(文量:新書の約19ページ分、約9500字)
地面を蹴ったり物を握ったりする物理的な力を発揮する身体や、計算や記憶などで力を発揮する頭のほかに、こころも生きる上で大きな力を発揮しています。こころの作用としてはたとえば、困っているときに助けられたり助けたり、そしてその助け合いの相手はよく知る人から遠い地の見知らぬ人にまで及びます。進学や就職などの大きなことから、今日は何を食べようといった毎日のことまで、論理的な整理だけでは決まらない物事の選択もしています。ほかにも、今ここにはない、作品をつくったり、将来を思い描いたりすることも、こころの力なのではないかと思います。
生活や人生のそこかしこで存在感を示すこころですが、それは少しわかりにくいものであるとも感じられます。走る速さや記憶力の良さなどに比べて数字には表しにくく、こころが生み出す結果はもう少しあいまいです。客観的で理知的な選択をしたかと思えば、根拠のない勢いにまかせた選択をすることもあります。率先して周りの手伝いをする日もあれば、どうしてもそんな気になれない日もあります。創作に関しても、なぜあんなものを創れるのかとただ感嘆することもあれば、いやでも自分にも何か創れるのかもしれない、同じ人間なのだからと漠然とした可能性を抱くこともあります。
こころは、不安や期待が生まれる源でありながら同時に、不安と期待を胸に触れてみたいという好奇心を抱く対象であるようにも思えます。助け合い、選択、創作、未来の想像などを生み出すこころには、どんな秘密が眠っているのだろうかという好奇心です。あわよくば、その秘密を知ることで、自分の人生がもっと豊かなものになればとも思ってしまいます。
5月からおよそ2ヶ月間、「無意識」にテーマをおいた読書会を開いていました。無意識に対する厳密な定義などはもうけず、漠然とイメージする無意識に関する本を持ち寄って読んで感想を交換しました。(いつもそうなのですが)思いつきで始めた「無意識」の読書会では、自分の中にあるようでよくわからない、ままならぬこころにそっと触れてみようとする時間だったのではないかと感じています。今回は、読書会で出た話題なども交えながら、こころはどのような存在なのかについて、考えたことをまとめてみたいと思います。人間関係でも、相手がどんな人かがわかることで、付き合い方がわかっていきます。こころも、全貌は決してわからないまでも、どんなものなのかが漠然とでも捉えられることで、付き合い方がわかっていくのではないかと思っています。
読書会で読まれた本
読書会では、こんな本が読まれました。タイトルの羅列で雑多になってしまいますが、紹介します。
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです / 「空気」の研究 / 若い読者のための世界史 / 愛するということ / キリストにならいて / バカの壁 / 出発点 / 無意識はいつも君に語りかける / 哲学入門 / 無意識の構造 / 日本文化私観 / ユングと東洋 / 思考の整理学 / 無意識の構造 / 7袋のポテトチップス / 体は全部知っている / 「空腹」こそ最大のクスリ / 認知バイアス / ミヤザキワールド / 無意識の構造 / 無意識の構造 / 無意識はいつも正しい / 利他学 / 意識とはなにか / 道徳の系譜 / マルクスのために / 深夜特急1 / 出発点 / 「あいだ」を開く / 進化思考 / 2040年の未来予測 / ユングとキリスト教 / 錬金術 / 夜と霧 / 私は私のままで生きることにした / 哲学入門 / 脳と精神 / 夜と霧
『無意識の構造』のように心理学の観点から無意識そのものに迫る本もあれば、歴史の変遷から無意識的に信じ込んでいる常識に目を向けてみたり、意識できない体の働きを学んでみたり、エッセイや物語から生活をゆっくりと振り返ってみたり、さまざまだったと思います。自分だけではたどりつけないような本や視点に出合える時間でした。
読書会で出た話題や私が読んだ本のなかから、無意識に触れてみたからこそ考えることができたこころの存在感について、まとめていきたいと思います。
開かれたこころ
