2021.08.28

対話的。 ー対話と思考 #4

 対話とは、コミュニケーションの中でもすこし特別なもののように感じます。何気なく話すこととはまた少し違う、聴く側に力を割いてもらうもので、対話の参加者あるいは場全体に変化が生まれいくものです。
 話すことで考えが進んでいくことへの興味関心から、話すことと考えることの関係について、いくつからの視点から考えてきました。ほんとうは話すことで脳や心理にどのような変化が生じているのか、なんてことも知りたかったのですが、残念ながらそれについて記された本や資料は見つけられず…。しかし「対話」という、考える・アイディアを生み出す・選択することなどへ好影響をもたらす手法に出合うことができました。
 今回は、対話と思考シリーズの最終回として、対話とはどういうもので、何をもたらしてくれるのかについて考えていきたいと思います。また、対話は話す・聴くに限定されるのではなく、もの作りなどの姿勢としても取り入れることができるのはないかと感じており、そこらへんについても少しだけ考えてみたいと思います。
 なお、対話への理解を深めるにあたっては、泉谷閑示氏の『あなたの人生が変わる対話術』と斎藤環氏の『オープンダイアローグとは何か』を主に参考にしました。

対話というもの

 ポテチを食べながらテレビを見て同居人と話す今日の出来事は対話ではありません。ランニングをしながら話すおもしろかったテレビの話も、道端でたまたま会った知人と近況を交換することも対話ではありません。しかし一方で、焼肉屋でもカフェでも、しっかりと向き合って話を聴いて、分からないことは質問をして、質問をされたら言葉に詰まりながらも応えるというのは対話であるといえるのだと思います。
 相談を持ちかけられたとき、相手の話をそこそこに、自分があらかじめ持っていたアドバイスを性急にくり出すのは対話ではありません。会議でただ業務報告をすることも、相手を一方的に説得しようとすることも対話ではありません。相手の状況や考えを知らなければ返す言葉が分かるはずもないという前提で、まずは聴くことから始めるのが対話であるといえるのだと思います。
 対話とは、相手を自分とは違う分からない他者とみなし、対等な立場で言葉を交わしていく行為をいうようです。分からないからしっかり聴かなければなりません。分からないことは質問をし、分かったことは別の言葉で言い換えたりしながら自分と相手の理解を促していきます。分からないから対等です。相手のことはもちろん対話のテーマも、自分だけが分かりきっているということはあまりないように思います。たとえば「多様性」に関する対話をしていて、仮に自分が多様性の専門家だとしても、それぞれの人の多様性に関する日常経験や抱いている考えを、自分が全て考えきれているとはいえません。分からないことが必ずあるという点で対等なのです。
 分からないことを前提に重ねられる質問や応答によって、抱えていたもやもやが、その場にいる人たちによって明解になっていく、いろいろな視点が取り入れられながら整理されていく。対話とは過程のひとつひとつを丁寧に積み重ねていくものであり、丁寧に積み重ねるからこそどこにたどりつくか分からない、ときには飛躍的な変化が起きる行為なのだと思います。

対話がもたらすもの

 対話は、なかなか骨の折れることだと思います。しかし、そんな対話には骨折り損にならないさまざまないいことがあるのだと思います。と言いながらも、対話がもたらす良い効果をすべて挙げられるほどには理解を深められていないので、ひとつだけ共感したことを紹介します。それは、「分かることで自由になる」ということです。対話を理解するために参考にした『あなたの人生が変わる対話術』では、以下のように記されていました[1,kindle900]。

「対話」は、人の認識を増やしつつマニュアルを減らしてくれるので、人を自由にしてくれます。

認識が増えるとは、自分自身で判断が利く対象が拡がること、柔軟に応用が利くようになること、つまり、自由になることなのです。

認識するとは、「分かる」と近い意味合いのものであると解釈しています。分かるとは、分割や分裂という言葉に含まれる「分」が使われているように、何かと何かを分けられるようになることを意味するのだと考えることができます。たとえば、同じ4本足で膝下くらいのサイズの毛むくじゃらな動物でも、目やしっぽ、足先などの特徴からイヌとネコという分けが生まれます。この違いを感知し自分のものとしたとき、「分かった」「認識した」ということができます。他にも、コミュニケーションや会話と呼ばれるものと対話との違いが整理されたと感じられた時、対話について分かったというのだと思います。
 分かるということは、これまでの何かが分かれて新たな選択肢が生まれることを意味します。たとえば、相談をもちかけられていつもの会話の調子で返答をしていると、相手はすっきりしないような顔つきになっていったとします。いつもなら楽しい時間となるはずなのに、どうもすっきりしません。そんなときに、会話とは違う対話という概念を知っていれば、いつもの会話の調子とは違う、しっかりと聴いて質問をして応答を待ってまた質問をしてという、対話へと切り替えることができます。何かを分かっているということは、それだけとれる選択肢が増えるということであり、相手や自分のために何かをしてあげられる自由を手に入れることだと言えるのです。

