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今年もあっという間だった気もしますし長かったような気もします。短いのか長いのか、それはもはやわからないので、とりあえずは良かったことを思い出してまた来年の良い1年につながればと思っています。
今年もおかげさまでさまざまなテーマや本との出合いが生まれたのではないかと思っています。そしてじっくりといろいろなことについて話せました。すこし振り返ってみたいと思います。
2024年のイベント
今年はいつもの読書会に加えていくつかのイベントを開きました。
いつものイベント
- 読みたい本を気ままに読む読書会
- 最近気になっているテーマや本など
- 質問「 」について考える時間
- 読書のもやもやについて話す時間
企画ものイベント
- ハンナ・アレント『人間の条件』のプロローグを一緒に読む会(全13回)
- 『死に至る病』本章最初の4ページを読む会(全7回)
- テーマのある読書会「競争」(全3回)
恒例になるイベント
- リベルの文化祭 2024年秋
- ドストエフスキーとその作品の魅力
- 秋といえば、保存食についてシェアする会
- 「労働」をテーマに話し合う会
文化祭は恒例イベントになればいいなと思って始めてみましたが、思いのほか盛り上がったので恒例イベントにしていきたいと思っています。次回は来年の春を予定しています。
今年読まれた本
今年もさまざまな本が読まれました。全タイトルを並べるのは大変なので、ある期間に読まれた本のタイトルを抜粋して紹介します。
『行人』夏目漱石/「スピノザの診察室」 夏川草介/加藤シゲアキ 「オルタネート 」/「少女、女、ほか」バーナディン・エヴァリスト/『片腕』川端康成/宮本輝『錦繍』/さよならイツカ 辻仁成/ベルツのクジラたち 町田そのこ/世界不死計画 フレデリック・ベグデグ/大澤真幸『資本主義の〈その先〉へ』/「注文の多い注文書」小川洋子/クラフト・エヴィング商會/金持ち父さん貧乏父さん ロバートキヨサキ/正欲 朝井リョウ/『アキレスとカメ パラドックスの考察』吉永良正 または『わたしのワンピース』にしまきかやこ または『落下の解剖学』映画/サヨナライツカ 辻仁成/「子どもたちの階級闘争」/ ブレイディみかこ/ルース・ベネディクト『菊と刀』/広井良典「ポスト資本主義」/正欲 朝井リョウ/『アキレスとカメ パラドックスの考察』吉永良正/岩田温「流されない読書」/『昔ばなし大学ハンドブック』小澤俊夫/サヨナライツカ 辻仁成/52ヘルツのクジラたち/町田そのこ/『ギリシア・ローマ神話』 ブルフィンチ/村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』/ミミズの農業改革 金子信博/『わたしのワンピース』にしまきかやこ/現代思想3月号「人生の意味の哲学」/人間の条件ーハンナアレント/大澤真幸『資本主義の〈その先〉へ』/「水中の哲学者たち」 / 永井玲衣/「バウルを探して〈完全版〉」川内 有緒 (著), 中川 彰 (写真)/「LISTEN」/Kate Murphy/「本心」 / 平野啓一郎/考える力の育て方 / 飛田基 著/映画『劇場版ガンダム三部作+逆シャア』/「岸部露伴ルーブルへ行く(映画ノベライズ)」 / 荒木飛呂彦/「師匠」/ 立川志らく/「それでも会社は辞めません」 / 和田裕美/「謎解きゴッホ」西岡文彦/名作なんかこわくない/柚木麻子/魂と体、脳 西川アサキ/「花の知恵」モーリス・メーテルリンク/『アキレスとカメ パラドックスの考察』吉永良正/100分de名著 斎藤幸平「ヘーゲル精神現象学/「少女、女、他」バーナディン・エヴァリスト/『劇場版ガンダム3部作』先週劇場で観たアニメ映画/『人類はどれほど奇跡なのかーー現代物理学に基づく創世記』6tf吉田伸夫/ビブリオ古書堂の事件手帳 三上園/あなたが知らない科学の真実/「石は元素の案内人」 / 田中陵二/「Aではない君と」/ 薬丸 岳/「手の倫理」/ 伊藤亜紗/「ギリシア・ローマ神話」/ ブルフィンチ/「ライオンのおやつ」 / 小川糸/「ゼロからトースターを作ってみた結果」/ トーマス・ウェイツ(村井理子 訳)/三浦哲哉『自炊者になるための26週』/記憶のしくみ(上) ラリー・R・スクワイア,エリック・R・カンデル著/「リンリのロンリ」 / 金子祐介/「謎解きゴッホ」/ 西岡文彦/「噛み合わない会話とある過去について」 / 辻村深月/Yahoo!NEWS『アカデミー賞問題?』、さだまさし『つゆのあとさき』/「努力とは馬鹿に恵えた夢である」/ 立川談志/柚木麻子『ナイルパーチの女子会』/吉永良正『アキレスとカメ パラドックスの考察』、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』/村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』
任意でいただいた読書感想はこちらに掲載しています。
私の今年の一冊
このままさらっと終わってしまうのも1年のしめくくりにはかるい感じもするので、「私の今年の一冊」を紹介して終わりにしようと思います。ひそかに存在している運営グループのみなさんに任意で募集したそれぞれの一冊です。(去年はオープンに募集して集まらなかったので…今年はグループ内で募集しました)
