さて、最近読み続けているモモも終盤に差し掛かってきました。
町に住む大人だけではなく、親しかった人や子どもたちまで時間貯蓄家になっていってしまいました。時間貯蓄家とは、時間どろぼう=灰色の時間銀行の人たちに、時間を節約することを迫られた人たちです。仕事だけではなくプライベートまで節約を迫られていきます。
たとえば床屋のおじさんは一日に捌けるお客さんの数は増えましたが、その分お客さんとの会話やふれあいのようなものはなくなっていきました。プライベートでも、入院している知人のもとにお花をもって頻繁に訪れていたのですが、それも行かなくなってしまいました。時間どろぼうに、おじさんの時間一秒一秒の意味を問い正され、おじさんが時間を節約することを決めた結果です。
大人が忙しくなったことで子どもたちは、モモのいる円形劇場跡に集まるようになりました。でも、大人たちは、子どもたちをそんなところに行かせてはダメだと考え始めます。これから必要とされる知識やスキルを身につけさせなくてはと言うのです。
そこで「子どもの家」が作られます。子どもの家に行くことになった子どもたちは、人に言われたことをやることは得意になっていきますが、おもいしろいことを思いつくことは苦手になっていきます。たとえ自由な時間ができても、遊び方を思いつくことができなくなったのです。
すこし前までは、子どもが何人か集まれば、冒険の物語が会話のなかで自然と作られていき、役がそれぞれに与えられて、本当のことと見紛うほどの冒険ごっこが出来ていたのにです。遊ぶための想像力が失われていったのです。
その一方でモモは、時間の正体や、盗まれた時間を取り戻す方法に気付きつつあります。時間を司るマイスター・ホラという人物の手ほどきで、それに気づくのです。時間を司るとは、一人一人に平等に与えられている時間をただ配っているだけで、支配しているというわけではありません。
マイスター・ホラは、時間を配ることはできますが、時間どろぼうに盗まれた時間を取り戻すことはできません。なぜなら、時間を節約するという選択は、人々がそれぞれに自分の意思でしたことだからです。時間が一人一人に平等なものである限り、マイスター・ホラはそれをむやみにコントロールすることはできません。
今は、時間どろぼうの手にかかっていないモモに託すしかないのです。しかし、モモ以外の人々は子どもも含めて時間どろぼうの手にかかっているため、モモに会いにくることすらしなくなってしまいました。
そんなところで、今回の私の読書は終わりました。モモはこれからどうやって、町の人々のもとに時間を取り戻していくのでしょうか。
読書会に来てくれた人とは、時間どろぼうに足下をすくわれる原因は、野心にあるという話をしたりもしました。床屋のおじさんも、「こんなところで俺の人生は終わるのか」という気持ちがあり、時間どろぼうの話にのってしまった側面もあるからです。なんで野心ってあるんだろうねとか、そんな話に少しだけ発展しました。
とはいっても、野心がないことがいいかどうかはまた別の話です。野心があることで人も社会も活気づくように思います。ミシュランで三つ星を狙うシェフも、お笑いのM-1で頂点を目指す芸人さんも、野心剥き出しのままに突き進むことで、最高の料理や笑いを私たちにくれています。
このように『モモ』は、自分にもどこか身に覚えがある、身につまされるような話が散りばめられています。負担なく読み進められるのは、児童文学という読みやすい架空のストーリーだから。決して一つの正解はないのだけれど、自分の生活と重ねながら、こんなところを少しだけ直してみようかなという気持ちにさせてくれます。
また読書感想文のようになってしまいました。最近は、外に出られるようになったからか、読書会にくる人も少し減ってしまいました。自分の読書を楽しみながらも、普段なら触れない関心ごとに触れられる時間もまたいいので、いろいろな人が来てくれることを楽しみにしています。
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(吉田)