土曜日に行ったリベルのブックレット『感情と功利の不調和』を使った読書会の話です。
「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義がなぜ社会の基本倫理として受け入れられないのかというと、人情味を完全排除した合理性に基づく判断となるからでした。これまで頑張ってきたからとか、友達だからとか、家族だからとか、そういう関係性を一切抜きにして、なるべく多数の人がより幸福になるにはどうすればいいかという合理性に基づいて判断するからです。
たとえば、企業のリストラなどが功利主義に該当すると思われますが、対象となる人たちだけではなく社会的な反感を買っていることを見ても、基本倫理とすることの難しさが分かるような気がします。
ただ、変化が速く、世界中がつながっているような複雑化した社会では、功利主義のような対象をあらかじめ定めない合理的な判断も必要になるとされています。では、私たちは個人としてどうすればいいのでしょうか。
読書会では、「そう考えると、いくつもの社会を持っておくことが安心だよね。」という話も出ました。それによって、個人にとってのリスクヘッジになるためです。たしかに、いくつも社会に属していることは安心感につながりそうです。
そして、そのような考え方は、社会によってもプラスの効果を生み出すと考えられます。なぜなら、功利主義的な施策を断行しようとしても、反発する個人が少なくなるのではないかと考えられるからです。
そう考えると、最近企業が副業を推奨し始めているのは、今後の人員整理を柔軟に行いやすくするためか?とも思えてきます。他方で、生涯一つの会社で社員を養うことは困難だと明言している企業や経営者もいますが、そういう方々はとてもフェアでいいなとも思っていますが。
しかし、これを書きながら思ったのですが基本倫理とは、常にその考えや思いを根底に据えて生活をする基盤であることを意味します。人々が功利主義を受け入れ、リスクヘッジとして社会をいくつも持つようになった時、どこか冷めた感じにならないかなとも思いました。功利主義が社会の基本倫理として受け入れられにくいと考えられる背景には、なにかそういう冷たくて嫌な感じを抱く私たちの心にあるのだと思います。飲み会とかも盛り上がらなくなりそう。。
しかしながら、仕事・会社といった限定された領域では適用できるのかもしれません。
規範とは奥深く、社会の変化に合わせて変えていかなければいけないものなんだなと考えさせられた時間でした。そして思っているよりも自分ごとであるのではないかと思いました。
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(吉田)