哲学者のソーテはいろいろと仕掛けます。
バスチーユ広場のカフェで毎週日曜日の朝に、話し合う場を設けたり。テーマは「暴力」や「介入」、「一回目(はじめて)」など、おおくの人にとっての身近なものです。参加人数は100人を超えるのだとか。
相談所も開設しました。相談者が抱える問題に寄り添った1対1、あるいは1対2での対話です。問題そのものの解決につながることもあれば、知の旅にくり出してしまうこともあるようです。
企業人向けセミナーもやってみました。しかしこれは、来て欲しかった上層部の人には来てもらえなかったようです。しかしカフェにはたくさんの人が集まるのです。
旅行も企画します。いろいろな知に触れるという意味合いの旅ではなく、リアルな旅です。ギリシャのアテネを訪れたりしたようです。古代ギリシャにおける公共の集会所であったアゴラ(広場)を市電が分断しており、度肝を抜かれたりもしていました。
『ソクラテスのカフェ』[1]には、パリ政治学院教授で市井の哲学者であるともいえるマルク・ソーテが、町に哲学を持ち込んだ様子が描かれています。人々は考え、話し合います。そこには、ひとつの自由の姿をみているようでした。
カフェでは、その日にどんなテーマが持ち上がるのか、どんな人が参加するのか分かりません。ソーテが用意しているわけでも誘導するわけでもなく、参加者の間で持ち上がるのです。生活に身近なテーマであるほど、たとえば「一回目(はじめて)」のようなものが出てきたとき、ソーテは内心ほっとします。みんなで話し合うことができるからです。そうして話し合いが始まると、今度は本当にただカフェタイムを楽しんでいた人が、入ってきたりもします。カフェで始まる哲学の時間は、次に何が起こるかわからない、即興なのです。
相談所では相談者がある程度テーマを持っているのですが、その場から作り上げられていくこともあります。あるときに訪れた相談者は、自分でも何を相談すべきなのか分かっておらずソーテも困惑していきます。そこでソーテが、もしよければとある本を紹介してその回を終わりにしました。ソーテはそれで相談が最後になることを覚悟します。次に訪れるかどうかは相談者の自由だからです。しかしその本にどうやら相談者が響くものがあったらしく、考えるべきテーマが定まっていきました。
即興であるからこそ、変化が生まれます。決められすぎていると、その範囲に収まるばかりです。
オープンスペースであるからこそ、カフェでただ休んでいた人が参加してくるのです。前の晩ぶっとおしで演奏した4人のミュージシャンが闘志むき出しに参加してきたこともあったそうです。場の空気は変化し、ミュージシャンもまさかライブ明けに哲学的対話をすることになるとは思わなかったことでしょう。
ソーテは、テーマも、そしてもちろん答えも用意していません。その場にいる人が、その場で能動的にテーマを考え、話を展開していくのです。人が違えば、テーマも展開も違ってくることでしょう。あるいは、同じ学問の体系を修めているわけではない人たちの集まりだから、予定“不”調和が起こりやすいのかもしれません。
相談所でも、テーマに自由度をもたせ、答えを出すことへの強制がないため、テーマはどんどんと変化していきます。相談者の読書や知識の系譜をさかのぼることになり、学童書を共有することになったこともありました。相談者の、相談所の使い方にも変化が起きているようでした。ソーテが相談者の職場に赴き、ランチをしながら話が展開されることもありました。同じ事業を営み同じ方向を向きながらも現実主義と理想主義という異なる性格の二人が論を重ねるところにソーテが立ち会うこともありました。
即興的な対話にはどのような意味があるのでしょうか。目的性がうすい対話には意味がないと考える見方もあるかもしれません。暴力や介入、一回目(はじめて)はたしかに身近ではあるものの元々話そうと思っていなかったのであれば、それほど重要なテーマではないとも思えるかもしれません。しかし興味を持てたのであれば、そこには意味があった、あるいは意味が生まれていくように感じます。
自分の興味関心には、自分で気づけていないことも多いはずです。いま意識の中にある興味関心は、もしかしたら世間的・社会的に興味をもつべきとされているものかもしれません。潜在的には、気になっていて自分なりに考えてみたいと思っていることも数多くあるはずです。そして仮に元々は興味がなくても、自分なりに考えてみたことは、その後いつかどこかでアイディアや選択の材料になったりもしてくれるはずです。
その場・その人たちではじまる即興的な対話は、そこから始まるものを生みだすのではないかと思いました。そこで話したこと考えたことから次が始まっていくのではないでしょうか。
〈参考図書〉
1.マルク・ソーテ著/堀内ゆかり訳『ソクラテスのカフェ』(紀伊国屋書店)
マルク・ソーテが行ったいくつかの活動を紹介している本です。しかしそこには、有名哲学者の論や聖書の内容などが盛り込まれています。真意はおそらく、読者に単に様子を紹介するだけではなく、哲学的に考える時間そのものも提供したいと考えていたからでしょうか。ソーテは、おのおのが自分で考えることをあるべき姿と考えていました。本の引用も対話の中で持ち出しますが、それはその本がそこにいる人の思考を促すにあたって適切に作用すると考えたときにそうしていたようです。考えている現場を空からみているような、すこし不思議な感覚になる本でした。
〈「対話と思考」他のコンテンツ〉
(吉田)
(カバー画像出典元)