2020.12.12

自由はどこにあるのだろうか。

自由な社会ではなく、自由な自分を説明しているような概念に出合いました。人が自由になっていくとはどういうことなのか理解を試みてみました。自由には少しずつ近づいていけるようです。

(文量:新書の約11ページ分、約5500字)

 突然ですが、このような状況は自由と言えるでしょうか。新規事業の担当を上司から言い渡されたAさんの例え話です。

上司「Aさん、今度新規事業を担当してもらうことになったから立案よろしく。」
Aさん「分かりました。うちの会社と同業種でということでしょうか。」
上司「いや、そこはこだわらなくていい。」
Aさん「分かりました。対象とする顧客は、うちと既に関係がある既存顧客でしょうか、それとも新規顧客でしょうか。」
上司「いや、そこもこだわらなくていい。」
Aさん「では、売上規模は、どれくらいの範囲を想定すればいいでしょうか。」
上司「大きいに越したことはないけど、その分競合も出やすいだろうから、そこらへんも考慮して考えてみてほしい。」
Aさん「…。では、漠然としたビジョンのようなものでも教えていただけますでしょうか。」
上司「むしろ、そこから描いてほしい。自由にやってみてくれ!」
Aさん「…。」

 すこし意地の悪いような例え話になってしまいましたが、一見Aさんは新規事業立案という仕事における自由を獲得したようにみえます。上司に聞いたところ、ひとまず制約のようなものはありません。まっさらなところに、イチから自分で描いていくことができます。自由に考えていいという許可を得ることができました。
 しかし、Aさんは逆に困ってしまいました。何から考え始めればいいのか、何から手をつければいいのか分からなくなってしまったからです。何も制約がないのに逆に身動きがとれなくなってしまい、あまり自由であるとも言えなそうなのです。
 一般的に私たちは、「自由とは制約がないこと」であると考えているのではないでしょうか。自分の思うがままに選択できる制約がない状態や環境は自由であるという認識です。ただ、Aさんの例え話を見ていると、必ずしも制約がないことが自由であるとは言えなそうなのです。あるいは、制約がないことが自由であるという定義でもいいのかもしれませんが、それは望む自由であるとは言えないのかもしれません。身動きがとれなくて不安定で、ストレスも大きそうです。
 では、私たちが望む自由とは、一体どのようなものなのでしょうか。自由というものに高揚感は覚えるので、たしかに自由を望んでいそうなのですが。
 
 このような自由に対する疑問を頭の片隅に抱いていたところ、ある自由の概念に出合いました。それは、哲学・現代思想を専門とする國分功一郎氏が、17世紀オランダの哲学者であるスピノザが著した『エチカ』から「自由」について説明を試みている『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)[1]に記されていたものです。國分氏によるスピノザの自由に関する概念の説明を、引用して紹介します[1,P76]。

不自由な状態、強制された状態とは、外部の原因に支配されていることである。ならば、自由であるとは、自分が原因になることではないでしょうか。

 これは、先に挙げた「制約の多い・少ない」を基準とはしない、新しい自由の概念ではないでしょうか。私自身はなんだかとてもしっくりくるものに感じました。しかし、じっくりと『はじめてのスピノザ』を読み解いていくと、抱いたイメージよりも、もう少し重層的な意味合いのあるものでした。
 紹介した自由の概念で抱くイメージは、外部の原因とは人に言われたり状況に対応したりするために仕方なくやることで、それに対して自分が原因とは自分で選択したことを自分の意志をもってやること、というようなものがイメージされます。しかし、スピノザの自由の概念では、「自分」や「原因」に対する捉え方がこれとは少し違うようなのです。

 スピノザの言う自由を正しく捉えるためには、スピノザが人や神、世界の存在をどのように捉えていたかを知っておく必要があると言います。少し話がややこしくなってきました。どうか、「私は無神論者だから」と読むのを中断しないでください。神はいるのかどうか・神を信じるかどうかは一旦置いておいても、自由について考える上で、スピノザの概念はとても有意義なものだと感じています。