なんらかの選択や目標の設定などは、こころが成していると言っていいように思います。頭で考えて整理する過程もありますが、「よし、こうしよう」と決めるのは意思と呼ばれたりするこころであると感じられるからです。そして、決められた選択や目標は、自分の口から発したり書き留めたり、あるいはそのまま行動に移したりするので、自分で決めたものと思っているはずです。
しかし本当に自分で決めていると言えるのか、という疑問が読書会を通して浮かんできました。こころが何らかの決定を下していても、そのこころに自分そのものが乗っているのかということに疑問を覚えてしまうのです。こころと自分とのあいだには、ときに距離があるのではないかと思えてくるのです。
私が読んでいた『認知バイアス』[1]では、さまざまなことに影響をうけるこころの様が示されていました。認知とは、見たり聞いたり、考えたり想像したりといった、こころの働きとされるもの全般を指します。バイアスとは、偏りという意味であり、先入観や偏見といった意味合いをもちます。
たとえば、自分の意思決定を疑いたくなるような、自己決定に関するバイアスが紹介されていました。ある心理学的なテストで被験者は、他者をかばったり助けたりするような選択をするのか、裏切るような選択をするのかが試されていました[1,P108]。他者を裏切ることで自分が得をするような条件も提示されるため、自分の良心が揺らぐようなテストとなっています。同時にこの実験では、被験者は2つのグループに分けられて、ある動画をそれぞれ見せられました。片方のグループは、平面上のボール2つが互いに支え合うような動画を見せられ、もう片方はボールが互いにぶつかり合うような動画を見せられました。すると、支え合う動画を見せられたグループでは7割が他者を助ける選択を、反対にぶつかり合う動画を見せられたグループでは7割が他者を裏切る選択をしたのです。つまり、直前にみたボールの動画が、選択に影響を与えたと言えるのです。しかも、参加者は動画が意味することを認識していなかったと言います。ボールが支え合うような動きをしていても、「お互いに助け合っている」とは特に認識していなかったということです。つまり、本人は何の意味があるのか分からなくても、動画の影響を受けて選択を変えていたということになります。これは、少し怖いことです。なぜなら、自分の自覚なしに、動画などの情報を浴びることで、選択を操作される可能性があるからです。
ほかにも、商品購入などにおいて、商品に対する好意度は、その商品の情報に触れた回数に応じて変化するということも紹介されていました。CMなどで商品を目にしたり耳にしたりすると、その商品の性能や信頼性に関わらず好意度が高まり、購入にいたる可能性が高くなるということです。わたしたちのこころは、自分の考えなど及ばないところで、周囲の、しかもあまり意味のないような情報にも影響を受けているのです。
こころに影響を及ぼすものは無機質な情報だけではなく、人を介しても成されていきます。読書会では、『「空気」の研究』を読んでいる人がいました。これはもちろん気体としての空気ではなく、「空気が読める・読めない」などと表現される、場に存在する空気のことです。この本では、太平洋戦争における日本軍の無謀な特攻作戦は、その場の「空気」によって決行する運びになったことなどが紹介されていたようでした。合理的・戦略的に、その作戦が妥当であると結論づけられたわけではなく、空気で決まっていったというのです。国民を総動員し、メディアを操作して戦局は優勢であるとの情報を流し続け、おそらく軍内部の人たちも弱気を見せることが許されない状況が長く続いたとき、こころの中では意味が薄いと感じてはいても、決行以外の選択肢はその空気のなかに存在しなかったということなのでしょう。そこにいた誰かが決行を決断したことになっているのかもしれませんが、実際には個人には帰属しないその場の空気が決定を下したのではないかということです。
このような集団における意思決定の非合理性は、心理学的な実験においても示されています。このような実験です[1,P200]。
実験の内容は、左の図の見本と同じ長さの棒を、右の図のA,B,Cの中から選ぶというものです。どうでしょうか、わかったでしょうか?
