2021.05.23

焦点のずらし方。 ー本の紹介『認知バイアス』

 いつも何かに焦点を当てています。明確な目標があるとかそういう格好いい話だけではなく、公園でジャグリングをしている人がいれば空中を舞うボールの行方に焦点が当たり、株なんかをやっていれば該当する企業のニュースや株価の行方から目も耳も離せません。しかし、好調であれば口数も多く周りに話したりしますが、不調におちいれば口を閉ざし、別の話題に焦点を移したりもします。
 わたしたちがアクセスできる情報は無限に近いほどあり、生活や仕事における選択肢も数多くあります。あるいは、それほど広大な情報の滝をあえて見つめなくても、街の中を歩いているだけでも様々な情報が行き交っています。目を惹くための工夫が凝らされた看板や、すれ違う人や横を通り過ぎる車、交差点で立ち止まれば大画面に広告やニュースが流れていることもあります。
 しかしその一方で、人間が一度に、見る・聞く・嗅ぐことができることや、記憶できることや考えられることには、限りがあります。例えば、ある動画を用いた実験では、ジャグリングよりもさらに強い注意を引くような集団に目を向けさせると、ゴリラが画面の中をゆっくりと通過しても、ゴリラの存在に気づかないのだといいます[1,P16]。おそらく、画面全体を眺めていればゴリラがいたことに気づくのでしょうが、注意を向けさせると極端に周辺が見えなくなるということです。視覚の他にも、思考や選択にも制限があります。ジャムを店頭で試食した購入者の購入の満足度を測るという実験では、24種類のジャムを試食した人よりも、6種類のジャムを試食した人の方が、購入後の満足度が高いという結果が出ました[2,P226]。直観的には、より多くの試食をし、より幅広く吟味をした上で選択した方が満足度が高いように思われます。しかし結果は、試食の数が少ない方が(多すぎない方が)満足度が高かったのです。これは、(専門的な訓練を受けていない)人間が一度に違いを識別したり比較して考えたりできる数には、限りがあることを示しているのではないかと考えられます。
 あふれる情報に囲まれながら生きている現代においては、「人間はなんと多くの情報を感知・処理しながら生きることができるのだろう」と錯覚してしまうかもしれません。しかし実際には、人間の情報の感知や記憶、思考などができる容量には限りがあり、特定のことに注意を向けたり、多すぎたり都合が悪かったりする情報からは目を背けたりして生きていると言えます。つまり、わたしたちは物事を見たり考えたりするとき、無意識に、特定のところに焦点を当てており、それ以外のところにある情報は感知していないと言えるのです。言い方を変えると、決して少なくない認知の偏りをもって生きていると言えます。ここで認知とは、見たり・聞いたり・嗅いだり、記憶したり考えたり、あるいは何かを想像したり創造したりする、心の働き全般を指します。

 偏りをなるべく解消したり、焦点をずらしたり視野を広げたりするためには、どうすればいいのでしょうか。わたしたちの認知の偏りは、偏ろうと思ってそうしているわけではなく、人間のもつ特性や癖のようなものであり無意識的に生じています。したがって、単に「視野を広げなさい」と言われてもどうしていいか分からず、それこそ目が泳いでしまいそうです。
 偏りを解消するには、どのような状況で、どのような偏りが生じるのかを知っておくことで、対策をとれるようになるのではないかと考えられます。偏りが生じる状況や場面に遭遇したとき、偏りに対して意識的になり、適切な補正を施せる可能性があるからです。

 認知の偏りに関する知見としては、「認知バイアス」という概念のもとに様々な研究が進められています。認知バイアスの研究からは、人間の認知の癖のようなものが見えてきます。どんな状況で、どこに焦点をあてて見てしまうのか・考えてしまうのか・判断してしまうのかという、人間の癖です。ちなみに、「バイアス」とは偏りや先入観を意味します。
 例えば、自分の考えが正しいことを示す情報ばかりを求めてしまい、それによってさらに自分の考えが正しいと錯覚していってしまう「確証バイアス」や、自分の目にした情報を過剰に見積もってリスクを判断してしまうリスク認知のバイアスなどがあります。リスク認知のバイアスに関しては、こんな実験結果があります。1970年代のアメリカで行われた実験で、事故死と病死とでどちらの死者数が多いかを推定してもらったところ、被験者は同程度と推定したというものです。しかし実際には、病死の方が15倍も多かったのです[1,P38]。これは、マスメディアなどの普段目にしやすい情報の影響を受けている結果と考えられます。病気で死亡した場合よりも、事故で死亡した場合の方が、ニュースとして取り上げられます。そのニュースを日々目にすることで、事故死の数が自分の中で過剰に見積もられてしまうのです。このバイアスを解消するための方法としては、一般に公表されている死因の統計を参照することなどが考えられます。
 バイアスは、日常にとけこむような行為に対して、本人の自覚のないところで影響を及ぼすこともあるようです。例えば、物や人に対する好意度は、単純にその情報に触れた回数に応じて上昇するという実験結果があります。つまり、ある商品のコマーシャルに数多く触れることで、その商品の機能や有効性に関わらず、知らず知らずのうちに好感を抱いている可能性があるということです。他にも、画面上で無機質なボール二つが、まるでお互いを助け合うような動きをするのを見た後は、協力的な行為を選択することが実験で確認されています[1,P109]。しかも実験に参加した人は、事前に見せられた動画が何を意味するのか、つまりボールが助け合うような動きをしていたとは認識していなかったというのです。当人は事前に見せられた動画の意図など全く気づかずに、協力的な気持ちになるのです。これは反対に、裏切り行為の促しにも同様に働きます。
 確証バイアスやリスク認知バイアスは、比較的特別な行為に対するバイアスであると言えます。それぞれ、自分の考えの確かさを検証しようとするときや、リスクの度合いを測ろうとするときは、日常の流れよりも少し気合いが入った行為だからです。このような行為は、バイアスに対して意識的になるきっかけがあると言え、補正を施すこともできそうです。しかし、好意度や協力的な気持ちは日常の中で自然に生じるものであるため、いちいち意識的に補正することは困難であると考えられます。また、好意度や協力的な気持ちに対して、「事前のあれが影響した可能性があるから、これくらい低く見積もろう」などと自分で下方修正や上方修正を加えるのも心情的に嫌でしょう。バイアスによっては、補正が困難なものもあると言えそうです。
 しかしながら、知っているだけで好影響を受けられるものもありそうです。個人的に好みだったバイアスは、「ひらめき」に対するバイアスでした[1,P176]。ひらめきは、突然降ってくるようなイメージがあります。多くの場合、ひらめくまでは数多くの試行錯誤を行い、「うまくいかない」状況を長く経験するはずです。そしてある時ひらめくのでしょうが、そのひらめきは意識の上では突然でも、無意識の上では突然ではないというのです。無意識の上では、うまくいかない過程で学習が積み上げられ、確実にひらめきに近づいているといいます。つまり、ひらめきが“突然”であるとは、うまくいくか・いかないかの“結果”だけに焦点が当てられているために生じる、偏った認知であるというのです。このバイアスを知っていることで、ひらめくまでの苦しい道のりを、着実にその瞬間までに近づいている学習の過程であると認知することができそうです。