 スピノザは、人を神の一部であると見なしていたようです。どういうことかというと、私たちが生きる世界そのものが神であり、人や動物だけではなく、水や空気といった自然全てが神であるということです。これは、日本の自然のあらゆるものに神が宿るという「八百万やおよろずの神」に近いように思えますが、一つの点で明確に異なると言います。何が異なるかというと、八百万の神は神が多数いる多神教ですが、スピノザのいう神は一神教であるということです。例えば、森には森にまつわる神が宿るということではなく、森は神の一部であるということです。
 また、さらにもう一段ややこしいのですが、神の一部とは言っても、神の身体の一部というよりは、神の動作の一部の副詞的な表れであると捉える方が適切なようです。つまり、私は神の右手の小指の先のあたりであなたは親指の付け根のあたり、というようなことではないということです。副詞とは、動詞を修飾する速く・大きく・はっきりと、というようなものです。ですので、人や他の動物、水や空気は、神の動作や存在の表現物であり、「神の存在の仕方」であるのだと言います。

 さて、では人や自然それぞれの存在を、神の存在の仕方の表れの一部であるとしたときに、さきほどの自由の概念に対する見方はどのように変わるのでしょうか。
 自由の概念では、不自由とは外部の原因に支配されていることで、自由とは自分が原因となることであると説明されました。しかし、万物が神の一部であるとするならば、原因はすべて神にあることになります。神がどのような存在の仕方をするかによって、私たちの存在や行為が決まっていくからです。原因に外部も自分もなく、全ての原因は神にあるということになります。これでは、さきほどの自由の概念に当てはめると、原因が神という外部にあるので、私たちは不自由でしかありえないということになります。
 しかし、ここには神と私たちの関係に対する、もう一段深い理解が必要なようです。
 スピノザの考えでは、私たちは神の一部であり、神の存在の仕方の表れ、副詞的存在であるとされました。この考えにのっとると、私たちの存在や行為は、神の力の表現であると捉えることができます。そうすると、自由の概念はこのように言い換えられるようです[1,P80]。

私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。

ここで、新たに「能動・受動」というワードが出てきましたが、これは自由・不自由に置き換えていただいて差し支えないと考えられます。つまり、仮に言い換えてみるとこうなります。

「私は自らの行為において自分の力を表現している時に自由である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は不自由である。」

 紹介したかったスピノザの自由の概念はここまでになります。ここからは、このような概念を得た時に、私たちの生活や生き方についてどのようなことが言えるのか、私なりに意味を考えてみたいと思います。

 まず直感的に思ったことは、スピノザの自由の概念は、自分の意志をもって選択できていることが自由であるというよりも、自分にフィットする状態であることが自由であるとしているのではないかということです。私たちが神の一部であるというように捉えるならば、自分の力とは内的に備わっているものであり、力の表現の仕方も一定程度定められているように捉えられます。その自分の力とは、いわゆる足が速いとか頭が良いとかいう能力面だけではなく、性格や物事の好き嫌いも含まれているのだと考えられます。なぜなら、私たちの全体は神の存在の仕方であるとされているからです。
 そのような自分の力が、無理なく表現されている時は、たしかに軽やかである様が想像され、自由であると言えそうです。

 反対に、他人の力を表現している時はたしかに不自由そうではあります。しかしそれは、具体的にはどのようなことを言うのでしょうか。
 一つには、最初の例え話で出たような、上司からの指示があった時を言うのではないかと考えられます。指示によって行われる仕事は、指示をした他人の力の表現であると言えそうだからです。ただ、指示を受けたからといって必ずしも、不自由に感じることばかりではないと考えられます。むしろ、何も言われずに放っとかれる方が、何をしたらいいのか分からずに不自由を感じる場合もありそうです。ここでいう他人の力の表現とは、自分が共感できない・納得できないとか、どうしても嫌いとか価値観に大きく反するとか、(現時点の)能力的・心のあり方に合わないなどといったことを、やらざるをえないことを言うのではないかと感じました。言い換えると、「押し付けられている」と感じてしまうような状況のことを不自由であると言うのではないかと考えられます。これは、他人から直接的に指示を受けるような場合に限らず、一見自発的に行為を起こしているようでいても実は社会の風潮や空気に流された末の行為である場合にも不自由であると言えるのではないかと考えられます。それは、他人というほど明確ではなくても、社会という他人の力を表現していると言えると考えられるからです。

