2021.12.18

その人は本当にそういう人だろうか。

人をみるとき、その人を凝視するようにみることが適切なのでしょうか。自分が色眼鏡をかけていたり、周りの環境によってそうなっていたりすることがあるのではないかと思います。今週もおつかれさまでした。人をみるとはどういうことなのでしょうか。  

(文量:新書の約16ページ分、約8000字)

 たとえば、忘れものが多い人に対して、どういう人であるという認識をもつでしょうか。そそっかしくて落ち着きがない人。一緒にいるだけならいいけど、大事な事を任せるには不安な人。そしてもしかしたら、一つ一つの事に対して責任感が足りない人、などという印象にもつながってしまうかもしれません。
 しかし、忘れものが多いというのは、本当にその人個人だけに依る問題なのでしょうか。もしかしたら、家が散らかっていることが原因かもしれませんし、散らかっているのも家庭環境がにぎやかすぎるからかもしれません。忙しくて片付ける時間がないからかもしれませんし、忙しいから日々の出来事を整理する時間をとれずに忘れっぽくなってしまうのかもしれません。
 
 その人がどういう人であるかというのは、想像のなかで創られていく部分が少なくないのではないかと思います。家族でさえも四六時中一緒にいることは難しいため、想像で補うには仕方なく、それは他者をわかろうとする気持ちの表れであるともいえます。
 しかし、そのような想像には、見落としている観点があるかもしれませんし、適切ではない前提が論理のいしずえになってしまっていることもあるかもしれません。今回は、人に対する適切でない見方を避けるために必要だと思われる観点を、紹介してみたいと思います。

感情と規範が創る、他者に対する認識

 私たちの社会には、判断や活動を支えるような規範や考え方があります。たとえば、悪いことをすれば罰せられる、努力をすれば報われる、といったものです。このような規範や考え方があたりまえとして根付いていることは、生きることの助けになっていることでしょう。たとえば、悪いことをすれば罰せられることがあたりまえだからこそ、悪いことをしたくなっても気持ちを抑えることができたり、実際に悪いことをした人が罰せられたりして、安心できる社会が保たれています。
 しかし、このような意識するまでもないほど刻み込まれた規範や考え方が、ときに誤った他者に対する見方を創りだす助けになってしまうことがあるようなのです。

 目の前に、理由はわからないけどひどい目に遭っている人がいるとき、わたしたちはその被害者をどのような人物としてみるのでしょうか。ある実験の結果をみると、人は他者をそのまま客観的にみるのではなく、ゆがんだ主観をもってみることがあることがわかります。このような実験と結果です[1,P116]。
 複数名の被験者が、ある研究に必要だからと、隣室にいる女性の様子をマジックミラー越しに観察してほしいと頼まれます。隣室にいる女性は、なんと、電気ショックで拷問を受けています。しかし実際には、女性は実験協力者であるサクラです。被験者はそうとは知らずに、電気ショックに苦しむ女性の姿を10分間観察することになります。10分を経過すれば、実験の第一段階の終了です。次の段階は、被験者の半分に対して行われます。その半分の被験者は、実験はまだまだ続くと言われ、さらに10分間女性が電気ショックを受ける姿を観察し続けなけれなならないとしたのです。つまり、被験者ごとに、電気ショックで苦しむ姿を観察する時間の長さを変えました。
 10分間と20分間の拷問の様子を観察したそれぞれの被験者に、電気ショックを受けていた女性の印象を聞きます。すると、第一段階が終了したあとも実験は続くと告げられた20分間の拷問を観察した被験者の方が、女性に対してより悪い印象をもったのです。なぜ、より苦しんだ女性の姿を見た方が悪い印象をもったのでしょうか。

 これには、悪いことをすれば罰せられる、という規範が作用したのではないかと考えられます。つまり、悪いことをすれば罰せられるという規範が、罰せられているのは悪いことをしたからだ、と転換されて利用されたのです。
 被験者は目の前で苦しむ女性に、実験とはいえ自分自身も苦しんだはずです。苦しむ人に対して何もできない自分に後ろ暗い気持ちを抱いたことでしょう。そうした気持ちを救うのが、きっと女性は悪い人だから電気ショックで苦しんでいるのだ、仕方がない、という論理だったのです。
 もちろん、理性的に論理的に女性を悪い人と判断し答えたわけではないと思います。自分のどうしようもなく負の感情にフタをするように、無意識にちかいかたちで女性は悪い人であるという整理をつけたのでしょう。しかしそれでも、まったく素性も知らない女性に対しての悪い印象は被験者の頭の中に残ったはずです。