これには何のひっかけもありません。正解は「C」です。この問題自体は難しくはないため、個人で回答した場合は、正答率は99%を超えるといいます。しかし問題は、集団でこのテストを受けた場合なのです。
今度は、少しいじわるな実験です。受けるテストは同様に図に示された見本と同じ長さの棒を選ぶというものなのですが、一人で受けるのではなく集団で受けるところに先ほどとの違いがあります。しかも数名が同じ空間でテストを受けるのですが、一人以外は“サクラ”で、被験者はたった一人ということになります。回答は順番にしていきますが、サクラが最初に回答していき、被験者は最後に回答します。そして、薄々勘づいているかもしれませんが、サクラはわざと間違った回答をします。自分以外のサクラ複数人が間違った回答をしても被験者は自分が正しいと信じる回答を選択することができるのか、という実験なのです。18回繰り返された回答のルーティンのうち、サクラは12回でわざと間違えました。
結果は、被験者は平均して3回程度間違った回答の方を選んでしまいました。わずか3回と思われるかもしれませんが、テスト内容は簡単で、正しい答えはCであることが明らかです。疑いようがありません。しかしそれでも、何回かは惑わされて、間違った回答を選んでしまったのです。さらに、間違える回数は、「他のチームとの競争」と設定された方が、多くなると言います。プレッシャーにさらされたとき、正しい答えを貫こうという意思よりも、個人に責任が及ぶことを恐れるこころが働くのかもしれません。あるいは、プレッシャーによって理性的な判断が行いにくくなるということなのかもしれません。
これはさきほどの「空気」の話と、通ずるものがあります。周りの意見の浸透力は思いのほか強く、個人のこころはそれに付き従うしかない場合もあるということです。ちなみに図に示した心理学的実験はアメリカ人を対象に行われたものであるため、集団における流されやすさは日本人に特有のものではないと言えます。
わたしたちのこころは、思っている以上に周りを感知し、その働きに取り入れているようです。自分の発言や行動は、生まれる過程は認識できなくても、結果は認識することができます。その結果の認識をもって、自分で考えたもの・自分で決めたものと思い込んでいることがあるようなのです。しかし本当は、その少なくない部分に、なんの気なしに触れている情報や、周りにいる人とともに作り出している「空気」の影響を受けていると言えそうです。こころは、ひとりのもの単体で存在するというよりは、もっと開かれたもので、まわりとつながり、影響を大いに受けながら働いているのではないかと考えられるのです。
開かれたものであることで助け合いが起きたり、ひとりではできないことを協力して成したりすることができるのだと思います。しかし一方で、感受性の強いこころは影響を受け過ぎて、自分という存在そのものをおびやかすのではないかとも思えてしまいます。
こころに対する主体性
こころは、保とうとしなければいけないものなのかもしれません。自分のものでありながら周りの影響を受けやすいものであるため、気がついたら周囲に溶けていっていることもあるのかもしれません。さきに示した例では、自分の自覚がないところで選択の方向性を変えられていたり、「空気」の力で違和感のある選択をさせられることがあるのでした。それは本意ではないはずです。
しかし、たとえば今回紹介した認知バイアスや「空気」に関する知識をもっておくことで、不本意な侵害は避けることができるかもしれません。情報に無意識に影響を受けるのは、助ける/裏切るという選択や物を購入するといった選択の他にもさまざまにあります。たとえば、リスクに対する判断も知らず知らずのうちに影響を受けているのだと言います[1,P36]。
メディアや噂話は、いつも起きていることよりも、あまり起こらない珍しい事件を取り上げる傾向があります。そうすると、あまり起こらない事件の方が、わたしたちの記憶に刷り込まれやすくなります。そして結果的に、それほど起こらない頻度の低い事の危険度を高く見積もり、より頻度の高い事の危険度を低く見積もることになるのです。たとえば、実際には病死は事故死よりも15倍程度も多いにも関わらず、アンケートをとると同程度と認識されていたりするようです[1,P38]。ほかにも、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの後、飛行機をやめて車で移動するという選択をした人が増えました。それによる死者の増加は、1年で1595名に及ぶという推計もされています。それに対して、飛行機事故で亡くなったのは約250名であり、自動車を選択したことで亡くなった人数の1/6でしかなかったのです。大きな事件を目の当たりにした人々は、死の危険を避けようとして、実際にはより死亡確率が高い方を選択してしまったのです。これらは、自分が見聞きした情報に判断を左右されてしまうという人間のこころの特性の表れであると考えられます。
