(文量:新書の約19ページ分、約9500字)
今はやめてしまったそれは、なぜやりたくなくなったのでしょうか。たとえば、部活動で取り組んでいたスポーツや文化活動を、引退とともにぱたりとやらなくなることがあったかもしれません。元々は好きだったり興味があったりしたから始めたはずなのにです。ほかにも、勉強は大体は嫌々やるものかもしれませんが、学ぶこと自体はどうでしょうか。知らないことを知れること、ものの見方が変わったり視野が広がったりすることは、そうつまらないものでもないはずです。でも学校を卒業したり受験を終えたりすると、学ぶことを続けることの方が少ないのではないでしょうか。
本当に嫌だけど必要に迫られてやっていたことは、目標や目的の達成とともにやめてしまってもいいのかもしれません。しかし本当は好きだったり楽しかったりしたことが、だんだんとつまらなく感じるようになるのは少しさびしい気がします。そんなことがあるのかと思ってしまいますが、人をその行為へと向かわせる動機づけは、ちょっとしたことで変容してしまうようなのです。今回は、動機づけ・モチベーションの理論から、続けていきたいと思っていることに対して自分がどう接していけばいいのか、考えていきたいと思います。
やる気の質を変えてしまう外的報酬
やる気が出るか出ないかは、必ずしも行為それ自体に原因があるわけではないようです。サッカーは好きで楽しいからやる、読書は嫌いでつまらないからやらない、というような自分と行為との相性だけでは決まらないということです。好きでもやらなくなってしまうことがあるようなのです。こんな実験結果があります[1,P54]。
ある幼稚園で絵を描くことを好む園児が実験参加者として選ばれ、お絵描きを含むどんな遊びをしてもいい自由時間を過ごしてもらいました。園児は3つの群に分けられ、お絵描きに対して違う報酬の与えられ方をしました。
・A群(報酬期待群):上手に絵が描けたら賞状をあげると約束され実際に報酬を与えられた
・B群(報酬無期待群):賞状をあげることを約束はされなかったが絵を描き終えた段階で賞状を与えられた
・C群(無報酬群):賞状をあげるという約束もせず実際に与えられなかった
それぞれの群の園児は報酬の処遇を受けた後、再び自由時間を与えられます。この時間は報酬を与える前と同じく、お絵描きを含むどんな遊びをしてもいい時間です。この実験の目的は、報酬処遇の“後”に、それぞれの群の園児が絵を描くことにどれだけの時間をつかうかを観察することにありました。つまり、報酬の与えられ方によって、絵を描くモチベーションがどう変化するかを観察したのです。
結果は、B群とC群では報酬処遇の前後で絵を描く時間に大きな変化は見られませんでした。しかし、A群の、報酬を約束されて実際に報酬を与えられた園児たちは絵を描く時間が明らかに減少したのです。実験に参加した園児は、元々絵を描くことが好きでした。誰に言われるでもなく自由時間があれば絵を描きます。しかし約束された報酬を与えられた後は、好きな絵をあまり描かなくなったのです。一体なぜなのでしょうか。
結果を比較すると、B群とC群では報酬処遇後の自由時間でも同じように絵を描いていたので、絵を描くことに飽きたわけではありません。では、報酬自体が問題だったかというと、A群と同じ報酬を与えられたB群では絵を描く時間に大きな変化はありませんでした。つまり報酬そのものがモチベーションを下げたわけではありません。A群とB群の違いは、「上手に絵が描けたら賞状をあげる」という期待をあらかじめ園児に抱かせたかどうかでした。報酬に期待を抱かせたA群の園児は、報酬を与えられた後の自由時間で、明らかに絵を描かなくなったのです。
これには、エドワード・L・デシらが唱える人間の基本的な欲求が影響していると考えることが妥当なようです。デシらは、人間には「自己決定(自律性)への欲求」「有能さへの欲求」「関係性への欲求」があるとしています(『人を伸ばす力』など)。それぞれ、自分が行う行為を他者にコントロールされるのではなく自分で決定したいという欲求、自分の有能さを感じられることや能力それ自体を求める欲求、周囲と良好な関係を築きたいという欲求です。これらの欲求に合致するような行為には動機づけられて行為に及びますが、そうではないもの・阻害する要素を含むものに対しては動機づけられず行為に及びにくいということです。
A群で期待された報酬を与えられた園児は、自己決定への欲求が阻害されたのではないかと考えられます[1,P56]。報酬が約束された上で絵を描き実際に報酬が与えられると、報酬が与えられるから絵を描いた、ということになってしまうということです。絵を描くという行為は本来自分が好きでやっていたのに、それを自分で決定していないという状態へと報酬が変化させてしまったのです。