 わたしたちは、普段一体どれだけその人をそのままに見られているのでしょうか。
 社会に根づいた常識や自分の経験などによる先入観をもって他者をみることは、避けられないのかもしれません。しかしそのなかでも、感情が大きく振れたときに抱いた他者への印象には、注意が必要であると言えそうです。
 負の感情を抱けば、それにふたをして逃げ出したくなります。さきほどの実験における被験者も、実験であるとはいえ助けることをできない自分に後ろぐらさを覚えたはずです。その負の感情から逃れる方法は、悪い人であるから拷問を受けているのだ、という女性に対する自分の印象操作でした。
 負の感情を抱いたとき、自分を正当化するように、論理を構築するのです。そしてその論理の礎となるものが、社会的にあたりまえとされる規律であれば言うまでもありません。自分の考えの正当性を自分で感じられ、さらに周りとも共有できるからです。このような負の感情は、今回の実験のような後ろ暗さだけではなく、嫉妬や妬みなども含まれると思われます。いっときの感情が湧き上がるのは人間として仕方のないことだとしても、そうしてつくってしまった他者への印象は早いうちに補正しておく必要があると言えるのでしょう。

意志は、その人個人に依る問題なのか?

 他者の人となりを評価するときに、「意志」の強さや弱さを一つの項目にすることがあります。あの人は意志の強い人・弱い人、などと評価され、意志が強い方が良いとされます。しかし、意志とは本当にその人の中からだけ生まれるものなのでしょうか。このような点について、活動を起こし継続する意志とも捉えられるモチベーションの観点から考えてみたいと思います。

 人のモチベーションに関する理論はいくつも確立されてきているようです[2]。今回はそのなかでも「セルフ・エフィカシー」について紹介し[2,P245]、そこから人間の意志について考えてみたいと思います。
 セルフ・エフィカシーは日本語でいうと自己効力感になります。人は目標や願望をもつことがありますが、実際に目標や願望を達成するために動くには、自己効力感が高いことがひとつのポイントになります。自己効力感とは、その人がもつ自己の能力への確信の程度や信頼度を意味します。
 目標や願望の達成には困難がつきまとうことが多いですが、自己効力感が高ければ困難な状況は乗り越えるべきものであると捉え、努力をすることができます。モチベーションを高く保つことができるのです。
 では、モチベーション理論において、自己効力感はなにによって形成されるものであると考えられているのでしょうか。それは、「達成体験」「代理経験」「社会的説得」「生理的・情緒的喚起」の4つであるとされています[2,P265]。
 達成体験とは、自分で決めた行動を達成し、成功した経験です。いわゆる成功体験です。成功した経験があるほど、次の困難もきっと乗り越えることができるはずだという自己効力感の高さにつながっていきます。ただし、自己効力感の高さにつなげていくためには、簡単に達成できた成功ではなく、困難に打ち勝った上での成功である必要があるとされてます。つまり成功体験の質も重要であるということです。先に挙げた4つの要因のうち、この達成体験が最も自己効力感に影響を与えるとされています。
 代理経験は、自分以外の他者が何かを達成することを観察することで思う「自分にもできそうだ」という観念です。観察の対象が自分と類似した人であるほど、代理経験は効果を及ぼします。たとえば、部活動でライバルが記録達成をすれば自分にもできると思えたりすることです。
 社会的説得は、他者からの言葉によって自己効力感を高めることです。「あなたならできる」「達成する能力がある」などというポジティブな言葉くり返し受けることで、自己への疑念が取り払われ、活動に邁進することができるようになります。
 生理的・情緒的喚起は、心身の健康状態による自己効力感への影響です。心身が元気で前向きであるほど、自己効力感は高まります。個人的には、十分な睡眠と食事などの生活習慣を整えることが生理的・情緒的喚起を高め、自己効力感の向上につながるのではないかと考えています。

 紹介が長くなってしまいましたが、モチベーション理論の一つでは、このような4つの要因が自己効力感を高めると考え、その自己効力感の高まりが目標達成へ向けた活動を支えていくことになると考えます。そして目標へ向けて、たとえ困難があっても努力を続ける人がいたら、そに人は意志が強い人とみられることでしょう。これらの関係を図に簡単にまとめました。

