参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。5月22日(土)は6名、23日(日)は13名の参加でした(主催者含む)。23日は3つのグループに分けて行いました。1グループ4,5名くらいが話しやすい印象なので、多い場合はグループ分けをしながら行っています。
5月22日:テーマのある読書会「無意識」
つやまさん『無意識の構造』(河合隼雄)
【本の内容】
IV 無意識界の異性像
・人間は外界に適応するための仮面である『ペルソナ』を身につけているが、自我とペルソナが一体化しすぎると無意識と接点を持つ上で妨げになってしまう。
・無意識の深層には、内なる異性像である『アニマ(男性の中の女性像)』『アニムス(女性の中の男性像)』が存在する。これらは自身の性に適応して生きるために、無意識の中に抑圧された異性像である。
・アニマには、感情やムード、非合理性、愛、無意識との繋がりなどのはたらきがある。アニムスには、言葉による意見や思考や論理、弁別や禁止、行動するなどのはたらきがある。
・人間として成熟するためには、アニマ/アニムスとの接触を持ち、自我の中に統合していくことが必要である。この接触は、無意識の浅い層に存在する、自我の生きてこなかった半面である『影』を通して行われる。
・アニマ/アニムスにはそれぞれ4段階の発達段階があり、第一段階では肉体的な意味合いが強いが、段階が上がるにつれて精神的な意味合いが強くなっていく。
・アニマ/アニムスは恋愛の中で相手に投影されるという形で経験され、関係を多彩にしたりもつれさせたりする。
・アニマ/アニムスとの結びつきが強くなりすぎると、男らしさ/女らしさというペルソナが破壊され外界への適応が脅かされる危険がある。
・意識は全体性を志向してアニマ/アニムスの統合をはかろうとするが、その実現は現実的には不可能と思えるほど困難なものである。
自我、影、アニマ/アニムスの関係
外界
↑
(ペルソナ)
↑
自我
↓
ーーー▽無意識▽ーーー
↓
影
↓
アニマ/アニムス
【感想】
無意識について知ることで、自分を含む人間というものの捉え方や人生観が、良くも悪くもかなり変わるように思います。今回のところは特に恋愛観に影響しそうです。。深層心理学は進化心理学や脳科学や分子生物学ほどドライではないところがいいなと思っていて、人のこころを解き明かしていった先に何が残るのかという問題に答えを与えてくれるような気がします。
yukariさん『無意識の構造』
他の方の本の無意識はいつも正しいの中で、親指が不安とリンクしているというのが興味深かったです。親指の爪のみ荒れていて繋がったような気がしました。
読んだ箇所は、無意識の真相のグレードマザーのところです。土偶の渦と登校できない中学生の夢がシンクロし、暗喩での分析ってなかなか根気のいるもの?だと思いました。
原(コギト)さん『利他学』(小田亮)
夢の解釈がぶっ飛んでいて、どういう根拠で解釈するのか気になった。
Yukikoさん『ミヤザキワールド』
宮崎駿の作品がこんなに世界中に人達に愛されているなんてこの本を読むまで知りませんでした。
アメリカの学者が文学作品としてアニメを鑑賞している驚き!と宮崎駿本人との対談、映画の舞台となっている場所を訪れたり、映画を通して伝えたい思いなどを映画の背景にある宮崎駿世界観など学問として追及している作者に日本人として上っ面だけ見て、映画を見た気持ちになっていて申し訳ありませんでしたと言いたくなります。
著者が学生達と宮崎駿の映画について語る場面で、アニメというとオタク、マニアック、暗い、子供が見るものというイメージ(私のイメージです)が、著者と学生達は一つの映画でその背景にある死生観や哲学、経済や飛行機工学などいくつも交差する複数の要素を語ることで、アニメ映画にもかかわらずスケールの大きさ、奥行き感、国や文化を超えて楽しめる一つのエンターテイメントとして共有出来る素晴らしい作品である事を立証していきます。
宮崎駿恐るべし。
言い訳させて頂くと宮崎駿の作品は子供の頃に見たのは、アルプスの少女ハイジ、未来少年コナンです。(知らない方が多いと思いますが、すべて連続アニメです。テレビでやっていました。)