しかし他方で、今回の報酬である賞状は有能さへの欲求を満たすもののようにも感じられます。これは実験の結果だけをみると、今回のような報酬の与え方は有能さへの欲求を満たすことにはつながらなかった、ということになります。自らすすんでその行為をする動機づけに影響する有能感とはどのようなものなのでしょうか。もうすこし考えを深めるために、また別の実験結果を紹介していきます。
次は、順位付けと理解度、という評価の方法に違いを設けた実験です[1,P35]。小学6年生を対象に、ある授業の後に小テストを行うのですが、小テストの評価方法とテスト前の声がけに違いを設けました。
a群(順位付け)
・評価方法:シールによって3段階で評価分け、成績優秀者10名を発表しながらテストを返却
・テスト前の声がけ:「みなさん、ライオンのシール(上位10名のみがもらえる)を取れるように頑張りましょう」と順位付けを強調
b群(理解度)
・評価方法:シールではなくコメントを記入して返却
・テスト前の声がけ:「今日の授業で勉強したことをどれくらい理解したか確かめてみましょう」と理解度を強調
この実験も、さきほどの園児が絵を描く実験と同じように、評価の後にこのような指示を出しました。それは授業で使用しなかったプリントの冊子を配り、「このプリントは授業中にやりきれなくて余ったものですが、やりたい人は何問でもよいから家でやってきて1週間後までに提出してください」という指示です。ただし、提出するかどうかは自由であって、提出の有無による評価もしないことを強調して説明しました。
結果はおおよそ想像がついているかもしれませんが、a群の順位付けによる評価の方がプリントの提出数は少なかったのです。つまり、自発的に学習を続けるモチベーションがa群の方が低かったと言えます。そしてさらにアンケートから、次のような結果も確認できたといいます。
a群の方が
・子供たちが緊張や不安を強く感じていた
・気楽さや自信の程度が低く、学習課題を難しいと感じていた
・(アンケート結果ではないが)後に総まとめとして実施したテストの点数も低かった
この実験は、園児への報酬が一様に賞状であったさきほどの実験に比べて、与える報酬や評価の内容に違いを設けました。a群では点数という数字的な結果のみに焦点を当て、他者との比較になるような評価をしました。それに対してb群では、学習をした子どもたちそれぞれの理解度、言い換えると能力の向上度や成長度に焦点を当てています。その結果、b群の方が、自発的に学習を継続する程度が高く、その後の総まとめテストの結果も良かったのです。さらにb群の方が緊張や不安を感じにくく、自信の程度も相対的に高かったため、心理的に健康であったと考えることができます。
この結果からは、その行為自体をやりたいと思って続ける動機づけに影響する、有能感に関する理解を深めることができます。すなわち、有能感とは、他者との比較の上に成り立つ有能さを求める欲求ではなく、その行為を行う自身の有能さを求める欲求であると言えそうなのです。園児が絵を描くさきほどの実験の場合は、賞状を与えるという評価・報酬が、有能さを感じさせることにはあまりつながらず、ただ自己決定感を損なわせたために絵を描くモチベーションを低下させたのではないかと考えられます。しかしおそらく、絵のどんなところがすごいかとか、絵を描いているときのどんな姿勢や振る舞いがいいと思ったかとか、そんな風な言葉とともに賞状が与えられていたら有能さを感じられ、モチベーションの向上へ寄与したのではないかと考えられます。つまり、あくまでもその行為を行うことにおいて自分が有能であると感じられることが、その行為への動機づけを高めると言えそうなのです。
しかしここで、他者との比較や競争を動機に学習という行為をすることがあるではないか、行為の動機づけになるではないかと思われるかもしれません。しかしそれは、学習という行為自体への動機づけで学習をしているのではなく、他者に比べて優位に立ちたい、あるいは劣位に立ちたくないという欲求にもとづく動機づけであると考えられます。さまざまな活動を促すこうした動機づけは必ずしも悪いとは思いませんが、今回の実験のケースからみるとこのような動機づけにもとづく学習では、学習を続けなくなる・緊張や不安を感じる・課題を難しく感じる・テストの点数も低いという結果につながっていました。学習という行為に対して決していい影響を与えたとは言えなそうなのです。
