「大人はなぜ学び的なものを求めるのか?」というのを最近考え始めています。
人によって異なると思いますが、私の場合は、大人になってからの方が自発的に学びたいと思えるようになりました。子どもの頃は、課題に追われる毎日で、学びたいと思う以上に知識が降りかかってきていました。だから、学びたいと思った記憶があまりありません(単に記憶にないだけかもしれませんが)。
直感的には、大人が学び的なものを求める理由が三つ浮かびました。
一つには、よりうまくできるようになるため。
現状うまくいっていない何かに関する知識やスキルをつけることで、周りからもきちんと認められる、充足した毎日を送るためです。自信を持てて、新たな可能性や期待を持てることにつながると考えられます。
二つには、人は分からないことには正解を求めるという本性があるから。
人の脳は、日々大量に降りかかる情報を効率的に収めることを好みます。
だから、シンプルに抽象化された答えのようなものが見つかると、報酬物質を出すそうです。思い当たるところとしては、クイズ番組は何回見ても飽きなかったり、問題集の後ろ側の答えをどうしても覗きたくなったりするのは、その影響のような気がします。
三つには、分かることで人生の時間が重層化するから。
これはすこし思いつきです。一つ一つの出来事に意味を見出せた時、同じ時間でも厚みが増すような気がしています。
たとえば、海外旅行で教会に行った時、単に石造りの大きな建物だなと思うのか、どんな人たちの手によってどんな歴史背景の中作られたのかを想像しながら見るのかで、時間の厚みに違いが出るのではないかと思います。私は教会などを見て「教会だね。あっちもこっちも同じ造りだね。」と思ってしまうタイプですが、一緒に行った人に教えてもらうと考えを巡らせることができて来てよかったなと初めて思えます。
ほかにも、世の中の動きやあの人のあの言動など、分からないことに自分なりの解釈ができた時、意味を感じながら接することができるようになる気がします。
ちなみに、学び”的”としているのは、学びそれ自体を求めているのかに疑問があるからです。
今週もおつかれさまでした。今週は読書会をお休みしますが、来週は開きます。リベルのブックレット『体・皮膚・神経』を土曜日に出し、日曜日にはその読書会を開く予定です。タイトルは何かの本のパクリのように思われるかもしれませんが、そんなことは決してありません。
(吉田)