(文量:新書の約13ページ分、約6500字)
銀座を歩いていると、「MARUGEN53」などという看板を掲げたビルをいくつも見かけます。格子状に区画整理された銀座では、きれいな直線の道にビルが並ぶため、ずっと向こうのビルの袖看板まで見えるのです。MARUGENの後に続く数字はそれぞれ違います。どうやらその数字とは、「何番目のMARUGENビルか」ということを示しているようでした。
決して古びてはいないけれど年季が入ったそれは、バブルの頃に建てられたものだと想像がつくものです。ネオンの感じも、イメージするあの頃のものでした。そして、MARUGENの頭には「◯」の中に「源」の文字が入ったエンブレムが掲げられており、個人のものだということがなんとなく分かるのです。
所有者は川本源司郎。子供の頃の夢は「金閣寺に住みたい」(Wikipediaより)。川本氏のその欲深い夢は、バブルの追い風にのって、限りなく現実に近いものになったと言えるのかもしれません。福岡に1番を刻んだビルは、日本で最も地価が高い銀座にまでそのナンバーを刻むに至りました。
リベルの読書会では、少し前に『モモ』(ミヒャエル・エンデ著)や『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著)を使った読書会を開きました。『モモ』は、発展していく都市、合理化されていく仕事、ゆきすぎた機能を備えたおもちゃ、豊富にありすぎるエンタメなどが社会を覆っていき、人々はそれらに追い立てられ、自分の時間がなくなり、個々に備わる独創性も奪われていくという物語です。また、『人新世の「資本論」』は、経済成長と地球環境の維持の両立や、経済成長と世界的に公平性のある発展の両立は困難であることを示し、「脱成長」の必要性を説く内容でした。いずれも資本主義社会を批判的にみるもので、あるいは先進国における資本主義の役割の終わりを提言するものでした。なにをもって資本主義とするのかは難しい問題であると思いますが、なんだか牙を抜かれるような気もしないでもありません。
バブルとは今となっては「なんと愚かな」と言うことはできますが、歴史的にバブルは繰り返されてきました。人はあのようなギラギラとした光源があれば吸い寄せられ、自らのエネルギーを投下していく気質があるのかもしれません。それを愚かしいと口ではいいながらも、心の底ではそれに憧れ、エネルギーを捧げる先として欲しているとも感じられます。平和で安全なだけで、人は、生きていけるのでしょうか。
ただ一方で、そのような欲望は何かしらの仕掛けに掻き立てられているところもあると思います。誰もが備えていると思われる不安や、所属欲や承認欲といった種火に風を吹きかけるように消費を促してくる仕掛けは、社会のそこかしこにあるはずです。そうやって欲しいものができるのもまたエネルギーにもなりますが、操作されているようで納得できないこともたしかです。
このような、エネルギーとしての欲と、過熱によるひずみを生み出す欲は、身近すぎて見えないけれども、奥深いものでもあると感じられます。そこで、あまり枠を定めすぎずに、「人の欲」という大きな括りの中で読書会を開き、いろんな本を読んで、話して、考えてみたいと思いました。
リベルでは3月7日を第一回目として、テーマを「人の欲」においた読書会を始めてみています。まだ二回を終えた段階ですが、読書会を通して少しだけみえてきた「人の欲」について、紹介してみたいと思います(前置きが長くなりました…)。
欲の力
人間性心理学の生みの親とも言われているアブラハム・マズローは、人間の欲求を5段階に分けて、順番に満たされていくとしました。生理的欲求>安全の欲求>所属と愛の欲求>承認の欲求>自己実現の欲求という順番です。このような欲求の類型や満たされていく順位付けは、明解ではありますが、もう一方で私たちの中で日々生まれてくる欲は、もっとさまざまであるはずです。
例えば、「自分の未来を知りたい」という欲があると思います。読書会で『運命が見える女たち』(井形慶子著)を読んでいる人がいました。“本物”と呼ばれる占い師が、初対面の著者のことをズバズバと言い当てていくのですが、おそらく著者の未来にも触れられて著者は次第に苦しみを大きくしていくのだそうです。著者の苦しみは、未来に合わせようとしてしまう自分と、本当の自分との間のギャップによるものなのではないかということが読書会では話されました。あるいは仮に占い師の言う未来が本当のものだったとしても、今の自分ではその未来を生きるだけの準備ができておらず、拙速すぎたということなのかもしれません。
他にも例えば、「もちたい」欲の話も出ました。いわゆる所有欲のようなことですが、読書感想では、学びに関するもちたい欲について触れられていました。「もちたい」という欲があるがために、ある時に自分が得た情報や知識を固辞してしまい、それ以外の視点をシャットアウトしてしまうというようなことです。あるいは答えらしきものをみたときに、「答えを得たり」と自分の懐にささっと納めてしまうこともあるように思います。