学習という行為それ自体に動機づけられていれば、目の前の課題をいかに解いていくか、その課題を解く自分をいかに成長させるかに焦点が当てられます。それ以外に気にするものはありません。しかし他者との比較や点数や正解・不正解などという評価が動機づけの源泉になってくると、間違ったらどうしよう・自分が劣っていたらどうしようなどという不安が生じます。これでは学習を続けたいとは思わなくなっていくでしょうし、難しい課題へも挑まなくなると考えられます。結果的に有能感は感じられなくなっていくのではないでしょうか。また、評価や比較のためにやらされていると感じるようになり、自己決定感も感じられなくなっていくように思います。当初はもっていたかもしれない学習に対する意欲が、どんどん削がれていってしまう可能性があると考えられるのです。ただし、評価や競争をまえにして、「自分なら勝てる・良い評価をもらえるはずだ」という自信があれば、不安は生じにくく難しい課題へも挑戦できるのかもしれません。しかしその場合でも、その評価や競争が終われば学習などの行為は継続しなくなり、課題への没入もしにくいのではないかと思われます。
このように、人がそれ自体をやりたいと思うかどうかという動機づけは、自分とその行為との相性だけでは決まらないことがわかります。絵を描くのが好きでも、約束された賞状を与えられただけで描かなくなってしまうことがあるのです。これは想像をたくましくして言い換えると、自分の動機づけが絵を描く以外の他のものに強制的に振り向けられた、と言えるのではないかと考えられます。動機づけが絵を描くことから離されてしまえば、絵を描くこと自体にはやる気を感じなくなるのは必然なのではないかと考えられます。そして絵を描くことは、なにか他の欲求を満たすための手段となっていくのです。
このような、何か他の目的のための手段としての動機づけを外発的動機づけと言います。それに対して、報酬などなくとも行為それ自体を目的とする動機づけを内発的動機づけと言います。内発的動機づけ・外発的動機づけなどのモチベーション理論は、学習や仕事などに関して深く研究されていることが多いようです。しかし今回紹介したような動機づけに関する問題は、消費や趣味などのもっと生活に根ざしたところでも起きているのではないかと想像しています。
賞罰の問題は生活の場にも存在する?
その行為以外をモチベーションの源泉とする外発的動機づけは、しばしば賞罰とセットで語られます。これができたら褒賞を与えるが、できなかったら罰を与えるという賞罰です。園児が絵を描く実験では、罰は与えられませんでしたが、賞状は与えられました。小学6年生の小テストの実験では、学習への意欲が低下してしまったa群では、罰は与えられませんでしたが、シールと成績優秀者の発表という賞が与えられました。それに対して、意欲が低下しにくかったb群でも評価は与えられましたが、理解度に対する評価であったため賞罰とは意味合いが違うのかもしれません。あくまでも自分の成長を確認できる評価であり、その評価にこころがとりさらわれるようなものではなかったということなのでしょう。
賞罰のような仕組みは、学習や仕事以外にも、消費や趣味などの活動においてもしばしば見受けられるのではないかと考えています。ここでは、動機づけ理論と結びつけられることが多い学習や仕事から離れて、生活の場に感じる内発的動機づけ・外発的動機づけについて考えてみたいと思います。
たとえば、家を探すときです。私自身の体験なのですが、ある事情があってここ3年くらいで2回引っ越しをしました。つまり短い期間に3つの家に住んだことになります。しかし、それら3つの家では、住んでいるときの満足度が大きく違ったように感じているのです。
はじめは単純に、設備や仕様が違うことが要因で満足度に差が出たのではないかと思いました。しかし、満足度が低かった2つ目の家と、比較的満足していた1つ目・3つ目の家で、いい点・いまいちな点を書き出してみたら大きな差はないように感じられたのです。では何が要因で満足度に差が生じたのか。考えあぐねていると、もしかしたら選択の仕方に一つの要因があったのではないかと思ったのです。
