2022.06.24

読書会の読書感想(6/22-6/26)

 参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。22日(水)は2名、24日(金)は6名、26日(土)は4名、27日(日)は10名の参加でした(主催者含む)。

6月22日:読みたい本を気ままに読む読書会

おおにしさん『夕暮れに夜明けの歌を』奈倉有里 著
 奈倉さんは2002年から2008年までロシアの大学への留学経験のあるロシア文学研究家であり翻訳家である女性。本書はロシア留学時代の日々をつづったエッセー集である。
 ちなみに奈倉さんと、本屋さん大賞受賞作『同志少女よ、敵を撃て』の著書逢坂冬馬さんとは姉弟の関係である。(岩波書店の雑誌「図書」6月号に二人の対談が載っている)

 奈倉さんが留学していた時代はチェチェン紛争のさなかであり、ロシア国内でテロ事件が頻発していて、ロシア社会はとても不安定であったようだ。
 ドイツからの留学生インガが、ロシアは国中に国旗があふれ人々は戦争の話ばかりしているように感じる。ロシアが戦争を続けるのは国旗を見せびらかしているからなのではないかと語るエピソードが印象に残った。
 今のロシアでは「Z」の文字が街にあふれている。プーチン政権は発足当時からロシアを好戦的な国家に作り上げてきたのではないかと思うと恐ろしくなった。

 著者のロシア愛を強く感じるこのエッセー集を最後まで読んで、ロシアのことをもっと身近に感じたいと思う。

よしだ『地球進化 46億年の物語』ロバート・ヘイゼン著/渡会圭子訳/円城寺守監訳
 今の生命に満ちた地球は相当な偶然の上にできたのだということが感じられました。たとえば、太陽のような恒星は大きいほど核融合が激しく起こり、寿命が短くなってしまうそうです。太陽にも寿命はあるのですが、太陽はそこまで大きな恒星ではなく地球が生まれて46億年経った今でも地球に生命が存在できるだけの状態を保っています。でも太陽がもっと大きければ、超新星爆発が起きたりもっと早くに太陽が膨張したりして地球は飲み込まれていました。
 この本の年表によると真核生物が誕生したのが27億年目、陸上動物が誕生したのが42億年目、人類が誕生したのは46億年目、つまり今です。太陽がもっと大きく寿命が短ければ人類の誕生までは到達できなかったでしょう。それだけの時間を経て今の地球の生物世界はあるのだと、年表をみていると感じることができました。
 宇宙の誕生や太陽系の誕生は、化学反応で語られます。素粒子から原子になり核融合反応で周期表をかけあがっていき、原子同士の反応で分子となり、結晶質の固体である鉱物が生まれ。惑星である地球がどう生まれたのかはまだ読めていませんが、木星・土星・海王星・冥王星は高圧のガスの集まりでできたガス星なのだそうです。惑星は固体だろと思っていたらガスの星もあるというのです。今地球でこうして生きていることが、どんどんと不思議なことに思えてきました。

6月24日:読みたい本を気ままに読む読書会

みなみさん『なるほどデザイン』
 デザイナーが1番初めに読む本と言われているデザインの指南書です。
 デザインに正解は無い、でも「目的地」はある。この「目的地」について深く考えていく本でした。
 まだ10ページくらいしか読めていませんが、10回以上「なるほど!」と言ってしまう、本当に分かりやすい指南書でした。

yuさん『26人の男と一人の女 ゴーリキー傑作選』
 
夕方にこの本の訳者と古典新訳文庫の方との解説を聞きました。マクシム・ゴーリキーはロシアの作家です。
 短編が4つ納められている文庫で、表題の作品は前の日読んだので、グービンを途中まで読みました。グービンは村の嫌われ者で、わたしを井戸掃除に誘います。さて、どうなることやら。月や自然の情景描写が綺麗です。

よしだ『地球進化 46億年の物語』ロバート・ヘイゼン著/渡会圭子訳/円城寺守監訳
 地球があることも、そこでヒトとして生きていることも、今の視点から見ると当たり前で必然のように思ってしまいますが、宇宙の初期状態が少し違うだけで、地球や人類というものは存在しなかったのではないかと思わされます。壮大な巡り合わせのなかで生きているのだなと感じました。

