2021.01.30

先史時代が見せてくれるもの。

太古の歴史からは何が見えてくるのでしょうか。国家も文字もまだない、先史時代について振り返ってみました。粗野な環境に生きていた、おなじ人間。

 リベルでは、これまで縄文・弥生・古墳時代を題材にブックレットをいくつか作成してきました(現在は配信しておりません)。縄文時代は遊動生活から定住生活へ移行していった時期であるとされているため、定住が始まった理由や必要性に迫りました。そして、その必要性が今でも残り続けているのかを一つの切り口にして、これからも定住型であり続けるのかに考えを巡らせてみました。弥生時代は農耕が始まった時であり、自然環境を支配する側へ移行していった変革期でした。また、田畑の所有や労働の組織が始まるなど、現代を思わせる社会観への変化が起きた時でした。そのような変化の時に目を向けることで、社会が変わるとは何が変わることなのだろうかと考えてみることができました。もちろん狩猟採集から農耕へと生業が変わったということは一つなのですが、弥生式祭祀さいしが、農耕社会へ移行するか否かの一つのトリガーだったのではないかという仮説もあり、社会変化と思想の連関性を垣間見ることができました。
 このような縄文・弥生・古墳時代は、先史時代というものに分類されます。では、あえて1500年前から1万年以上前の先史時代に目を向けてみる意味とは何なのでしょうか。今回は、ブックレット作成の中で感じた、先史時代が見せてくれるものについて改めて振り返ってみたいと思います。

 先史時代とは、国家が成立しておらず文字もまだ使われていない時代、という意味合いがあるようです。古墳時代にはヤマト地域(現在の奈良盆地や大阪平野などの近畿地方中央部)に政治的中心が現れ始めましたが、地方には中央の影響をあまり受けていない地域があり独立的な自治が行われていました。その後の、聖徳太子で有名な飛鳥時代は、冠位十二階や十七条憲法が制定されるなど、国家の礎が築かれた時代とされています。先史時代の後の古代の始まりにはいくつかの論争があるようですが、政治的中心が現れ始めた古墳時代か、国家の礎が築かれた飛鳥時代が始期として示されているようです。回りくどい言い方になってしまいましたが、先史時代の終わりは弥生時代か古墳時代あたりとされているようです。
 先史時代には文字がまだ使われていませんでした。したがって歴史を記録した文書も存在せず、邪馬台国の女王とされる卑弥呼の存在を中国の歴史書である『魏志倭人伝』に求めたり、古墳時代のヤマト地域の王の存在を同じく中国の歴史書『宋書』に求めたりしています。つまり、ただ時間的に遠いというだけではなく、今では当たり前に存在する国家や文字といったものが存在しなかったのが先史時代なのです。
 そのような統治や知識伝達などのシステムが整う前の時代を覗き見ると、人そのもののことを考えるきっかけになります。人の営みの原初を見ているような感覚を覚えるのです。