あらかじめバイアスについて知っていれば、その悪影響を避けるための対策もとれるはずです。リスクの認識については、普段受動的に情報を見聞きしている状態のままに判断するのではなく、統計的な情報に少しでも目を通しておくことで、だいぶ判断は変わりそうです。助ける/裏切るのような選択でも、もしかしたら空間にポジティブ/ネガティブな雰囲気をまとわせることで、選択を誘導されることもあるかもしれません。物の購入に関しても同様です。ちょっとした選択であればいちいち気にするのは面倒ですが、大きな選択の場合には、他者によって作られた場からは一度離れて、理性的に自分のなかで整理して選択していくことも必要になってくるのかもしれません。
こころは周りの影響を受けやすい・感受性が高いということを知っておくことで、対策をとろうという一歩を踏み出すことができそうです。すぐに対策が浮かばなくても、たとえば「空気」の力によってかつてとんでもない選択をしたことがあると知っておくだけでも、立ち止まって考えるきっかけになることでしょう。流され過ぎることを抑えて、主体性をもってこころと共に生きていくことはできるように思われます。
主体的なこころを保つという意味では、周囲とだけではなく、自分とも対峙しなければいけないこともあるようです。
自分のこころなのに対峙しなければいけないというのは少し不思議な感じがします。しかし、今この時点では意識に上ってこなくても、過去の経験からこころの奥深くに押し込められた記憶や、家族や死などに対する普遍的な観念などが無意識下に潜在していると、深層心理学では考えられています。そして無意識に潜在するもうひとりの自分とも言える存在が、あるときに表に出てきてわたしたちを悩ませることがあるのです。
深層心理学のひとつであるユング心理学を日本に伝えた河合隼雄氏が著した『無意識の構造』[2]には、自分の反面である「影」について言及されています。人生の節目にある人の夢に「影」が表れ、その夢から深層心理を分析した実例が記されていました。ユング心理学は臨床心理学であるため、治療を通して得られた知見にもとづく学問です。この心理学では、無意識は夢に表れることがあると考え、夢を分析することでこころの状態を把握していくということを一つの手法としています。
30歳に近い男性は、ある夢を見ました[2,kindle1100]。内容を要約して紹介します。
夢ではAという男性とBという女性が一緒に商売をしている。しかし、あるときBが私のところへやってきて、Aとは一緒に仕事をしたくないと言い出して私は困ってしまう。
ここから専門的な知識を用いながら夢を分析していくのですが、著書のなかでは次のような結論が導き出されていました。こちらも要約して紹介します。
夢を見た人物(以下、〈私〉)は真面目な研究者で商売とは縁遠い。Bから拒絶されたAは、攻撃的で、出しゃばりで、知ったかぶりをするような性格で、あまり好ましい人ではなかったという。〈私〉は慎重で控えめなタイプなので、Aとは異なる性格のようだ。ここで、夢を見た〈私〉の現況を踏まえると、なぜAを拒絶したのかが見えてくる。30歳近くなった〈私〉は、学者として次の段階へ進む時がきており、これまでよりも積極的に行動する必要性を薄々感じ始めていた。それは〈私〉のこれまでの人生観に照らし合わせると容易に受け入れられるものではなかった。そのため、自分にとって必要だけど足りない要素をAに投影し、否定したのだ。
この夢分析からみえてくることは、自分が変わらなければいけないことはわかっていても、その現実を意識の中からは追い出すことはできる。しかし追い出したとしても自分の中から完全に追い出すことはできず無意識の中に押し込められた状態で存在し、夢の中に登場するということです。この夢はうなされるような悪い夢であるといえるのかもしれませんが、暗示することは「影であるAの協力を得ることで、思いがけない仕事ができる」ということなのだといいます。影は必ずしも、押しのけたり否定したりする対象ではないということです。
人は誰しも、「生きられなかった反面」ともいえる影をもっているのだといいます[2,kindle1115]。それは、学校や職場などで見せる表の顔とは反対の性格を帯びているようです。攻撃的な人は控えめな影をもち、控えめな人は攻撃的な影をもつのだといいます。そして、さきに紹介したような人生の節目や、影を意識的に抑え込みすぎたときなどに、表に顔を出すようです。このとき人は、影を避けようとする傾向にあり、自分とは別の者に投影して否定しようとします。しかしここで行うべきことは、影によって露わになった自分が向き合わなければいけない側面を認め、その上でどのように生きていくかを考えることなのだそうです。それによって、人格の発展や人間的な成長が成されていくのだと言います。
