荒れ狂う火山に、鎧を着て弓を引いて立ち向かっていった首長がいたと知ったら、どう思うでしょうか。もちろん現代の話ではありません。今から1500年ほど前、古墳時代の話です。勇敢な人物です。しかしどこか現実味のない、神話的な世界の話であるようにも思えてきます。現代の知識や常識をもっていれば、自然災害に、生身の人間が武器をもって対抗しようとはしないはずです。
今から1500年前には、それが首長のとった一つの手段でした。歴史をたどったり地域を違えたりすれば、きっといくつもの現実があります。ある世界からすれば虚実とも思える知や常識のもとに、人々が生きてきた現実があるのです。いうなれば現実の多様性です。今・ここ・私が生きる世界も、違う世界の人からしたら不思議なものに映るかもしれません。
このような現実の多様性に思いを巡らせると、真実のもとにしか人は生き残ることはできない、わけではないことがみえてきます。肩の力がすこし抜けるように思えるのです。
活火山に立ち向かった首長
火山に立ち向かった首長は、2012年に実際に発見されました。群馬県・上毛野にある榛名山の麓の、5世紀末頃の火山灰の地層から、甲冑を来たまま火砕流に倒れた男性骨が発見されたのです[1,P207]。浅い溝に膝をつくように前のめりに倒れ、その先には鉄の鏃が散っていたといいます。
男性が身につけていた甲冑は、多量の鉄の小札を革や紐で綴じて作った小札甲と呼ばれるものでした。これは、5世紀中頃に大陸から伝来した最新式の武具です。短甲はひとつの古墳から複数出土することもありますが、小札甲は基本的に地域で最上層の首長墓から出土するのが基本です。したがって、火山を前に武威を示しながら倒れた人物は、首長であると考えられるのです。
首長とみられる人物が見つかった群馬県・上毛野のあたりは、古墳時代当時、とても栄えていた地域であると考えられています。榛名山の麓・井野川の上流域には、約500m四方に3つの古墳が並ぶ保渡田古墳群があり、いずれも墳長が100mを超える前方後円墳です。ほかにも、東日本最大の墳長210mの太田天神山古墳があったりと、100mを超える巨大な古墳がいくつも築城されていました。
日本最大の古墳である大山古墳(仁徳陵古墳)は、現在で墳長486mです。大山古墳は、当時の日本の中心があった大阪平野にありますが、そこと比べても栄えていることが十分にわかる規模ではないでしょうか。力をもった地方都市であったことでしょう。火山に立ち向かった人物は、現代でいえば知事にあたるような存在だったのではないかと考えられるのです。
では、なぜ知事のような見識がありそうな人物が、噴火し始めた火山に武器をもって立ち向かうようなことをしたのでしょうか。現代の感覚からすれば、もっと合理的な対策をとってほしいと思ってしまうかもしれません。しかし、その世界では、それがひとつの正しいあり方だったと考えられるのです。
違う一つの現実
現代では、地域や国の長が自ら武力を振るうところはあまり見られなくなりました。言葉で武威を示すことはあっても、身体的な強さをもって他者を威圧することは少なくとも日本では見られません。しかし歴史上の権力者が甲冑に身を包む肖像画はいくつもありますし、実際に戦線に赴いていたことでしょう。また、ほんの数十年前には天皇が軍服を纏うこともありました。
古墳時代の首長も、身体的な強さをもって、人々に襲いかかる脅威に立ち向かうことはひとつの役割であり仕事でした。そして古墳は、脅威に対抗できるだけの力を示すシンボルとしての役割もあったと考えられるのです。たとえば、親交のあった朝鮮半島の国・伽耶が脅威にさらされたとき上毛野からも対外出兵をしたと、神功紀や応神紀などに記されています。そして時期を同じくして古墳が大型化しているのです。古墳は、地域がこれから挑む事業への士気を高めるためのシンボルでもありました。巨大な古墳は、自分たちの地域とそれを治める首長の力を信じるに十分な威容を放っていたことでしょう。今よりも身体的な力をもって、人々に安寧を感じさせ、治めていたと考えられるのです。
それにしても火山の噴火に武器をもって立ち向かうとは、あまりにも現実離れしていると思われるかもしれません。しかし当時は、あらゆる事物に神が宿っていると信じられていたのでしょう。日本最古の歴史書とされる『古事記』には、伊邪那岐と伊邪那美の二神が、日本列島を生み出していった物語が記されているといいます。まだ知の蓄積がすくなかった時代、分かりえない疑問を抱いたとき、人々は神の存在と物語でもって解釈に挑んでいたのでしょう。