6月25日:読みたい本を気ままに読む読書会

よしだ『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ著/小松淳子訳
 こんなタイトルの本ですが、内容は脳に関するものです。読字をすることが脳をどのように変えるのかということについて書かれています。僕自身の関心は、動画を観ることと音声を聴くことと文字を読むこととでは、体験や得られる経験にどのような違いがあるのだろうかということです。
 この本で前提としていることは、ヒトは生まれつき文字を読める能力を備えているわけではないということです。動画(周囲の視覚的環境そのもの)も音声(鳴き声)も、文字が生まれ人間世界が文明化していく前から、自然界に存在していました。鳴き声の違いによる情報伝達を行うことはヒトだけでなくサルなども行っていると考えられています。しかし文字を使うのはおそらくヒトだけであり、文字が生まれたのもわずか数千年前です。文字が生まれて以降のわずか数千年で読字ができるように進化したとは考えにくく、ヒトは生まれついての読字能力は備えていないが生後の学習により文字が読めるようになっていると考えられているようです。
 ある見方では文字を読むことはヒトにとって不自然なことであると考えられるでしょう。元々は動画や音声だけで生きてきたのですから、文字を読む必要がなければそれに越したことはないように思えるからです。最近は動画や音声のコンテンツも豊富にあり、蓄積もできるので、文字による記録や情報入手は必要ないとも考えられます。でもこの本では、文字が誕生したことでヒトは新たな能力を獲得していき、それを失うことは得策ではないというメッセージも含められているように感じています。つまり、文字を読むことで文字を読める以外の何かも獲得しているのではないかということです。僕もなんとなくそう感じています。
 文字を読むことは今後オプションになっていくかもしれません。文字を読まなくても情報や知識を得られるようになっていくと考えられるからです。ディスレクシア(文字の読み書きの困難さに伴う学習障害)という特性も人によってはあるので、読字や書記がオプションになることはいいことなのだと思います。ただそんななかでも、文字を読むことがただ面倒なだけでなく思考などの面で動画や音声と違う効果を生み出すならば、それを知ったうえで使い分けていけたらいいななんてことも思います。

6月26日:読書のもやもやについて話す時間「非科学的なことをどう構想するか?」

 今回のテーマは「非科学的なことをどう構想するか?」でした。

〈持ち寄られたテーマ〉
・Zoomとリアルで話すことの違い。リアルの方がいいのは本当か。
・リベルの読書会の個性は何か。
・小説の読み方がよくわからない。生物系や研究者の本が多い。もっと深く読んでみたい。
・★非科学的なことをどう構想するか。科学は人の思考を縛っているのではないか(帰納法と因果)。その外側を構築する必要があるのではないか。選択肢の幅を広げる。
・科学は縛るのものなのか?

おおにしさん
「帰納法、因果律という科学的思考が人の思考を縛っているのではないか」という問いは、とても難しい問題ですが問いを立てた方の話を聞いて、この問いが出た背景が見えてくるといろいろな意見が出てきたました。対話には抽象と具象のスパイラルが必要なのだと改めて感じました。

先日の対話を振り返った時、頭に浮かんだことを少し感想として記しておきます。

例えば、原因不明の不調が続いたとき、医者に診てもらって病名が分かると治療する前でも何かほっと救われる気がします。昔なら祈祷師が先祖の霊が原因とか言ってお祓いをするだけで病気が治ったりすることがあったようです、自らの不幸の原因探しに救いを求めることは人の自然な行為だと思います。

一方で因果の法則を起きていない未来のことにまで拡張してしまうことはよくありません。「この大学の合格レベルは偏差値65以上だ」とか、「〇〇株式会社にはあなたの大学の出身者はいません」というようなエビデンス?(前例?)を見せつけられて、あっさり諦めてしまう人が多いように思います(私もその傾向がありました)。
蓋然性を因果性と混同してはいけません。

ちょっと考えてみればわかることですが、この世に出てきた原因が受精だとしても、どの母親から生まれるかは偶然によるものです(中には前世の因縁で決まっているという人もいますがエビデンスはありませんね)。
私の人生を振り返っても偶然の出来事が複雑に絡まりあって生きてきたのだと思うことが多々あります。

我々の生きる世界は偶然性に満ちあふれているのなら、”たまたま”起きたことに注視して適切に反応して行動することがベストだと思います。それが自分を縛っている科学的思考の枠から抜け出す第一歩ではないかと思います。

”たまたま”の出来事は日常的に発生しますが、自分に感受性がないとつい見逃しがちです。「心がはっと動かされるときはどういうときか」という問いが出ていましたが、まさにそれが偶然に対する感受性を高めることではないかと思います。

つやまさん
 ものごとを科学的な枠組み(因果律や帰納法)で捉えることで、何か本質的なものを取りこぼしてしまうのではないか、という今回のテーマは、日々の生活の中でふと感じる虚しさとも関連していそうで興味深かったです。ロジカル偏重への違和感の話から、言葉の不自由さや、人間の認識の限界の話など、だんだん哲学的な話になっていき、この問いの根の深さを感じました。後半は論理的思考の対極にあたるような、想像力や偶然性、魂、センス・オブ・ワンダーの感覚、などが話題にあがっていて、このあたりに人生の限界効用逓減を打破するためのヒントがありそうな気がしました。案外、「外側」は「内側」にあるのかもしれない?
 印象的だったのは、言葉には限界があるが真理の手触りは表現できるのでは、という話。言葉には世界を二分法で切り分けていく面もある一方で、文学は取りこぼされているものを言葉によって掬い上げようとする営みだと感じます。
 最近読んだ千葉雅也さんの『勉強の哲学』という本で扱っているテーマにとても近いものを感じました。無意識に囚われている価値観から自由になるための自己破壊としての深い勉強について書かれている面白い本です。