このような「もつ」と対比された、「ある」ということも読書会では紹介されており、「ある」を学びと関連付けると、「関心を持つことで反応し、学び変化する」と解釈されていました。「もつ」とは持った自分と周囲との間に境界を引くようなことで、「ある」とは一度は持つのだけれども境界は引きすぎず、自分と周囲との間に循環や流動がある状態のように思えました。「ある」方が柔軟性があり豊かなような気もしますが、「もつ」「もちたい」欲は結構強いように思います。なぜ人は持ちたがるのかということも、気になるところでした。
かのナポレオンが苦悩した「愛」も、複雑さを感じさせるものでした。私が読んでいた『愛と欲望の世界史』(堀江宏樹著)の中で紹介されていた話です。ナポレオンがフランス皇帝の地位を失った後も、ときの皇后マリー・ルイーズはナポレオンを励まし続けました。しかし、マリー・ルイーズとナポレオンを引き離したいと考える、マリー・ルイーズの父の画策により、二人は会うことすらできなくなっていきます。マリー・ルイーズの出自は、中部ヨーロッパで強大な力を誇った大貴族・ハプスブルク家でした。会えないことに絶望したナポレオンは、毒をあおって自殺を図ります。しかし、毒は古く変質しており、死ぬことができませんでした。その後マリー・ルイーズの心も徐々にナポレオンから離れていきます。しかしナポレオンは流刑の地で、自分が好きな緑ではなく一般的に好まれる白やブラウンを基調とした家を整えました。妻子と一緒に住むことを諦めたわけではなかったのです。
とはいえナポレオンも徐々に状況を悟っていきます。ナポレオンは再起し皇帝を奪還しましたが、衰えが隠せず、再び幽閉されてしまいます。そこで再びこしらえた家は、自分の好きな緑を基調としたものでした。しかし、この緑の染料が問題でした。その染料は、ナポレオンが幽閉されていた地の高い湿気に反応して、ヒ素ガスを発生するものだったのです。ナポレオンはヒ素中毒になり、死へと向かっていきました。
戦争の天才として身を捧げる一方で、マリー・ルイーズへの思いも強いものでした。しかし少し不思議なことに、ナポレオンの女性観は暴君にも似たものであったといいます。『愛と欲望の世界史』の引用を紹介しますと、「女の頭脳の弱さ、思考の移り気、社会における(男性より低い)地位を考えれば、(男性に対する女性の)絶え間ない忍従を教え込まなければならない」と豪語していたというのです。相手を下にみながらも強く求める、これは時代の価値観との交わりによるものとも言えるのかもしれませんが、人をとりまく愛の複雑さについて考えさせられました。
欲は抑えてもいいものなのか
こうして、人に湧いてくる欲について考えてみると、自分の欲なのに自分の人生を翻弄されそうで、欲には少しフタをしたくなる気もします。しかしながら、無理にフタをしてしまうのも、少し危険でもあるようです。
精神科医の泉谷閑示氏の『「普通がいい」という病』では、葛藤の重要性が著されていました。葛藤とは、「頭由来の考え」と「心由来の感情」が併存しており、それらの二つがうまく噛み合わず悶々としている状態と著されていました。スッキリしない状態で、あまり快適であるとは言えません。しかしここで、頭由来の考えで心由来の感情を無理にたしなめようとすると、感情は抑圧されていきます。すると、ある時にはじけて心が反乱を起こしたり、活動を停止して気力や意欲が生まれなくなり、身体にまで影響を及ぼすことがあるといいます。欲と感情とを同一視していいのかは微妙なところですが、欲も同様に無理に抑えすぎると爆発してしまったり、自分が何を欲しているのはついには分からなくなったりするようなことはあるように思います。葛藤していることはむしろ健康なことであり、「健康な不安定」状態であると泉谷氏は記していました。
また、欲を抑えることで生まれてしまう負の感情についても、「五本のバナナ」という物語とともに紹介されていました。この話は、三本で満足できるバナナを五本持っていた時に、物乞いに遭遇するというものです。本当なら三本食べたいところを二本で我慢して、残りの三本を物乞いにあげたとします。しかし物乞いはバナナを好まず、「こんなものいらない」と地面に捨ててしまいます。あなたはどう感じるでしょうか?、というお話です。おそらく、「せっかく自分の分を我慢してまであげたのに」という怒りや哀しさが湧いてくるのではないでしょうか。
しかしながら一方で、バナナを三本満足のいくまで食べてから、食べ切れなかった分の二本をあげた場合であればどうでしょうか。物乞いに捨てられたとしても、「まぁもともと食べ切れないものだったし」と比較的平坦な心のままでいられるのではないでしょうか。この2つのケースを比べると、前者の二本で我慢してあげたケースでは、我慢した分だけ、「相手に感謝してほしい」という欲が新たに生まれたようにも見受けられます。自分が満足していないと、利他的な行為にでたとしても、心の中には利己と利他の間でひずみが生じてしまうことがあるようなのです。泉谷氏は、「まず自分をきちんと満たしてやること」が大切だと記していました。
他者に無償の愛のようなものを供するにはまずは自分を満たさないといけないというのも、少し寂しいような悲しいような気もしないでもありません。ただ、満たすべき自分の欲は、小さくすることができるようなのです。泉谷氏は「人間として成熟していって「欲望」の割合が小さくなればなるほど、「愛」に使える部分は大きくなってくるでしょう」と言っています。欲望の割合が小さくなるとは、「五本のバナナ」の話でいうところの、自分が満足するためのバナナが三本から二本に、そして一本になっていくということです。一本になれば残りの四本を愛に使えるということになっていきます。