火山に立ち向かった首長も、山や噴火に神の存在をみていたのではないでしょうか。そして、神々はよく人の姿を模して描かれています。自分たちの力が及ばないほどの強大な存在と知りながらも、どんなに祈りを捧げても収まらない火山に、最後は自らの力をもって対抗しようとしても決して不思議ではないのではないでしょうか。
今では、火山に人間の身体的な力でもって戦いを挑もうなどとは考えません。噴火のメカニズムが当時よりは分かっており、そのような対抗策は適切ではないと理解しているからです。当時の人々や首長の、火山に対する認識は適切ではありませんでした。今の私たちからしたら、それ自体が神話や物語の世界に思えてきます。
しかし、それを信じて成り立っていた世界があったのです。現代では適切ではないと考えられることを信じていても、生きるのに十分な日々を送っていたことでしょう。今日の私たちが存在するのも、その時の生がそれで成り立っていたことの証であるともいえます。
科学をひとつの基礎とする現代からすると虚実ともいえる知や考えに思えたとしても、それを信じて成り立っていた生があるのだとすれば、それは違う一つの現実と言えるのではないでしょうか。物事一つ一つの客観的妥当性やより正しい理解を追うことは重要であるとは思います。しかし、それぞれの現実が正しいかどうかなどは、外から安易に判断するようなことではないように思えてきます。
それぞれの現実
客観的な正しさと生きることとは、またすこし別の問題であるように思えてきます。あとから誤りとされるような考えをもとに生きていようとも、生としては成立するのです。そして、どれだけ正しい知を携えているかということでは優劣を付けようがないように思えます。
自然現象のメカニズムが分からずとも、自然という大きな存在を畏怖し、祈り、結束していた社会がありました。古墳を力の象徴として、人々が安寧を感じ、これから始まる地域事業に協力の気持ちを新たにしていました。ちなみに古墳は、奴隷のように働かされて造られたものではないという考えがあるようです[1,P221]。地域の公共事業というかたちで、農閑期における人々の仕事になっていたのではないかという考えです。今よりも小さな社会に人々が生きていたとき、地域の問題は自分事であり、地域に力があることは自分の誇りのようにも感じられたのではないでしょうか。古墳の築造は決して他人事ではなかったように思えます。そして、今よりも知の蓄積も知を習得する機会も乏しかった時代には、頭で考えるよりも、もっと身体で感じて生きている部分も多かったはずです。自然に祈り、ときには肉体的な戦いを挑み、古墳のような巨大建造物のもとに結束することは、その世界では理にかなっていたと言えるのでしょう。
自然や物事に対するより正しい認識が、必ずしも豊かで幸福な生につながるとは限りません。
たとえば、ダーウィンの進化論が、人類はまだ進化の途上にあり、より進化させるために優れた人種とそうでない人種を分けていく必要があるという優生思想につながってしまったり。人間心理の解明が、集団を特定の思想に扇動することや、過度な消費を生み出すことに利用されたり。ほかにも、個人的にはこういう話はドキドキして嫌いではないのですが、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』では、ヒトの身体はヒトに内在する遺伝子が生き残るために形作られ、日々働いているという考えが示されていました。これを知ったところでどうしろというのでしょうか。「自己」や「意思」というものに対してただ戸惑いが生まれるだけです。
科学的な理論などの客観性の高い知は、あくまでも適切に使うことによって、より良い生につながっていくのだと思います。反対に、基礎としている考えが、客観的には誤っているものであったとしても、そこで生きる人が豊かで幸福であると感じていることもあるのでしょう。より良い生というのは、正しさの上にのみ成り立つのではなく、それぞれの人が自分や周りのことを考えてつくりあげていくものなのだと、違う世界を覗くと思えてきます。部分の誤りによって崩れるような精緻さで現実が成っているわけではなく、多少の粗さや誤りはあったとしても、自分なりに生きた日々が、物語のようなひとつの現実としてできていくのではないかと思えてくるのです。
〈参考図書〉
1.若狭徹著『東国から読み解く古墳時代』(吉川弘文館)
(吉田)
(カバー画像出典元)