさに「忙しい」という状態を言っているのだと思います。古くから使われ続けている言葉は普遍性の高い意味や教訓を教えてくれることがありますが、「忙しい」という言葉もそうなのかもしれません。「心を亡くす」と書く忙しいは、心を伴わせられていない時間であり、その時間は無いも同じであると教えてくれているのかもしれません。自分の心で感じられるような時間を増やしていくことが、生活の充足につながっていくということなのでしょう。1分1秒と刻まれていく物理的な時間は、全ての人にあり一様に刻まれています。しかし自分にとっての時間は、自分の心の中で、あるいは自分とつながりのある人たちの間だけで刻まれているということなのだと考えられるのです。
システムに奪われる時間
私たちとっての時間とは時計に刻まれるものだけではなく、個人の心に刻まれるものもあるということが示唆されました。『モモ』では、個人の心に刻まれる方の時間が奪われていく様が描かれています。では、時間が奪われるとはどういうことなのでしょうか。どうやって奪われていくのでしょうか。そのメカニズムを考えるために、モモの友達で観光ガイドのジジのことを取り上げてみたいと思います[1]。
ジジは、モモと同じ都会の外れの小さな町に暮らしていました。ときおり訪れる観光客を見つけると帽子をかぶって近づいていき、大ウソだけれども人を惹きつける話をまくしたて、しまいにはお金をもらってしまいます。ジジは話がとても上手なのです。聴衆を集めて歴史にまつわる話もしますが、それも大ウソです。しかし、観光客はそれを信じて、驚き、怖い話の時には逃げ出してしまうこともあるほどでした。でもウソだとはいっても、その話はジジが自分で想像してつくりだしたものです。ウソはウソでも、ジジという人の心が通ったウソであるとも言えるでしょう。
そんなジジにも、床屋のフージーさんの時のように、時間泥棒・灰色の男が忍び寄ります。灰色の男たちにとって、ジジから時間を奪うのは比較的簡単なことでした。灰色の男たちは、「ほんとうの物語の語り手として最後の人物」というタイトルで、ジジを紹介する新聞記事を出したのです。ジジの話を聞きたい人がどっと押し寄せ話題の人となり、まもなく旅行会社に雇われます。雇われたジジは、時間表にならって話を披露するようになっていきました。それまでは観光客が来たら話をするという不規則なものでしたが、新聞に載って有名になり、旅行会社にマネジメントされることで規則的に格段に多くの回数を多くの人に話すようになったのです。話す物語を考え出すのも大変です。しかしジジは、そこは意地でも同じ話はするものかと物語を捻り出していました。しかし、さらに有名になりラジオに出て、テレビにも出るようになると、もはや限界でした。一つの題材を使いまわしていくつもの物語を作るなど、効率を意識せざるえなくなっていきました。そして、ついにはモモだけに話そうと取っておいたとっておきの物語まで大衆に披露してしまったのです。観光客に話すことも楽しかったのですが、ジジにとってはモモに話すのが特別な時間でした。誰にも話さない物語をモモのために取っておいて、モモだけに話していたのです。しかし、そのとっておきを大衆に公開してしまったのです。
そんなとっておきを披露したにも関わらず、聴衆は特に大きなリアクションを示してくれるわけではありません。それどころか、その話などすぐに忘れたかのように、また次の話を求めてきます。ついにジジは、物語のタイトルや内容のほんの一部を変えただけのコピーのような物語をつくり出しますが、それに気づく人もいませんでした。しかしながら、その一つ一つの物語の質とは関係なく、ジジのもとには名声もお金も舞い込み続けました。
しかし、あることがきっかけで自分が大衆の道化で、あやつり人形になってしまっていることをジジは認めてしまいます。自分に対する尊敬をなくし、自分をイカサマ師だと蔑むようになるのです。かつてはたとえウソでも、自分の空想を目一杯に詰め込んだ物語を披露していたのに、今はそうではなくなってしまったからです。
ジジは、小さな町で観光客に向けて自分の想像力いっぱいの物語を話していた時は、自分の心で時間を感じられていたのだと思われます。しかし、有名になりすぎてしまった後は、自分の心で時間を感じられていたのでしょうか。おそらくそういう感覚は薄かったのだと思います。自分でつくったとも言えない話をして称賛され、もう一方でとっておきを話しても反応は特に大きくも小さくもありませんでした。心に溜まるものは無かったのではないかと想像されます。