こうした、こころに深く入り込むような整理や捉え直しは、人格形成の面だけではなくモチベーションや動機づけの面でも必要性が指摘されています。
行動が他者によって統制されているのではなく、自分で決めているという自律性を伴う状態の方が、高い成果と精神的な健康をもたらすと考えるエドワード・L・デシは、著書『人を伸ばす力』[3]のなかで、選択や行動の意味を自分なりに咀嚼して納得することの重要性を説いています。たとえばダイエットにおいて、配偶者に離婚を迫られてダイエットに取り組む場合と、健康面を含めたダイエットの重要性や意味を自分で理解して取り組む場合では、後者の方がダイエットが持続し成功する確率が高いのだといいます。前者は、他者に強制されてダイエットを始めたと言え、ダイエット自体には自分なりの意味を見出せていない状態であると言えます。なにかしらの活動をするとき、活動自体の意味を自分なりに咀嚼し、自分自身に統合していくような過程を経てはじめて、継続したりより良い成果を出せたりできるとされているのです。こころが自分と一体となっているといえる状態に達することができたとき、人は健康的でいることができ、いいパフォーマンスを出すことができると言えるようです。そしてその状態へは、主体的にこころと向き合うことでたどりつくことができると、さまざまな実例が示しています。
点をうつ
無意識をテーマにおいた読書会では、自分でもよくわからないこころの部分に目を向けてみたことで、こころの全体感をぼんやりと見ることができたような気がしています。それは、意思・意志などと呼ぶほど明確さを備えたものではなく、大いに周りの影響を受け、惑わされながら漂いながら存在しているもののようにも思えました。ときには自分の奥深い無意識に潜在する影や、周囲からの強制に本当は納得できないでいる自分と向き合うことも必要とされます。こころとは、なにもせずともそこに在るものではなく、主体性をもって関わり、ともに成長していくような存在のようです。
私が読書会の最後の方で読んでいた『夜と霧』[4]には、主体性をもつとはどういうことなのか考えさせてくれる一節がありました。第二次大戦中、ナチス・ドイツは、ユダヤ人を強制的に捕えて収容し、強制労働を課したり、労働力がないと判断した人は即刻虐殺するといった非人間的な愚行を行いました。『夜と霧』は、強制労働を生き抜いた心理学者でもあるヴィクトール・E・フランクルが、終戦直後の1946年に執筆し出版した本です。強制収容所では、生きることへの期待を失ったとき命を落とした人が数多くいたのだといいます。たとえば、ある年の3月31日に解放される夢をみた人は、それを信じていました。しかし、その日が近づいても一向に解放される気配がありません。すると、その人は徐々に衰弱していき、3月31日に、亡くなりました。生き続けることの意味を真に問われ、人としての尊厳など放棄しても仕方がないといえる環境のなかで、しかし確かに、尊厳と意味をもって生きた人がいたことを知っているフランクルは、次のような一節を記しています[4,P129]。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
私の解釈ではフランクルは、生きることに意味を問いかけるのではなく、意味は自分で定めるものなのだと言っているのだと思いました。自分は、決して問う存在ではなく、問われる存在なのであり、意味や期待を主体的につくっていく存在であるということです。理不尽という言葉すら生ぬるい、なんら選択権のない環境で生きたフランクルが、生きることに主体性をもつことはできると発した意味は大きく、勇気をくれるものだと感じました。フランクル自身も、収容所を生き抜いた心理学者である自分がその体験を語ることを生きる意味としていたと示唆するような内容も記しています[4,P124]。
こころは、どこまでも深遠で未知なものなのだと感じさせられます。広く深い、けれどもそれに任せるばかりでは、自分の存在感を見失ってしまうことにもなるのかもしれません。広がりすぎたとき、たぐり寄せたり整理したりしながら、自分の懐にしっかりと抱きかかえておこうとすることが必要なもののように思いました。
〈参考図書〉
1.鈴木宏昭著『認知バイアス ー心に潜むふしぎな働き』(講談社ブルーバックス)
2.河合隼雄著『無意識の構造 改版』(中公新書)
3.エドワード・L・デシ著/リチャード・フラスト著/桜井茂男訳『人を伸ばす力』(新曜社)
4.ヴィクトール・E・フランクル著/池田香代子訳『夜と霧 新版』(みすず書房)
(吉田)
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