実はあまり大人になってからちゃんと映画は見てませんでした。
まさかこんなに世界的なアニメーターになるとは。というか日本のアニメが受けいられる世界になるとは。その時は考えもしなかったです。
本人も最初から世界を目指したいたのではなく、好きなものを追求していったらここまで来たというような感じだと思います。
ここまで考察されてしまうと本人もびっくりしていると思います。
でもクリエイターとしては分かってくれる人がいると思って嬉しいんじゃないかとも思いました。
5月23日:読みたい本を気ままに読む読書会
tokitaさん『焼夷弾を浴びたシャボテン』
ある騒動から文壇を離れ、シャボテン研究家へと転身した作者。独自の生態を持ち、時には二千年も枯れずに生き続けるその有様に神秘的なものを感じていたようで、シャボテンと対峙しながら自分と向き合っている、そんな印象を受けました。シャボテン愛を熱心に語るところも純粋に面白いです。
『読書について』の自分の頭で考えて読むということ、という内容が興味深かったです。
原(コギト)さん『利他学』(小田亮)
金森ひとみさんのエッセイや、ハンニバルは未読なので、もう少し詳しく聞きたいと思いました。
Teramocciさん『一流の狂気』
なんでしょう。
狂気と呼ばれる精神疾患。
サイコパスと同様に、一定程度、人類の中に発生する遺伝形質。
それをもつ人間が、歴史を決めるような、または危機的対応をするようなポジションに到ることを歴史は語る。突出した才能は、精神のクロックスピードが速く、それは、政治や経済に対する判断だけでなく、その個人の感情であったり、気分であったりに対しても敏感に反応する。
そうであっても、言葉で語れないものがあっても、周囲は、狂気を個性に含め、許し、その人間を、その資質をリーダーとして認め、判断を預ける。
なぜ、社長は一人なのか。会社の執行は独裁なのか。集団統治は資本主義の中で勝ち残れないのか。独裁は否定されながら、首相、大統領が生まれ、人々はリーダーシップをがなり立てるのか。
我々はサル出身であり、サルは群れで行動し、ボスザルが必要で、それは群れを持つ生物の行動様式から外れたものではない。生物種が大量絶滅を含む危機的状況を潜り抜け進化してきた一群であるからか。
イワシの群れのように、集団で群の行動様式を決める形態にうつるのであれば、言語による不完全なコミニュケーションを捨て、共感を信じ合う心が必要なのではないか。
昨今、資本主義の限界を語る際に、コモデティという心くすぐる言葉を使用し始めた一団がいるが、同時に間接民主主義を否定し、集団統治制を挟んでいるのが、気に障っている。
そう。これからの人にはテレパシーが必要なのである。
携帯電話を捨て、リアルコミニュケーションに回帰しよう。
サテ。閑話休題。
一流の狂気。一流にこそ狂気が宿る。それはロジックでなくアートでもある。
目標が自己の表現であったとき、ゴッホのような美しい芸術が生まれる。
美しいとは何か。
人々に共通する「いい」という価値観。それはディープで生物共通、自然固有というほどに深い。
僕は、狂人がアートという表現はできないが、彼らの生き様はアートである。
アートに至るまでに、彼らは様々なものを失っている。
喪失。悲しみ。苦しみ、そこからの復活こそが強靭さを生む。
その過程で深みを経由するからこそ、アートに至るが、だからこそ失っている。
なお、強靭と狂人をかけたわけではない。
僕はアートをもつものを天才。言葉で語れるものを秀才と呼んでいる。
天才の発生頻度がおなじであれば、人口から考えれば、今の世の中は天才が多い世界である。
天才が、世の中の不都合を解決することを僕は期待する。
こうして独裁が生まれる。
そう。自分で生きよう。徒然なるままに。
—–
過去の読書感想はこちらに載せています。
〈読書会について〉
(ほぼ)毎週末の朝10時から、その場で読んで感想をシェアするスタイルで読書会を開いています。事前申込をあまり求めない、出入り自由な雰囲気です。日程などについては、FacebookページやPeatixをご覧ください。
・Facebookページ
・Peatix
読書会の形式や様子はこちらに載せています。
(吉田)