タナカさん『消去』トーマス・ベルンハルト
「フヅクエ」というブックカフェの店主・阿久津さんを知ったのは昨年のことだ。noteで公開されている阿久津さんの日記には、自身が営むカフェのこと、日々の食事、ヨーロッパサッカー、就寝前の読書など、日常生活の記録が綴られている。僕は2年前から日記を書き始めたこともあり、阿久津さんの文章――まるで子供が滑り台を滑り降りていくような軽快な文体――と、1日2,000~3,000字もの文章を書き続けるその圧倒的な熱量に、いつも感心させられる。
そんな阿久津さんが、今年の5月から7月の、3か月かけて読んでいたのが、トーマス・ベルンハルトの『消去』だった。
二人は病弱だったが、それは母親ゆずりの長寿を約束された病弱さだった。妹たちはいつでも咳をしていて、そうでない妹たちを見たことがない。ヴォルフスエックでは階下からも階上からも彼女たちの咳が聞こえてくる。死を招くような悪性のものではない。まるで咳をすることだけが情熱で、この世にそれにまさる慰みはないとでもいうかのよう。パーティーでも咳のしどおしだ。何も話題をもたない妹たちがひっきりなしに咳をするのだ。
トーマス・ベルンハルト『消去』(池田信雄訳、みすず書房)p.42
辛辣な描写が、延々と繰り返されるだけなのに、一文一文が異常に面白い。それでいて、読む人によっては全く響かないかもしれない。でも本当に面白いものってそういうものかもしれない。誰もが面白いものの中から、偏愛を見つけるのは難しいけれど、逆に、自分だけが強く惹かれる作家との出会いは、偶然でありながらも必然のような、不思議で神秘的な感覚を伴うものかもしれない。小説を遊ぶように読んだのははじめてで、その体験はずっと心に残る気がする。
しょうごさん『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』蓮實重彦
本書は『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』といういたくさっぱりとした、単純な題名の通りフーコー・ドゥルーズ・デリダの著作について書かれたものである。フーコー・ドゥルーズ・デリダとはフランス現代思想界のアイドル、たのきんトリオのようなものだ。この三人の名前にはとてつもない知的権威がある。会話の中で「フーコーが〜」「ドゥルーズが〜」「デリダが〜」という枕詞をつかえば賢そうな雰囲気を醸し出すことができる。
そんなフーコー・ドゥルーズ・デリダを理解するために『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』を手にして読んでみるが、そこで奇妙なものに出くわす。以下はドゥルーズの章の冒頭である。
〈洞窟の淀んだ湿りけがなにやら不吉な重みとして方に落ちかかり、肌にまといつく黒黒とした冷気となって迫ってくるあたりで思わず足をとめ、全身をこわばらせにかかる暗さをぬぐい落とすように眼をこらすと、わずかなしなやかさをとどめていたはずの視線までが、周囲の薄明にようやく慣れはじめたたというのに、もうそこから先はもののかたちを識別する機能を放棄してしまって、距離感も方向の意識をも見失ったまま曖昧に漂いだすばかりで、だからそんなとき、眼の前にぽかりと口を拡げた暗黒の深淵に対して、ひたすら無気力な対応ぶりしか示すことができない。‥〉
こんな感じで洞窟とか怪物とかの話が何ページも続きドゥルーズの名がなかなか出てこない。なにを読まされているのだろう、ボクは。よくわからなくなってくる。ただ読み進めていくとどうやら「反冒険」とういう言葉がキーになっているらしい。
人はいつの時代も自由をもとめて外部へ冒険に出たがる。しかし、冒険に行くことは自由になることだろうか?逆に冒険をすることによって見えない権力に縛られてしまうことがある。
例えば昔のヤンキーがこの支配からの卒業と言いながら窓ガラスを割るのは、冒険に出ているつもりが結局、類型的なもの回収されていく典型である。また、サブカル好きや文学好きが「自分は(自由に選んで)これが好きだ」といいながらセンスの良さそうな作品選んでいっているのもそうだ。
どうすればこの権力から抜け出せるのだろうか?蓮實重彦はあえて冒険しない(反冒険)ことを提案する。反冒険は、冒険に行くよりも刺激的な経験をもたらしてくれる。
反冒険は権力が要求してくる類型的なものを、類型的とわかりつつあえて愚直に実行していくことだ。
例えば、蓮實重彦はデリダの『グラマトロジーについて』は「書物に似せた書物」「貨幣のような書物」である、というようなことを言っている。貨幣には内容はまったくないが、価値だけはある。渋沢栄一が書かれてようが、うんこが書かれてようが、みんなが貨幣と認めればそれが貨幣になる。そして貨幣は番号、製造年だけがちがう同じものが大量に出回っている。
