2021.10.16

それぞれの民俗観。

相手を分かろうとすることは違いを明らかにして線を引いていくようなことでもあるように感じます。そして分かることではじめて想像することができるようになる気がします。生活の違い、民俗の違い。

 この前の読書会で『民俗学』という本を読んでいる方がいて、そこで紹介された、人に対する見方の話が印象的でした。それは、ふだんの生活の中で普通にやっていること、という「生活」に目を向けた人に対する見方です。生活の違いをすこし大袈裟に民俗の違いと捉えて目を向けてみると、その多様さがより見えやすくなるのではないかと思いました。

 たとえば、曜日に合わせて生活をする人たちがいれば、天気に合わせて生活をする人たちもいます。工場で働いていたりサービス業に就いていたりすれば曜日がひとつのリズムになりますが、農業などでは天気に合わせていくことになります。農業では朝起きて雨が降っていれば行う仕事が変わりますし、霜が降りる前に終わらせなければいけないこともあったりします。よく見るのはカレンダーではなく空、だったりもするのかもしれません。
 ある民俗の基準が、ほかの民俗には合わないことも多々あるのでしょう。たとえば、土日休みが普通という生活の基準で土日に集中的に催し物が開かれると、天気に合わせた生活の人たちは参加が難しくなります。プレミアムフライデーなんていうキャンペーンに気分が上がることもできませんし、「華金」と聞いても「?」かもしれません。曜日などは気にしても仕方のないもの、という人たちもいることでしょう。

 あるひとつの生活をしていると、その民俗観があたり前になり、それが絶対的に良いものとして思い込んでしまうこともあるのかもしれません。すこし遠い昔に、思いを馳せてみたいと思います。

 今からおよそ1万年前、世界のどこかで農業が始まりました。それまでも果実や木の実などの植物を食料とすることはありましたが、自然にできているものをできている分だけ、採って食べるだけでした。それが農業の誕生によって、自分たちである程度コントロールできるようになったのです。
 農業の技術が世界中を巡り、朝鮮半島を経由して日本の九州北部にも稲作が伝来しました。その新しい生業を知った当時の人々はどう思ったのでしょうか。

 かつては、九州北部に稲作が伝来してから“瞬く間に”西日本各地へ広まっていったと考えられていたそうです[1]。もちろんただの思い込みではなく、九州北部で見つかる土器と西日本のものに類似性を確認したり、ある測定法でコメの存在を確認したりして、30〜50年で広まったと考えられていたようです。ただ、この瞬く間の広まりへの学者間の納得感には、ある価値観も寄与していたのではないかという見解も示されています[1,kindle669]。それは、狩猟採集よりも豊かで安定的なはずの農業の方に人々は当然に飛びついたのだろうという、狩猟採集よりも稲作や農業の方が優っているという価値観です。
 しかしその後、コメの存在を確認できる測定法の発達などによって、弥生時代の始まりは500年もさかのぼりました。稲作が、当初の説よりも500年も前倒しで始まっていたという考えに改まったのです。
 そして日本列島各地への稲作の広まりの時期も見直されていくと、九州北部から近畿に広がるまでに約350年、関東南部に広がるまでに約650年かかったとされるようになりました。いかに情報技術や移動手段が発達していなかったとはいえ、当時はすでに各地を結ぶネットワークが形成されており、人や物の交流はありました。350年や650年という時間は、稲作を大歓迎で受け入れたというよりも、長い間受け入れを躊躇していたのではないか、そこまで欲していたわけでもなかったのではないかということを浮かび上がらせます。
 もし稲作を知った狩猟採集民は両手もろてをあげて受け入れただろうと思ったのであれば、それは世界は一様に良いものへと進歩してきたという考えに任せすぎているのかもしれません。狩猟採集だって、経験と技術があれば不安を感じることは少なかったかもしれませんし、保存する技術や道具も縄文時代には既にありました。また、罠を張り、ときには動物と身体的に相対する狩猟は、血をたぎらせるものだったことでしょう。そのスリルやたぎりは、今は別のかたちで満たしているのかもしれません。新しいものが全面的に良いとは必ずしも言えないはずです。狩猟採集よりも農業の方が優れているはず、という考えがあるとすればそれは、もしかしたら狩猟採集民への時代を越えた価値観の押し付けなのかもしれません。2500年前の人々のなかには、農業へ切り替えることを納得できなかった人もいたことでしょう。

 もちろん、なにかを他者に伝えることで解決されることは多くあるのだと思います。たとえば、性別の違いだけで家の中から外に出ることを許されないような文化では、それがあたり前であり、おかしいと思っていないかもしれません。相手が疑問をもっていないことに介入していくのは、押し付けになってしまう側面もあるとは思います。しかしそのようなゆがみのある文化には、ある程度の是正の援助をした方がいいこともあるのでしょう。しかしながら、自分たちの文化や価値観を理想のものと考えて介入しすぎると、ときに大きな争いに発展することがあることも忘れてはいけないのでしょう。

 それぞれの普段の生活で得ていることや為していることは、それぞれにあるのだと思います。生活の仕方というくくりで人を見ていくと、ある大きな言葉や概念で一つにしか見えていなかったものが、違うものとして見えてくることもあるでしょう。そしてそれぞれに生活が成り立っていると考えれば、そこに良さが見えてきたり、平和になったりもするのかもしれません。


〈参考図書〉
1.藤尾慎一郎著『弥生時代の歴史』(講談社現代新書)

(吉田)

カバー画像出典元

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#価値 #個性・多様性 #生活

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