実は、2つ目の家に引っ越したときの引っ越し理由は、1つ目のマンションの取り壊しが決定したことによるものでした。そのような理由による引っ越しだったので、期日があり、とても急いで探しました。しかも子どもがおり保育園に通っていたので近場で探さなければいけないという制約もありました。そのような制約のなかでも運良く物件は見つかりましたが、引っ越しのきっかけや理由も、引っ越し先の家自体も自己決定感は低いものだったと思います。自分で決めたという感覚が低く、妥協させられた決定だと自分自身で思っていたからです。また、そのような妥協が含まれる決定だったので、いい家を見つけることができたという有能感も感じてはいなかったのでしょう。もちろん制約のなかでもなんとか次の家を見つけることができたという、タスク達成に対する有能感は感じられていたかもしれません。しかしそれは、「いい家を探す」という行為からは離れた、「期日内に家を探す」という行為に対するものだったのではないかと思います。
家を探すという行為と家に住むという行為は別です。したがって、家探しで自己決定感や有能感を感じられなくても、住んでいる際中の満足度に対しては影響しないのではないかと考えられるかもしれません。しかし、探した家自体に満足していなければ、そこに住むこと自体へも自己決定感が低かったのではないかと考えられます。だから満足しないまま、うつうつと家に住み、早々に3つ目を探すことになったのではないかと感じたりもするのです。
もしこのような、消費する対象そのものへの関心で選択するのではなく、それ以外の促しで消費決定するようなことが、その後の不満足感へつながるならば、それは生活の質を落とすことを意味します。なるべく避けたいことです。しかしこのような斜め方向からの促しは、いろいろなところにあるような気がするのです。
たとえば、また家探し関係になりますが、今マンションを購入しようとすると、いろいろなセールストークが付いてきます。住宅ローン金利が低くてしかも控除によって戻る金額が利子額よりも多くなるとか、場所によりますがマンション価格は右肩上がりだから投資目的としても良いとか、人気のエリアだからすぐに売り切れるとか、借りているよりも月々のローン支払額の方が少ないとか。買うしかない、という気持ちになっていくわけです。しかし、このような消費をそそられるセールストークには、家そのものに焦点が当てられたものは少ないのです。家を探しているはずなのに、いつしか投資やコスパの面で買った方がいいのではないかとなっていくのです。
ほかにも、バーゲンセールで安くなっているものを見れば安いという理由だけで欲しくなったり、旅行予約サイトを見ていれば「現在同時に◯人がこのホテルを見ています」と出て急いで予約しなければいけない気持ちになったり。こうしたさまざまな販売促進は、そのもの自体が欲しいという欲求を、ほかの欲求や欠乏に置き換えていると言えるのかもしれません。そうして焦点がそのもの自体からずらされた消費は、買った時点で欲求が満たされたり、運用しているだけで満たされたりすることが考えられるので、愛着をもって使い続けることにはつながりにくいように感じられます。動機づけが、「いいものを買う」というものから、投資やコスパなどにすげかえられてしまえば、それを大事に使っていきたいという動機づけにはつながっていかないのではないでしょうか。モノが溢れていても止まらない消費活動や、なくならない欠乏感は、こんなところに要因があったりするようにも思えてきます。
趣味に関しても、たとえば読書において、読んだ冊数やページ数を競うようになってしまうと、読書そのものに集中できなくなっていくのではないでしょうか。読書そのものとは別の動機づけが介在し、動機づけが読書から離れていってしまうことになりかねません。販売促進のように周りから迫ってくる内発的動機づけの収奪行為もありますが、一方で自分たちで招いてしまうことがあるようにも思います。
動機を他人にわたしてはいけない
ここまで、内発的動機づけを善、外発的動機づけを悪であるかのように紹介してきましたが、必ずしもそうではないと考えます。賞罰が動機づけを奪うのは、あくまでも人がすでにその行為自体に動機づけられている状態のときに限られます。絵を描くのが好きでない人にはそれ自体を行為の目的とする内発的動機づけ自体が存在しないので、奪いようがありません。むしろ、内発的に動機づけられていない人の行為を促すために外発的動機づけは有効なのです。最後に、外発的動機づけに簡単にではありますが触れながら、自分にとって大切な活動とどのように向き合っていけばいいのか、考えていきたいと思います。