 では、自分の力を表現するためにはどうすればいいのでしょうか。
 一つには、組み合わせに着目することが重要であると言えそうです。スピノザは、善悪は組み合わせによって決まると言っています。例えば、お酒は子供にとっては悪ですが、大人にとってはちょっとした気分転換や他者と打ち解けるにあたっての潤滑油になるという点で善であると言えます(飲み過ぎると悪ですが…)。あるいは、激しい負荷をかけるウェイトトレーニングは、基礎的な体作りができいない段階では怪我の要因にもなり悪ですが、体ができている段階では筋力を効率的につける善のトレーニング方法となります。このように、ある物・事が人によって悪にも善にもなり、同一人物でもタイミングによって悪から善に変わるということもあり得ます。善についての説明を置き去りにしてしまいましたが、スピノザ的見解では、「人間にとって善いことは、その人の活動能力が増大すること」[1,P71]であると言います。したがって、活動能力が低下しているなとか、自分の力が表現されていない感じがするなとか、不自由だなと感じた時は、組み合わせに着目してみるといいのかもしれません。
 二つには、経験や知識を蓄積していくというような、学習を重ねるということも重要であると考えられます。スピノザ的見解では、「実験を重ねる中で、自らの身体の必然性を知り、少しずつ人は自由になっていく」と言います[1,P73]。つまり、少なくとも生まれた時点では自分の力を表現することはできないということです。これは言われてみれば当たり前のことで、赤ちゃんの時には、手で掴んだ食べ物をうまく自分の口に運ぶことができません。もっというと、物を掴むという行為を成功させるまでにも、ある程度の学習経験を必要とします。大人になる頃には、生活に必要な一通りの行為や知識を習得しますが、それでも自分の得意不得意や好き嫌いに関して、意外な発見をすることも少なくないのではないでしょうか。それらを認知していくことで、フィットする組み合わせにも出合いやすくなるのかもしれません。

 自由について考えてきました。様々な自由の概念や定義があってもいいのかもしれませんが、スピノザが示してくれたものは、どこか私たち個人個人に根ざしたものに感じられました。自由とは、自由主義や自由な時代と言われるように、社会環境に関して言われることもあります。しかし社会が自由になっても、それが私たち個人個人の自由に直結するわけではなさそうです。ただし、個人の力が表現される可能性が高くなると考えられる、選択できるという意味での自由な社会は、私たちの自由につながると言えそうです。
 自由とは、一足飛びに得られることではなさそうです。誰かに「今日からあなたは自由です」と許可されて得られるものでも、社会が自由に変容したからといって得られるものでもなさそうです。少しガッカリもしますが、希望でもあるとも考えられます。組み合わせの模索や学習の堆積によって、少しずつ自由になっていくことができると言えそうだからです。また、冒頭のくり返しになりますが、個人にとっての自由とは制約がなくなることとイコールではないと考えられます。むしろ、他人や社会との交互作用の中で、自分にとっての自由が見出されていくようにも感じられます。さまざまな活動や経験を通して、自分の力が表現できる自由な状態になっていくのではないでしょうか。
 今回は、スピノザの見解から自由について考えてみました。神の存在も登場したため、疑念をもつ場合もいるかもしれません。そこはスピノザの自由に関する見解が実生活における経験と本当に合っているかどうかという点から、判断してみてもいいかもしれません。
 自由とは、ある日突然その状態になるものではなく、少しずつなっていくものだと言えそうです。自分の中にただ在るだけではなく、社会に整備されているものでもなく、探索の中で周囲との間に浮き現れていくもののように感じました。


〈参考図書〉
1.國分功一郎著『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)
 難しい印象のある哲学的知見について、難しい言葉を使わずに、身近な例を用いて説明してくれている本でした。

(吉田)

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