2024.05.18

こっちとあっちを分けるもの。 -読書のもやもやについて話す時間

読書をしていると消化しきれない問題というのが沸々と出てきたりします。それは言葉にして誰かと話してみるとちょっとだけ輪郭がはっきりとすることがあります。そんな話す時間を定期的に開いています。

 リベルの読書会では月に1回くらいの頻度で「読書のもやもやについて話す時間。」というのを開いています。読書をしたり読書会に参加したりしていると、消化しきれずにもやもや感が残ることがあります。この会はそんなもやもやを持ち寄って話してみる・他の人に聞いてみるというものです。会にもやもやを持ってくるかは任意で、持ち寄られたものの中から一つを選んで話します。ちなみに、もやもやは読書から発生したものだけではなく生活のなかで感じたことでもいいというゆるさでやっています。

 少し前にはこんなテーマで話しました。

「第三者的な空間ってどんな空間?どんな態度で?(対話ってなんだろう)」

少しピンときにくいワードが使われていると思いますが、これは『正欲』(朝井リョウ著)を読んだ方から出されたものでした。テーマの紹介も交えながら、会で広がった話について少しだけ書いてみたいと思います。

 「第三者」というのは日常でもよく使われる言葉ですが、普段の意味合いからは少し離れたものだったように感じます。ここでの意味を適切に捉えるためには、無意識的に置いているかもしれない「こっち・あっち」という立場について改めて考える必要があるように思いました。
 こっち・あっちというのは、普段は単純に場所を指す時に使う場合がほとんどなのではないかと思います。「こっちにおいで」とか「あっちにあったよ」とか、人を呼んだり物の位置を教えたりする時に使います。しかし会で出た「こっち・あっち」とは、立場というかこころの立ち位置の問題として示されました。
 たとえば男性が「女性も大変だよねぇ」などと言ったとします。これは、それを言った男性は自分を「こっち」に位置付けて、女性を「あっち」に位置付けているということになります。社会には様々なカテゴリーが存在します。性別・出身地・学歴・未婚既婚など、ほんとうに様々です。そしてカテゴリーに人を当てはめます。もしかしたら、自分よりも他人のことをみるときにカテゴリーに当てはめるのかもしれません。
 カテゴリーがあること・当てはめることの良し悪しは一旦おいといて、会のなかでは「無意識のうちに自分をこっち側に当てはめて、しかもこっち側を優位な立場だと認識した上でこっち・あっちと表現していないか」みたいなニュアンスで話されていたような気がします。もしかしたら僕の思い込みかもしれませんが、そんなニュアンスだったと思います。
 自分はそんなことをしていないかというと、していないとは言えないだろうと思います。でも具体的にいつどんな他者に対してそう思ってみているのだろうかと振り返ろうとしても思い当たることが出てきません。この無自覚さが厄介なのかもしれません。
 ということで考えれば考えるほど深く潜っていきそうな話なので、まずは『正欲』を読んでみようと思います。早速Amazonで買いました。人のこころというのは、いろいろとやっているなぁと改めて思いました。

(よしだ)

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#個性・多様性 #認識・理解 #読書会

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