人の行為を促す外発的動機づけとは、あまり聞き心地の良い言葉とは感じられないかもしれません。誰かに何かを強いられる、まさに自己決定感の低さを感じさせます。しかし、私たちは普段、内発的に動機づけられているものだけを行っていればいいわけではないはずです。たとえば受験勉強にしても、それを強いるのは将来のことを思ってのことなのでしょう。それなりに学歴社会の日本では学歴はあった方が良く、浪人などで受験期間が長引けばお金もかかります。ストレスや多少の成果の出にくさを犠牲にしても、勉強に向かわせる外発的動機づけは必要なのかもしれません。ほかにも、たとえばプロのスポーツ選手などでも、日頃行っていることはすべてやりたいことなのでしょうか。フィジカルトレーニングやメンタルトレーニング、ストレッチや食事のコントロール、戦略や戦術の理解、チームメイトとのコミュニケーションやメディア対応など。プロとして求められることは幅広いはずです。それらすべてに自身が内発的に動機づけられているとは考え難いのではないかと考えられます。
しかし嫌々やっていたのではストレスになりますし、続きにくく、成果も上がりにくいはずです。なにかいい方法はないのでしょうか。
内発的動機づけは、元々好きでやりたいことであり、初めから目的化されているものというイメージも抱きやすいかもしれません。しかし有機統合理論では、外発的動機づけは自律性(自己決定感)を軸として、手段的な動機づけから目的的な動機づけに徐々に移行させていくことができると示唆されています。有機的統合理論では、外発的動機づけを次のような4つの段階に分けて説明します[1,P58]。
(1)外的調整(例:お母さんに言われるから、やらないと叱られるから)
(2)取り入れ調整(例:やらなければならないから、恥をかきたくないから)
(3)同一化調整(例:自分にとって重要だから、将来のために必要だから)
(4)統合的調整(例:やりたいと思うから、学ぶことが自分の価値観と一致しているから)
(1)が最も自律性が低く、(4)にかけて自律性が高くなる4段階です。外的調整では、それをやる意味や価値をほとんど自分で感じられていませんが、同一化調整では自分なりに意味を理解し、統合的調整では自分の価値観との一致をはかることができています。統合的調整は、もはやそれ自体を目的としている内発的動機づけに該当すると言えるのではないでしょうか。
自律性を高めるのは、おそらくその行為に対する自分なりの理解なのではないかと思います。「この筋トレをやりなさい」と言われても、やる意味や、それをやることで期待される姿が分からなければ始めることや続けることは難しいのではないかと思います。しかしそれが、自分のビジョンや目的と合っていたり、期待したくなる姿だと思えれば、始めて続けることができるのではないでしょうか。ほかにもたとえばダイエットも、多くの人にとって手段性の高い行為だと思いますが、自分にとっての意味を理解しているほど成功しやすいと聞いたことがあります。すなわち、ただパートナーに言われたから痩せるという理由だけでは続かないケースが多いのですが、自分の健康などを考慮して重要であるという理解などをしているほど続きやすいということです。
人をある行為へと向かわせる動機づけとは、決して確固たるものではないことがわかります。せっかく楽しんでいたのに報酬を約束されればやりたくなくなり、やりたくなかったことでも意味や価値を理解すれば目的性を帯びてくるのではないかと考えられます。意図せずとも誰かや何かに奪われることもあれば、自分で丁寧に組み上げていくこともできるもののようです。学びや仕事、おそらく消費や趣味にまで及んでいる動機づけは、きっと誰かに委ねすぎてはいけないのでしょう。特に自分が大切にしたい活動においては、自分の懐のなかで、きちんとまもり育てていく必要があるように感じられました。
それにしても、すこし話は変わりますが、私たちはまだ人間のことを理解していないのだとつくづく思います。モチベーション理論は、人間は怠惰であることを前提に、賞罰によって動かすことを目的に生まれた側面があるようです。つまり、外発的動機づけが先行して研究され、その後内発的動機づけが発見されるにいたりました。たしかに、仕事をやれと言われてもやらずに、勉強をしろと言われてもやらない。ではご褒美を与えようと言われると動き出し、しかしご褒美の効用が切れるとまたやらなくなる。そういう面だけを見ればたしかに人間は怠惰だと映るのかもしれません。しかしそれは、意味を感じないままやらせていたり、拙速に賞罰を動機づけとして置き換えてしまったりしたからなのかもしれません。私たちには、まだ知らないだけでそう思い込んでいることがたくさんあるのだと思いました。
〈参考図書〉
1.鹿毛雅治編『モディベーションをまなぶ12の理論 ーゼロからわかる「やる気の心理学」入門!』(金剛出版)
(吉田)
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