 生活をしていれば、自然とどこかに焦点が当たっているのだと思います。全体をまんべんなく見渡すことは、おそらく人間の認知の容量的に困難で、生きる上で効率的であるとも言えないのでしょう。生まれ持ったバイアスをもって焦点を当てながら日常を過ごしているのです。しかし、その焦点の当て方が、場合によっては適切ではないことがあるようです。確証バイアスやリスク認知のバイアスで偏った認識をもったり、コマーシャルのようなもので知らず知らずのうちに好感が増幅されてしまったりすることもあるのでした。視点をずらしてみよう・視野を広げようとはよく言われることですが、どうずらせばいいのか、どう広げればいいのか、漠然としていて分からないものです。しかし「認知バイアス」を知っていれば、自分なりの対策を立てられることもあるでしょう。日常はバイアスがあってもいいのかもしれませんが、特に失敗できないときなどは、バイアスの知識を引っ張り出してきて自分なりに補正してみた方がいいのかもしれません。
 焦点の当て直しは、個人的な問題だけではなく、社会的な問題に対しても、重要な意味を持つことがあると考えられます。少し極端な例ですが、第二次世界大戦におけるドイツのホロコーストは、個人の焦点を組織が意図的にずらしたことによって引き起こされた大量殺人であったとみることもできます。ホロコーストとは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人の大量虐殺です。「工業的に」といっていいほど仕組み化された流れの上で、ユダヤ人が次々と殺害されていったといいます。なぜそんな残虐なことが可能だったのかというと、それは工業的な仕組み自体に、つまり作業分担されていたことに一つの要因があったと考えられています[1,P206]。人を殺すことをためらわない人など、ほとんどいません。しかし、ユダヤ人の居場所をリストアップする人、捕縛して運ぶ人、毒ガスが噴射される部屋に閉じ込める人、毒ガスの噴射ボタンを押す人、死体を片付ける人が分担されていたらどうでしょうか。それぞれの人は、殺人に直接的に関与しているとは思わなくも済むのかもしれません。そしてそのつくられた他責的な感情は、大量殺人への抵抗を低めていたのだと考えられるのです。これは、ホロコーストの実行者一人一人の焦点が、殺人にではなく、殺人が分担されることでつくられた作業に、意図的に仕向けられた結果だとみることもできます。焦点が意図的にずらされることで、あってはならない状態に盲目的に陥っていることもあるのかもしれないのです。
 自分はこうありたいと思っていても、人間が元々もつバイアスや、それを利用した第三者の操作によって、その気持ち通りにはいかないこともあるのかもしれません。ホロコーストの例は少し極端でしたが、自分なりにいいと思う生き方をしていくためにも、人間がもつ認知バイアスに関する知識を、自分の本棚に置いておいてもいいのではないかと思いました。


〈今回の本〉
 本文中に紹介したバイアス以外にも、さまざまな認知バイアスが実験結果などと共に紹介されています。専門知識がなくても読めるような、やさしい内容になっていると思います。また、もっと深めたいと思う人向けに、章末に参考図書の紹介が著者のコメントと一緒に載せられています。最終章では、認知バイアスのバイアスということで、実験結果を鵜呑みにしない適切な捉え方や、バイアスの人間にとっての意味など、バイアスを悪いものとして捉えすぎないように、という著者なりの指南も記されています。
鈴木宏昭著『認知バイアス ー心に潜むふしぎな働き』(講談社)


〈本文中の参考文献〉
1.鈴木宏昭著『認知バイアス ー心に潜むふしぎな働き』(講談社)
2.シーナ・アイエンガー著/櫻井祐子訳『選択の科学』(文藝春秋)

(吉田)

関連するタグ

#身体・心・脳 #選択

このページをシェアする

読書会

 本を読んだり、なにか考えごとをしたり、ゆっくりと使える時間になればと思っています。事前読書のいらない、その場で読んで感想をシェアするスタイルの読書会です。事前申込はあまり求めていませんので、気が向いたときに来てください。

詳しく見る >>