 例えば縄文時代後期には、一度個別に埋葬した遺体を再び掘り起こして集め、何十体もの遺体を一箇所に埋め直すという墓が見られます。注目すべきは、これらの遺体の互いの血族関係です。現代の感覚では一つの墓には同じ血族・家族の者が埋葬されることを想像しますが、一箇所に埋め直された何十体もの遺体は異なる血族関係にあるものと考えられるのです。さらには、埋められた墓の付近には柱の穴が見られたため、上屋などが設置されていた可能性があります。つまり墓が、ある種のモニュメントのようになっていたのです。
 縄文時代には、気候の変動に合わせて、居住集団の集合と離散が繰り返されていたと考えられています。縄文時代後期は、温暖な気候であったため比較的大きな集団で定住生活をしていたと考えられていますが、その集団は異なる血族同士の者たちで構成されていたと考えられます。異なる血族同士では、協力し合うことに生存戦略としての合理性は感じても、その合理性を越えた何かがなければ長期の協調関係を維持することは難しかったのではないでしょうか。自分や家族を優先したい気持ちが当然に生まれ、気の合わない他者がいれば協力活動をすることを放棄したくもなったはずです。そのような不安定な関係を安定に保つために、集団の祖先を同じ墓に祀ることで祖先がつながっていることを意識させ、集団を一つにしていたのではないではないかと考えられるのです。
 他にも、同じく墓の話になってしまいますが、古墳も同様に人々をまとめ上げ、時には士気を高めたり、時には安寧の気持ちを抱かせたりすることに一役買っていました。古墳は、有力な豪族や王の墓とされていますが、死後に造られ始めたのではなく、生前から造られていたと考えられています。しかも、ただ遺体を安置したり祀ったりするだけではなく、プロジェクトの象徴となるような場所に墓造りを計画することで、人々にこれから何が始まるのかを示し士気を高めていたと考えられているのです。プロジェクトとは、水田開発に伴う治水や朝鮮半島への出兵などが、地域にもよると思いますが例として挙げられます。水田開発であれば水源となる山の麓に、朝鮮半島への出兵であれば出港する海の近くに造られました。これから何が起こるのか、何に力を入れるのか、何に協力していけばいいのかを、その最前線に造られる巨大な建造物を前にした人々の心に訴えかけました。あるいは時には、こんな大きな古墳がある地域に自身が居ることに誇りを感じさせたり、安心感を覚えさせたりしたことでしょう。縄文時代に比べて集団規模が大きくなり、またプロジェクトによっては地域間の協力も必要であった古墳時代には、巨大さと、精緻な直線・曲線や光の反射で威容を放つ古墳が力を発揮したと考えられるのです。
 このような墓にまつわる話を知るだけでも、人同士の協力関係は、合理性だけでは維持するのは難しそうだし、士気を高めるのにも今一つ迫力に欠けるのかもしれないと感じさせてくれます。心に訴えかける象徴的なモノ、頭だけではなく視覚をはじめとした全身で感じられる何かが必要なのかもしれないと思わせてくれます。

 さらにもう一つ紹介させていただくならば、縄文から弥生への社会変革では、180度生き方が変わったといっても過言ではない時であったと思われます。縄文時代は、狩猟採集を生業としていたため、人と自然は一体であり、人は自然と共にあるいは自然に従って生きていたと考えられます。また集団内の人同士の関係に階級差はなかったと考えられています。もちろん祭りなどを取り仕切る立場の者はいたと思われますが、その場かぎりの役割で終えていたのではないかと考えられています。生前の地位が子の世代に継承されていくような、世襲制も確認されていません。
 それに対して弥生時代は、生業が農耕へと変化することで自然が支配する対象に変わりました。大規模な水田開発や治水によって自然を大幅に改変し、改変した土地を所有するという概念まで備え始めます。また宝飾具と共に墓に祀られる者が確認されるなど、階級差や世襲が生じていた形跡も確認されています。至高の祭具であった銅剣や銅鐸は、自然界に存在しない直線美や輝きを放ち、それを中心に据えた祭り事も行われました。
 このような変革を知った時に感じたのは、人の社会はここまで変わるものなのかということでした。もちろん、1年や2年で変わったというようなものではなかったでしょう。弥生的な文化は朝鮮半島から伝来しましたが、九州北部から浸透し、周辺地域では隣で何か変化が起きているぞと様子を伺いながら、弥生文化を受け入れるかどうかの吟味がされていたことでしょう。
 農耕は、祭祀や共同体のあり方などの文化・慣習とセットで導入されなければいけなかったと考えられています。農耕は狩猟採集と違って、水田開発や治水に大規模で精緻な協力活動が必要とされます。そこには労働の組織化が必然的に伴い、管理する立場の者が現れていったのではないかと考えられます。また、自然を改変するほどの大規模な活動には、人知を越えた金属器の威容が必要だったのかもしれません。このような、思想や価値観、生の活動の大きな転換ができるということも人の一面なのだなと驚いたことを今でも覚えています。

 先史時代は、現代の高度な文明社会に生きる私たちからすると、全くの異世界に感じられます。機械はなく、構造物に使えるほど多量の鉄や精緻に加工された材木や石もなく、貨幣も文字もありませんでした。そうした粗野な環境の中で、ヒトとしてはほぼ同じ性質を備えているであろう先史の人々がどのような営みをしていたのかをみると、自分たちと比べながら共通点に普遍性を感じたり、異なる点に可能性を感じたりします。もちろん人口の規模も生きている環境そのものも違うので、先史時代のことをそのまま参考にすることはできないでしょう。しかし、人の根本のようなものを見させてくれるように感じられ、今目の前にあることを見つめ直したり、新たに何かをつくる時の基礎の一部になってくれそうに思うのです。

(吉田)

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