このような状態になってしまったとしても、それはジジが自分で選択したことだとか、名声を得るための代償だとか捉えることもできます。しかし、臨床心理学者の河合俊雄氏は、『モモ』を解説した『NHK100分de名著 モモ』[2]の中で、システムが後ろ側で働いていることを指摘しています。つまり、人々が時間を節約し、心を伴う時間を失くしてしまっているのは、あるシステムが働いているからであるということです。そして、実際に得をしているのはシステム側であるということも指摘しています[2,kindle461]。『モモ』では、そのシステムが灰色の男として描かれています。灰色の男は、人を型どってはいますが、実際には固有名詞もない機械のような存在です。それらが、人々に時間の節約をそそのかし、節約された時間を使って灰色の男たちが生きているという設定なのです。ジジの場合は、灰色の男が流した新聞記事によって有名になりましたが、それによって働き詰めになり、心で感じられる時間を失っていきました。その失った時間が、灰色の男たちのもとに渡っていたのです。あるいは灰色の男だけではなく、時間表を作ってひたすらジジに話をさせた旅行会社や、ラジオやテレビなどのメディアも、人の時間を使って経済的な利得を享受としていたと見ることもできるかもしれません。
現代に照らし合わせて考えてみると、河合氏はGAFA(Google/Amazon/Facebook/Apple)が灰色の男のようなシステムに該当すると指摘しています[2,kindle461]。私たちは自分の情報をどんどんとネットにあげて、さらにはSNSのための生活をするような側面も出てきています。ほとんどを無料で使えるそれらのシステムですが、実は裏側でデータを吸い取っており、それを消費喚起などに利用しシステム側は利益を得ています。人の欲求をくすぐるような改変がどんどん行われることで、私たちは絶えずシステムのために時間を使うようになってしまっているのです。あるいは、消費活動自体も、そのような側面があると考えられます。メディアや広告によって欲求がつくりだされ、それを求めることに心を奪われたり、買うためにお金を使ったりしています。そのお金を稼ぐためにも時間を使っているのです。『モモ』で示されている、時間を奪われた人たちの裏側に灰色の男というシステムが介在しているという視点を持つと、時間に対して受動的でありすぎてはいけないということが見えてきます。
充足した時間とはどのようなものなのだろう
今回の『モモ』を使った読書会では、参加者による様々な視点も助けとなって、時間に関する考えを深めることができました。時計で示される物理的時間が全てではなく、個々の人間にとっては生活における出来事単位の時間の方が、むしろ適切な捉え方なのではないかということ。それは数字や量で測ることは難しく、効率化させようとすることはすなわち時間を薄めてしまう可能性があること。そのような生活的時間は、心で感じるものであり、心で感じられないような時間は無いも同じであるのかもしれないということなど。中にはあまり目を向けたくないようなこともありましたが、ファンタジーを介して感じながら考えることができました。
では、心で感じられる、生活を充足させてくれるような時間とは、どのようなものなのでしょうか。ここまでの話を踏まえながら最後に少し考えてみたいと思います。
まず前提として、時間とは人によって異なるものであるという認識が必要なのではないかと思います。一日の出来事・一年の出来事・一生の出来事はさまざまありますが、それらのうちのどれが心で感じられる時間になるのかは人によって異なるということです。フージーさんがインコの世話をしたり寝る前に窓の外を眺めたりする時間は、フージーさんにとっては心で感じられる時間でした。しかし人によっては、そうでもないこともあるでしょう。ジジにとっては、自分の想像力を目一杯働かせて物語を作っている時間が心に感じられる時間であり、モモに物語を話している時間が一番大切な時間でした。灰色の男が床屋の鏡に箇条書きしたような、一様に並べて比べるようなものではないと思われるのです。