そのような生き方をしたいかどうかは一旦置いておいて、ではどうすれば自分の欲望の割合を小さくしていけるのでしょうか。そのヒントは仏教に一つあるのだと思われます。そもそも「五本のバナナ」の話も仏教にヒントを得たものだそうです。
『空海に学ぶ仏教入門』(吉村均著)を読んでみました。まだ理解できたとは到底言い難いのですが、仏教の修行によって、「私」「私の」という考え方は薄れていくのだと言います。しかしその境地にたどりつくためには、何段階もの修行を、何年・何十年と積み重ねることが必要なようです。少し意外だったのは、仏教とは「ものの見方を変える」ことを助ける手法のようなものだということでした。決して大上段から新たな教えを植え付けるようなものではなく、もともと人がもっているものを少し変えることで、周囲に対する見方を変えていくというものなのだそうです。修行によってものの見方が変わって「私」「私の」が小さくなっていくというのは、どういうことなのでしょうか。そのような境地は、口で伝えられるようなものではないとも、同時に記されていました。
また、マズローのいう自己実現の欲求も、仏教修行でたどりつく境地に近い印象をもっています。“自己”実現とは、利己的な印象をもってしまう言葉ですが、マズロー自身もそのネーミングの欠点を認めています。『完全なる人間』の序文でマズローは、自己実現のネーミングの欠点の一つを次のように言っています。「(a)愛他的というより利己的な意味が強いこと。」自己実現とは、その言葉からイメージされるほど「自分」や「私」に重きが置かれておらず、他を重んじる「愛他的」である状態ということが分かります。また、自己実現の欲求とは、その前段階として4つの欲求を満たすことではじめて生じる欲求なのでした。このような点も、仏教で段階的な修行を経ることで一つの境地に達する点と類似しているように思えます。
古来より続いてきた仏教と、近代心理学の視点から掲げられたマズローの理論が、近い印象のある一つの境地を示していることはとても興味深いことです。しかし、それ以上に目を向けたいと思うのは、仏教的境地にしろ自己実現にしろ、一足飛びに達せられるものではなく、修行というと重いのですが、相応の準備が必要であるということです。今すぐに愛他的になろうとか「私」を捨てようとか思っても、頑張りすぎると、「五本のバナナ」の話のような心のひずみが生まれてしまうと言えそうです。一歩一歩じっくりと、ひとまずのいけるところまで、というような心持ちが適切であるような気がしました。
欲の倫理学
欲とは突き詰めていくとマズローが示したようないくつかに分類されるのかもしれませんが、私たちが日々実感する欲はもっと多様であるように思えます。しかしそれらの欲には、適切な付き合い方があるように思えました。未来を占ってもらうと、もしかしたらそれに合わせるように生きて、今の自分との間でストレスが生まれるかもしれません。何かを持つことができれば、安心も生まれるかもしれませんが、一方で手放したり何らかの変更を加えていくことを避けるようになってしまうかもしれません。欲とは自分の中から湧いてくるはずのものなのに、それ自体に自分自身が吸い込まれていくようにも思えます。あるいは欲は、自分の中から湧いているというわけでもないのでしょうか。
ただ一方で、少しわずらわしくも感じてしまう欲に、フタをしてしまうことも違うようでした。無理に押さえ込んでしまうと心や身体に支障をきたしたり、他者への愛も生まれにくかったりする可能性があるのでした。ますますややこしい欲ですが、個人的には、泉谷氏がいうように、まずはきちんと満たすことが大切であるように感じます。そして欲に翻弄されないような生き方をするためのヒントは、たとえば仏教などにあるのかもしれません。修行とまでいくと大変ですが、昔から人々が育んできた地道な方法論にも目を向けてみるのもいいのではないかと思いました。
MARUGENビルをどんどんと建てて所有していった川本源司郎氏は、バブル崩壊を経ても、生き残りました。なぜなら、借金をせず、現金主義を貫いていたからです。また、家族も持ちませんでした。「家」を残すようなことは考えず、ひたすら不動産賃貸業を営み、稼ぎました。取り巻きのような関係の人間も、持たなかったといいます。日本の一等地・銀座に、自己顕示的ともいえるビル名とナンバーを刻んだ張本人は、深い欲に相応の哲学をもって生きていたようにも感じられました。
「人の欲」をテーマにおいた読書会は、4月末頃まで開いていこうと思っています。読む本は、欲という名がつかなくても、自分の中で何らかのイメージが湧くもので結構です。まだ二回の開催ですが、幅広くもってきていただいています。こちらの読書感想もご参考にしてください。それでは、お待ちしています。
〈読書会について〉
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(吉田)