実家の風呂の裏には井戸があって、体を洗うときに向かい合う鏡のちょうど裏に、それは位置します。鏡を見たときに窓が映るのですが、その向こうに井戸があるのです。鏡に目をやったとき、そこに“いる”のではないかといつも恐怖していました。貞子です。今はもう怖くなくなりましたが、いつもそそくさと風呂から上がって安堵していました。
ほかにも怖いことは、ただ生活しているだけなのに、いろいろと浮かんできます。スキー場でリフトに乗っていると、急に強風が吹いて傾いて滑り落ちたらどうしようとか。橋を渡っていると、魔が差して自分が飛び降りたくなったらどうしようとか。だからリフトに乗ればなるべく深く腰掛けて、橋を歩くときはなるべく柵に近寄らないようにするのです。
そんなことは起きないだろうと思うことを、想像してしまいます。想像したら本当に怖くなって、警戒し緊張します。想像がどんどんとリアルに迫ってくるのです。
人間は想像とは切り離せない存在なのだと、最近よく考えることがあります。ただ体を洗うだけ、リフトに乗るだけ、橋を歩いて渡るだけではいられないのです。しかし、こうしてなにかを想像してしまうこと、余計ともすこしあやしいともとれることを考えてしまうことは、文化や文明の発展に寄与したりしているのかもしれません。
いま読み進めている本に、ホイジンガが書いた『ホモ・ルーデンス』[1]という本があります。現生人類をあらわすホモ・サピエンスは「賢いヒト」という意味です。それに対してホモ・ルーデンスは「遊ぶヒト」という意味です。ホイジンガは人間の本質を、理性的に考えるような賢さにではなく、どうしても遊んでしまうところに求めようとしていたようです。
ホイジンガは「遊び」の特徴をいくつか挙げていますが[1,P28]、そのなかでも印象的だったのは「限定的であること」と「日常の生ではないこと」でした。限定的であるとは、空間や時間の限定を意味します。日常の生ではないとは、食事や睡眠などの生きるための活動とは切り離して、役割や設定をあてがうこと・なりきること、を意味しているのではないかと思います。遊びは日常の生ではないので、遊びが終われば、また日常的な活動に戻っていくことになります。
たとえば、サッカーではフィールドの広さや形が決められていますし、前後半の時間も決められています。空間的・時間的に限定的です。ルールや役割も決められています。FW、MF、DFのほかにも、手を使えるGKまで存在します。普通の生活のなかにおいては動ける範囲を限定したりボールを蹴る人と触れる人とに分けたりすることに合理的な理由は見出しにくいのですが、遊びのなかでは自然と受け入れられるのです。きっとおもしろいから、そうしているのです。そしてそのルールが適用されるのは、サッカー場の中でだけ・前後半合わせて90分の間だけとなります。このような限定性や日常からの乖離性は、将棋やテレビゲームや、おままごとなどにも共通です。おままごとでは、その世界に入り込むしかありません。頑張ってつくってくれた料理を、「これは食べられないものだよ」と言ってはいけません。
ホイジンガは、遊びが、文化や文明を築いてきたと考えているようです。言われてみれば、今の社会のなかにも、遊びと特徴を同じにする営みがあります。
たとえば裁判所で行う裁判は、法廷に空間が限定されており、裁判官は黒い法服を着ています。あきらかに日常の生とはかけ離れています。そこで「判決を下す」と言い、法が人を裁く、とするのです。ほかにも、国会議事堂で行われる政治討論も、特別な場所で、それぞれの役回りをもって過剰に振る舞っているようにも見えるでしょう。ホイジンガは、現代の日本にも残るようなお祭りはもちろんのこと、宗教的な祭祀や儀礼も遊びであるといいます。考えてみれば冠婚葬祭にも、遊び的な特徴はみてとれるはずです。
遊びは、日常から離れた空間や時間でのことだから成り立つのです。あやしくないのです。食べられない材料をあつめて切り刻んだり混ぜたりしてお皿に盛り合わせて、「はいぞうぞ」と差し出している光景は、あやしいです。しかし、遊びという限定された空間や時間だから、あやしくないのです。おもしろがれるのです。
魔法陣のなかに立って呪術を唱えている人がいたら、現代日本人ならあやしいと思うでしょう。しかしその一方で、黒い法服をきた人が「カン、カン、判決を下す」と言っているのはあやしくないのでしょうか。ほかの民族がみたらあやしいと思うかもしれません。その文化のなかで生きているから常識となりあやしいと思わないだけで、ほかの文化圏の人がみたらあやしく思うことが多くあるのでしょう。