また、心で感じられるためにかけるべき時間の長さは、時と場合によって異なるとも考えられます。普段通りの一日であれば窓の外を眺める時間も短めでいいのかもしれませんが、何か悩むようなことや逆に楽しいことがあれば、その時間は長くなるのかもしれません。物語を作る時も、うまくいかない時やなかなか納得できない時もあることでしょう。その時は、時間までに無理やり仕上げるのではなく、時間を伸ばしてみたり、あるいは反対に早々に切り上げてしまうのもありなのかもしれません。『モモ』の中では、時間の雄大さを時間の神様のような存在であるマイスター・ホラからモモが教えてもらい、そのことを周りに話したいと言った時、ホラがモモを止めるシーンがあります。まだモモの中で言葉が熟していないから、そのことを周りの人に伝えるのは難しいだろうと言うのです。また、話しても周りの人がそれを感じられるタイミングではないということも意味していたのかもしれません。今はまだその時ではないと感じたら、少し寝かせておいたり、もう少し時間をかけてみたりすることもいいのではないでしょうか。
このように考えていくと人にとっての時間とは、静的なものではなく、とても動的なものであることが分かります。何時から何時までとか絶対にこれくらいの時間で終わらせるというような固定的でいつも同じというものではなく、人によっても日によっても違う流動的で動きのあるものだということです。もちろん三度の食事のようにルーティンがあるものもありますが、ルーティンにもその時の心に応じて柔軟性をもたせるという考えでもいいのかもしれません。
とはいえ、特に仕事においては、動的に柔軟性をもってというのが難しい場合があると思います。多くの人で役割分担をしている仕事においては、もっと言ってみると世界中の人と分業している現代においては、時計の時間を守ることは必要であると考えられます。しかし、今急速に働き方が変わってきているので、自分なりの動的さを持たせることもできるようになってきているのかもしれません。あるいは、大雑把ですが、それはAIに任せてしまって自分の時間を確保するということも出来ていくのでしょう。
習慣を変えることにはかなり意識的になる必要があると考えられます。少し前に、こんな怪奇現象が起きました。私の話になってしまいますが、ある日デジタルデトックスをしようと息巻いて、スマホを家に意識的に置きカフェに向かいました。そしてカフェの椅子に座って目の前のテーブルに目をやると、なんとそこに家に置いてきたはずのスマホがあったのです。誰かがひそかに後をつけてきて、そっと自分の目の前にスマホを置いたのではないかなどと勘ぐりましたが、そんなことはあり得ないので自分で置いたのでしょう。つまり、スマホを意識的に家の中に置いたのに、その後無意識的にスマホをポケットにしまい、カフェに入って無識的にテーブルの上に置いたのです。もう自分はスマホから離れられないのかと苦笑したことを覚えています。システム側に支配されないようにするには、かなり困難な戦いが伴いそうです。
時間とは誰にとっても一様に流れているものと捉えられがちですが、そうではなくもっと個別的に流れているもののようです。そして自分の時間と言えるものは、心がけによって、多くなったり少なくなったりもするようです。個人的には、一定程度はシステムに使われる側であってもいいように思います。それによって物事がうまく回るのであれば、それに従う時間というのも必要なのでしょう。しかし受動的なばかりでは、もしかしたら自分の時間が残らなくなってしまうこともあるのかもしれません。自分の時間を生きるためには、心で感じられる時間を自分で見つけてみたり、意識的にシステムから離れてみたりすることも必要なのかもしれません。
『モモ』の内容を要所で紹介してきましたが、ぜひ一度実際に読んでみることをおすすめします。物語なので、人づてに説明的に聞くのとは違う没入感があります。今回二度目を読み返してみましたが、また感じることが違いました。少し時間を置いて、『モモ』を使った読書会をまた開いてみたいと思っています。
〈参考図書〉
1.ミヒャエル・エンデ著/大島かおり訳『モモ ー時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』(岩波書店)
2.河合俊雄著『NHK100分de名著 モモ』(NHK出版)
〈読書会について〉
読書会の情報については、FacebookページやPeatixをご覧ください。申込みをせずに直接訪れていただいても結構です。ただ、たまに休むこともありますので、日程だけはご確認いただければと思います。
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読書会の形式や最近の様子については、こちらに少し詳しく書いています。
(吉田)