20211218_その人は本当にそういう人だろうか。_図


 私たちが「意志が強い人」というとき、それは個人の人間性に帰属する問題として捉えることが多いのではないでしょうか。あの人は意志が強い、あの人は弱いなどと言い、個人の問題として捉えられるように思います。
 しかし、モチベーションの理論をみていくと、意志を生み出す素には、代理経験や社会的説得といった環境による要因もみてとれます。
 また自己効力感へ最も大きな影響を及ぼす達成体験も、簡単すぎず無謀すぎもしない目標を立てることが重要であるとされ、そうなるように支援する試みも教育の現場などではされているようです[2,P205]。また、そもそも目標の立て方を、他者からの評価や他者との比較を目的とせず、能力の向上や課題の解決に焦点を当てることで、能力に対する自信が低くても達成へ向けて邁進することができやすくなるのだといいます。つまり、目標の立て方や、目標に対する考え方によっても、その人の表面にみてとれる「意志の強さ」は変わってくるのではないかと考えられるのです。周りの支援や、自身の経験や知識によっても、意志が強いとみられるかどうかに影響を与えるのではないかということです。

 ここまで、足早ではありましたが、努力の継続という点における意志の強さをみてきました。その要因をモチベーション理論を用いて分解していくと、意志とは個人の気合いや根性などで生まれるようなものではないことがわかります。やる気を出そうと思えば生まれるものでもなく、その人がそのときに置かれている環境や過去の積み重なりによって、左右されるものだと考えられます。ただし、自己効力感や意志の強さは、環境だけに起因するわけではもちろんありません。能力だけではなく性格にも遺伝的要因があると考えられており、自己効力感ではありませんがたとえば「自己超越」や「新奇性追求」などにも遺伝の影響があることが確認されています[3,P59]。しかし同時に環境の影響もあることも確認されています。
 たとえば仮に、努力が続かない人がいたとしたら、その原因をその人個人だけにみるのではなく、その人を取り巻く環境にみることは大切なことではないでしょうか。あの人は努力ができない、意志が弱いとされてしまうことは、人間性そのものを批判されているようで辛いものがあります。しかしここでみてきたように、努力の継続や意志には環境が影響するのではないかということが示唆されました。その人だけをみて、その人だけに原因をもとめることは適切ではないと考えられるのです。
 他者に対する見方ではなく自分自身に対しても同じことが言えるのでしょう。ここで取りあげた努力や意志の問題だけではなく、人が抱える他の特性に関しても、環境が影響していることはあるのだと思います。自分はそういう人間だと決めつけることなく、すこし引いた目線から要因を考え、環境や考え方などを変えていくことは大切なポイントなのでしょう。そのときその時点での人の行為や性質の現れは、必ずしもその人の本質ではなく、環境や状況に依存したものであるという観点を忘れてはいけないように思います。

他者そのものだけに焦点をあてすぎないこと

 人が人に対する認識をもとうとするのは、協力活動を円滑にするためであり、不可欠なことなのだと思います。どんな能力を持っているのか、どんな性格なのかは、役割分担をする上で重要な情報です。また、そうした仕事的な関係でなくても、飲み会の場に誰と誰を呼んだらいいのか、あるいは気まずいのかなど、プライベートや遊びの場でも他者に対する認識は必要とされるでしょう。

 しかし私たちはときに、負の感情をやりすごすために、自分のなかにある価値観や規範意識を利用して他者を都合よく評価することを、してしまっているのかもしれません。他者に対する評価のときだけでなくとも、物事の判断全般から自分の感情を除くことは困難であるのだと思います。先入観も、職業や性別などに紐づくものをさまざまもっているはずです。いくつかの色眼鏡越しに他者をみているということを忘れてはいけないのだと思います。
 今回は他者に対する見方に影響を与える規範として「悪いことをすれば罰せられる」を例に出しましたが、こうした規範や価値観というのは、歴史的な堆積の上に成り立つ揺るぎないものでは決してなく、比較的容易につくられていくようです。たとえば、申し訳ありません出典元を忘れてしまったのですが、学校の運動会で競争をさせないことによって、「結果が出ていない人は怠慢が原因である」という考え方が身に付くのだという研究報告を見たことがあります。平等性を重んじて、運動会でたとえば50m走をしても横並びでゴールテープをきることにしたとします。すると、足の速さに違いがあるということを知ることができません。このような過剰な平等性が、運動のほかにも勉強や芸術などの領域でも適用されると、「人には生まれつき能力に違いがありそうだ」という認識をもつことができません。すると、結果の優劣を決める要因はその人の努力に集約されていき、結果が出ていない人は怠慢であるからであるという理解に至ってしまうようなのです。
 私たちはそのときの感情や規範・価値観を通して他者をみているのだといえそうです。規範や価値観はあたりまえのこととして身に染みついているものであるといえます。しかしそれは、たとえ周りの多数が同じものを有していたとしても必ずしも正しいとは言えないはずです。感情を抑えて物事をみることや規範や価値観を疑うことは簡単なことではありませんが、色眼鏡をかけている他者をみているのではないかという認識がまずは大事になってくるのではないかと考えます。