しょうごさん
 今回「非科学的なことをどう構想するか。」というテーマを出させていただきました。そこで「科学的」という言葉を使いましたが、これは実際の科学ではなく、人の思考を規定しうるなにかをあえて、「科学的」とかなり乱暴に名付けました。またこの人を規定しうる思考(読書会で出た話だと、因果、二分法、帰納法など)も悪だと思っているわけではなく、生きていく上で必要な思考だと考えています。ただ、それだけ生きていける人もいるかも知れないけど、少なくとも僕は、なにかそこで不自由さを感じてしまう所がある。この問いは自分の中で切実な問いだと捉えていました。しかし、人を規定しうる思考も不自由さも雲のように掴むことが難しく、正直何が問いなのかもよくわからず、結果的にたどたどしいしゃべりになっていました。ただ、このたどたどしくなるようなことの中にしか、僕にとっての切実な問いはないのではと感じています。この問いを考えるようになったきっかけとして、具体的に自分が急に仕事にいけなくなったことや、文章を書くときの不自由さを例として出しましたが、きっかけがあってこの問いが浮かんだのかも、昔から考えていたか、急に浮かんだことなのかも正直わかりません。また、僕自身この問いを心の問題として話し、解決策を提示していただきましたが、これが原因で精神的な不安に陥っているのかどうなのかもよくわかりません。この問いを心の問題と規定してしまったことに対して、今考えてみると多少違和感があります。なぜなら、心の調子がいいと感じていたときですら、この問いは傍らにずっとあったような気がするので。このよくわからないけど、切実な問いを考えること、道のない荒野でぼちぼちと歩くこと、これをやってみたいという衝動になりテーマに挙げさせていただきました。
実際にこのテーマで話してみて、やっぱりもどかしい気持ちで話していました。うまく伝えられない部分も多く、また、安易に話してしまい、読書会のあと後悔してしまう部分も多かったです。しかし、他の人の考えを聴けたことで、その中で自分にとって合う、合わない意見はありましたが、それによって、自分の考え方を再認識できたことは有意義であったと思います。
 読書会では様々な話が出ました。因果の外に出るという話と、必然性と偶然性の話になり、そこで「無人島に住む」「普段会わない人と会う」という実践的な話が出ましたが、そういった外的な方法論よりもーもしかしたら、それを実践することで何か考え方が変わるかも知れませんがー、内的な問題として語られていた時に、僕にとって必然性と偶然性というのは環境など外的なものではではなく、内的なものだと整理できました。人は常にどんな状況でも偶然性を感じることができる。それは生活のルーティーンだと思われているご飯を食べているとき、お風呂に入っているとき、仕事をしているときなど、全てにおいて感じることができると信じています。また、初対面の人に会う、行ったことのない土地に行くなどしても必然性しか感じることできない場合もあります。そして、偶然性に触れると、どうあがいても感情が動いてしまう、考え方のパラダイムシフトが起こってしまう。それは意識では操作不可能な体験です。もし操作されてしまうとそれは必然性になってしまいます。なので、偶然性に出会う方法論は存在しないのです。
 今回印象的だった発言をうる覚えですが挙げさせていただきます。

・どういった時に人は感動するのか

・知性に情報の保有量は関係があるのか

・自分がある対象に対してどう考えたのか、どう行動したのか、それをメタ的な視点から観察し、白紙の状態からそのプロセスを書き込んでいく

・鬱は悪いものではなく、人の心のバランスから考えて必要だという考え方

・千葉雅也『勉強の哲学』

原有輝さん
 あまり考えないことなので刺激になりました。話の広がりという意味で課題が残りました。今の時代に科学の外で思考するのは、難しいかもしれないと思いました。

よしだ
 因果関係などの定められた思考様式からどのように抜け出すのか、みたいな話をしました。僕個人としては、自分の内にあるものをなるべくそのままの形でどう表現するのか、という解釈で考えていました。
 因果関係などを用いて表現しなければならないといったことは、相手がいるから生じる考えなのではないかとも途中思ったりしました。そしたら無人島に行くのはどうだろう、みたいな話が出てなるほどと思いました。しかし誰かに伝えたいという気持ちもあるということで、それは確かにそうだと思いました。
 明確な答えは出ませんでしたが、終わった後の雑談の時間で、「文脈をつくる」という話が出て、これがもっともしっくりきた考えに僕には感じられました。なにかテーマがあったときに、一般化すればするほど、間違いではないのだけれど求めているものではないと感じることがあります。人と協力する場合など共通解が必要なときは別だと思いますが、個人の問題と向き合うとき、納得できる答えはとても個人的な文脈の上に成り立っているように今のところは思っています。そしてその個人の文脈で話をしたとき、不思議と周りも納得してくれるように思います。不思議。そして、個人の問題とはどこまでを個人の問題として捉えていいのか、という疑問も新たに生まれました。


過去の読書感想はこちらに載せています。

読書会参加者に投稿いただいた読書の感想です(2024年10月-)。

 

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