『グラマトロジーについて』の内容は本の要約サイトflierもびっくりの2行で要約可能であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかもみんなが言ってそうなことを言っているだけらしい。(本当にそうなのか甚だ疑問ではあるが…)だから内容はない。そして他の哲学の書物に則り、みんなが引用している哲学者の書物を引用したりしている。この哲学者の引用が貨幣における製造年にあたる。また、問題設定→解決というどこにでもありそうな書物の作りになっている。しかし、過剰に似過ぎているため狂気をおぼえてしまう。それは芸術やロボット工学で主張されている不気味の谷現象似ている。ロボットが人間に過剰に似すぎると気味悪さ、嫌悪感が生まれるように、過剰に似すぎたものに人は狂気を覚える。このように反冒険はある体系を過剰に反復することで、現実に亀裂を生み出しそこから脱出する。『グラマトロジーについて』のすごさはここにあるのだ(らしい)。
そう狂気はボクたちの外側にあるのではなく、過剰な内側に存在するのである。
よしださん『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント
僕は「人間の自由」についてよく考えます。それなりの定義みたいなものも作っていっています。しかし、ナチスやアイヒマンがその自由の定義のなかに入ってしまう。アイヒマンは自由だったのではないか、という疑念があるのです。
アイヒマンは、犯罪を犯していません。たしかにユダヤ人の大量虐殺に加担したけど、それは当時のナチスドイツでは合法的なことでした。そして自らは殺人も犯していないのだとも言います。殺人幇助はしたけど、自ら手にかけたわけではないし殺人を指示したわけでもないというのです(あくまで本人談ですが)。
実はまだ途中までしか読んでいないのですが、アイヒマンはある種の承認欲求や所属の欲求によって行動に駆り立てられていたのではないかと思っています。父親に認めてもらえず、会社やその他集団にもうまく属することができなかった。そして流れ着いたのがナチスでした。流れ着いたのだからヒトラーに心酔していたというわけでもないのです。ただ行く場所がなくて流れ着いたのです。
内在する欲求に基づいて属した集団が、たまたまとんでもない非人道的な集団であった。そしてその集団は国家という一つの大きな単位に置き換わるまでになり、自然な流れで非人道的な行為はその国家のなかで合法化されていった。それを自らの欲求を埋めるかのように遂行していったのがアイヒマンであるというのが今のところの理解です。とんでもないことをしたのだけど、しかし自らの欲求を満たす行為を法律の範囲内で行うというのは人々がごく普通にやっていることであり、権利であるとも言えます。
各人がこころの赴くままに事を成していくだけでは何かが欠落する結末になりかねない。それはナチスしかりオウム真理教しかりそうなのかもしれません。そこには何が必要なのか。社会や自分とは違う他者であるという気もしていますが、そんなことを考える上で最後まで読み通して考えてみたい本です。来年も読もうという気持ちとともに、今年の一冊にしておこうと思います。
西野さん『ダーウィンの危険な思想』ダニエル・C・デネット
ダニエル・C・デネット『ダーウィンの危険な思想』。これが私の今年の一冊です。
あらゆる生き物が、そして人間というすばらしい造形物もまた、ただただ自然の営みだけで、つまり進化というからくりだけで、作られた。それはみんなわかっているはず。それなのに「いやそうは言っても、深いところで、見えないところで、なんらかの超越的なもの、神秘的なものが、関わっているんじゃないか。そうでなければ、このような知性というようなものや、心というようなものが、できあがるわけがないだろう」と、多くの人が内心では信じているフシがある。デネットはそれが気になってしかたない。そうした内心の信仰をことごとく完璧に打ち砕きたかった。そのために、これほど分厚くこれほど執拗な叙述の一冊になってしまったんだなと、確信しました。
デネットは今年亡くなった哲学者です。それもあり忘れられない読書になりました。また新装版として昨年末に出たばかりの本でもありました。
というわけで結局、デネットは無神論者であり、それに付き従う私も無神論者であることが、読めば読むほど明らかになっていくわけです。ところが実をいうと、私は同書のなかに「無神論をくつがえす可能性のかけら」も見つけました。そのかけらとは「この世界がそもそも完全に無ではないことの説明だけはできない」というものです。デネットはこう言っています「もう、ええでしょう」と。いや言ってはいませんが、その地面師たちのような態度で、この問いを遠ざけています。では、無が説明できないとなぜ無神論がくつがえるのでしょう? それを説明しだすと年が明けてしまうので、また来年の読書会で!
2025年も変わらず、無理はせず参加しやすい雰囲気を意識しながらやっていきたいと思っています。春には文化祭をやりたいと思っていますし、ここ最近の読書会で盛り上がった話題もあるようでそれをテーマにした時間を作ってみてもいいかも。あと、気がつけば2000年も四半世紀の経過を迎えるので、2000年・ミレニアムから何が変わったかなと振り返ってみるのもおもしろいのかもしれません。時代の変化は速いのか?おもったほどでもないのか?、などと。
今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。それでは、良いお年を。
(よしだ)