 注意を向けるべきは、自分の感情や規範・価値観だけではありません。視野を広くとる必要もあると考えられました。その人がくり出す行為や習慣だけに目を向けてそれがすなわちその人の人間性や本質であるとみるのは、適切ではないと考えられるのでした。さきほどは意志や努力に環境が影響するのではないかという考えを示しましたが、もうひとつ、仕組みに乗せられることで人はとんでもない行為に及ぶことがあることを紹介したいと思います。有名な、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人の大量虐殺の例です。『社会心理学講義』による見解を私なりに要約して紹介します[1,P76]。
 1933年のナチス党の台頭から1945年までの間に、600万人ものユダヤ人が犠牲になったとされています。そのなかでも、ある警察予備隊は500人という少数でありながら、わずか1年4ヶ月の間に3万8000人のユダヤ人を銃殺し、4万5000人をトレブリンカ絶滅収容所のガス室に送り殺害しました。警察予備隊の500人は特に残虐な思想や気性をもった人たちだったのでしょうか。それは違かったと考えられており、むしろ「普通の人」たちでした。徴兵を受けるまでは、工員・商人・手工芸者・事務員などを生業としていた人たちだったのです。では、なぜそのような人たちが大量虐殺に手を染めることになったのでしょうか。
 それは、分業体制をしくことで責任転嫁ができたことに起因すると考えられています。1人のユダヤ人を1人の予備隊が殺害するのではありません。名簿を作成する人、検挙する人、殺害を命令する人、実際に手を下す人など、担当が分けられていました。それでも銃で殺害する、直接的に手を下す担当の人たちは次第に苦悩し心身に変調をきたしていきます。そこで開発されたのが毒ガス室による殺害方法でした。ユダヤ人を輸送し、ガス室に入れ、ガス噴出のボタンを押し、死体を埋めるという、より間接性を帯びた殺害の仕組みをつくりだしたのです。アウシュビッツ統括責任者のルドルフ・ヘスは「銃殺の必要がなくなり、重い気分が晴れた」と言ったのだといいます。ユダヤ人の大量虐殺は、残虐なこころをもった異常者によって行われたのではなく、普通の感覚をもった人たちによって行われました。責任を感じさせない仕組みをつくることで、真面目に業務を遂行する普通の人でも殺害行為をできるようにしたことが、大量虐殺が起きた要因でした。ちなみに、反ユダヤ思想も、その思想があったから虐殺が起きたのではなく、虐殺をする罪の意識を沈めるために反ユダヤ思想で行為を正当化していたのではないかとみられているようです。
 他者をみるとき、人を個としてすくいあげるように見て判断することはないでしょうか。大量虐殺を実行した予備隊はなんて残虐な人たちなんだ、きっと強烈な思想教育を受けたり、元々異常者だったりしたに違いない、などと考えるかもしれません。しかし実際は普通の市民でした。その行為をさせたのは、彼らが身をつないでいた仕組みにあったといえるのです。
 人間は個として存在しているようでいて、その性質を周囲の環境と切り離してみることは適切ではないのでしょう。環境と人間そのものがもつ特性が呼応するようにしてその人を成し、そしてそれらの人の集合で社会ができているという、相互的なものであるとしてみていく必要があると言えそうです。個を個としてだけみるのは、適切ではないと言えそうなのです。

 他者をみるとき、その人だけを凝視するだけではいけないのでしょう。私たちのひとりひとりはきっと文化や経験に基づいた色眼鏡をかけています。そして見る対象の人も、個として独立した存在であるわけではなく、環境や状況に影響されながら活動をしています。
 色眼鏡を自覚したり、広い視野をもって環境ごと他者をみたりするためにはどうすればいいのでしょうか。それは、人と話したり、本などから知識を得たりすることが、ひとつの方法なのではないかと思います。今回何度か登場した『社会心理学講義』には、常識に反するような視点がいくつも紹介されていました。
 その人は本当はどういう人なのでしょうか、自分はいったいどんな人間なのでしょうか。人間が環境から切り離せないとするならば、「人」そのものをみるようなこれらの問い自体がずれているのかもしれません。しかし、人対人の付き合いをしたり、個人というものをもって生きていったりする上では、手放すことができない問いなのではないかとも思います。きっと本人でも気づいていないようなその人が、みつかっていくことでしょう。


〈参考図書〉
1.小坂井敏晶著『社会心理学講義』(筑摩選書)
2.鹿毛雅治編『モティベーションをまなぶ12の理論』(金剛出版)
3.安藤寿康著『遺伝マインド』(有斐閣)

(吉田)

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