遊びは自由で制約がありません。遊びだから、制約をかける必要はないのです。どんどんとルールや設定を加えていき、空間的・時間的限定のなかで、発展していきます。同時に、その自由な発展は、日常の生からどんどん離れていくことを意味します。
では、日常の生から離れた遊びは、生きる上で価値が薄いものなのでしょうか。きっとそんなことはないでしょう。社会システムの一部となっていたり、文化となり人に安らぎを感じさせたり娯楽となったりしていきます。冠婚葬祭も、その空間・時間があるから、祝ったり見送ったりできます。空間的・時間的な限定を設けることではじめてできることがあるのです。裁判の場合も、人が人を裁くことを思想として良しとせず、しかし見た目上はどうしても人が人を裁くことになるとなったとき、裁判という特別な設定が必要だったのではないでしょうか。
そしてそうした形にならずとも、日常から離れること自体に意味があるようにも思えます。想像をめぐらせることで気分は高揚し、自分なりの考えをつくっていくことで心が整理されていきます。日常の生とはちがうところに立つことが、こころを健全に保っている側面もあるように思えるのです。
日常の生から離れていくことが、新発見や偉業などへつながっていくことも、きっとあるはずです。遊び的な逸脱がなければ、そうしたものは生まれてこなかったのではないかと思ったりします。逆にいうと、遊びのこころをもっていることを、不用意にじゃましてしまってはいけないのではないかと思うのです。
たとえば、昆虫を夢中で探求している人がいたとします。実際に生物学系の研究者には、このような子ども時代・学生時代を過ごしたという人の話を、何度か見聞きしたことがありました。せっかくそういう日々を送っていたのに家では、「あんたそんなことして何の役に立つの」と味噌汁なんかを出しながら言われたら返す言葉もありません。しかし、そうした探求のさきの発見が、害虫被害から農作物を守ることにつながったりしたはずです。
ほかにも思い返すと、銅剣や銅鏡をつくったり、五重塔をつくったり、宇宙に行ったり、“賢い”思考だけでそんなところに行き着くのでしょうか。銅の円盤を一生懸命磨いたり、どうすれば五重に連なる塔ができるか考えたり、宇宙に行く計画を画策したり。それは、生活から離れた特別な空間や時間でないと、できないように思えます。しかしそれができたとき、特別でおかしなものから、普通であたりまえで意味のあるものになり、日常に下りてくるのだと思います。
きっと人間は、これからも息をするようにあやしいことを考え続けるのでしょう。身に迫った危険を回避するだけ、雨が降ったら雨宿りするだけ、というわけにはいかないのです。身に迫ってもいない危険を想像して怖くなって騒ぎたてたり、雨のむこうに神の存在をみたりするのです。
そしてきっと、あやしくて余計なものとされるものでも、いつしか生活のなかに普通にあるようになることも引きつづき起きていくはずです。人間はあやしくて余計な想像をしながら、それを自分なりに現実にしていかないと気がすまない気質をもっているようにも思えます。
たとえば、読書会で知ったのですが、最近では「生まれ変わり」について科学的に研究されているようです。『BEFORE』という英語版の本や、日本語版では『転生した子どもたちーヴァージニア大学40年の「前世」研究』『リターン・トゥ・ライフー前世を記憶する子どもたちの驚くべく事例』の2冊で紹介されているようです。生まれ変わりといえば、テレビなどであやしいけども興味をもたざるをえないものとして紹介されたり、一部のそうした体験をした人だけに信じられたりするものだったのではないかと思います。それが科学的に検証され始めており、アメリカではしっかりと予算もついているようです。もしかしたら数十年後には、生まれ変わりを前提に社会生活が営まれているかもしれません。
あやしくて余計なことを想像すること・考えることは、人間とは切り離せない気質であるように思います。そして最初はあやしいと思われていても、なんらかの段階を踏むことで、社会にとけこみ文化となり、日常になっていくのではないでしょうか。仮にそうした文化的な貢献にいたらなくても、想像をめぐらせることは、好奇心を刺激し、ときにはこころに安らぎをあたえ、生きることを支えているように思えてなりません。あやしいことを考えることは、とても大切なことだと思うのです。
〈参考図書〉
1.ホイジンガ著/高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)
(吉田)
(カバー画像出典元)