 ここでひとつ疑問が生じます。それは、「分かる」というのは、なにも誰かと話すだけで得られる経験ではないということです。本やテレビを見ていても分かることがありますし、自分の中で考えていても分かることがあります。ここで対話というものを、話すという対人的な行為から引き離してみると、このような疑問にもひとつの応答を返すことができます。

対話的

 対話とは、相手を分からない他者と捉えて、対等な立場から聴き、分からないことは質問したりしながら互いに分かっていく・理解を深めていく行為です。だとするならば、相手は他人でなくても成り立つはずです。
 本を読んでいるときは、自分を上の立場に置くことはあまりないかもしれません。本を手に取る時点で、何かを学びたい・教えてほしいと考えていることが多いからです。しかし反対に、自分を極端に下の立場において、情報や知識を一方的に受け入れるだけという状態には陥りやすいかもしれません。相手が自分よりも知識のあるものであると捉えてしまうと、どうしても受け身になってしまいます。しかし受け身でありすぎると、なんでも受け入れるだけになってしまい、分からないこともそのまま受け入れることになってしまいます。これでは、相手を分かっていくことにはなりません。分からないことは質問して、それでも分からなければ分からないまま持ち続けなければならないのです。本に対して質問することはできませんが、疑問に思ったことを本の中から探すことはできますし、ネット等で他の情報源にあたることができます。これが本のすこし面倒なところで、相手が人であればこちらの質問に柔軟に応えてくれるのですが…。ただ、本には、いつでも誰にでも自分のペースで聴けるという良さがありますし、きっと自分で調べた分だけ自分の中に残りやすいというのもあると思います。
 自分で考えているとき、頭の中であーでもないこーでもないと考えることも、テーマに対して対話的であると言えるのかもしれませんが、もう一歩踏み込んで自分そのものと対話的であるという姿勢もとれます。『あなたの人生が変わる対話術』の著者であり精神科医である泉谷閑示氏は、現代人は特に、心や身体から湧き上がる感情や感覚にふたをして、頭で考えたことを優先しすぎる傾向にあり、注意が必要であると述べています。頭で考えた「〜すべき」「〜してはならない」という考えを優先しすぎて、心や身体が示す「〜したい」「〜したくない」という気持ちを軽視する傾向にあるというのです[1,kindle1313]。頭で理性的に考える過程では外的な情報や価値観が強く反映されている可能性があり、自分そのものから生まれた考えではない可能性があります。つまり、自分の考えであると思っていてもそれは本当の自分のものではなく、もっと奥の方には自分でも分かっていない自分がいるかもしれないのです。泉谷氏は、分かっていない自分との間に生まれるのが「葛藤」であるといいます[1,kindle1295]。葛藤は理性で押し込めることもできますが、それは一時的であり、心や身体に大きな負担を強いる結果になるように思います。自分自身に対しても対話的であることは大切です。「〜すべき」では選択の余地がなく不自由ですが、「したい・したくない」にも耳を傾けて自分を分かっていくことで、別の選択が見えてくるはずです。

 こうして考えると、対話とは、必ずしも他人が相手でなくても成立するものだということが分かります。本でも自分でも、そこには分からない何かがあると捉え、上でも下でもない対等な立場で分かろうとしていく行為は対話であるといえ、そのような姿勢を対話的であるといえそうです。対話的であるとは分かることに対して能動的なだけではなく、自分を固めすぎず、ときには変化させられる状態にしておくことも必要になりそうです。外面を論理や固定的な価値観で武装した状態では、分からない他者を分かろうとする対話に突入することはできません。
 しかしながら、相手の考えを分かったとしても必ずしも同意して自分に取り込む必要はないとも泉谷氏は言います。理解と同意は分けておいていいというのです[1,kindle736]。相手のいうことが分かっても自分のポリシーや状況に合わなかったり、到底受け入れ難いということはあるはずです。そのすべてを受け入れようとすることは、もう一方では自分自身を疎かにすることになり、対話的であるとは言えないでしょう。相手を分かろうとすることに対しても自分で生きることに対しても主体的であり、同時に変化をいとわない柔らかい状態であることが対話的な姿勢であると言えそうです。
 また、対話的な姿勢は対人関係や自分の生き方などといった人の心に対する認識作りの場合だけに求められるのではなく、もの作りなどにおいてもその姿勢で向き合うことができるように思えます。たとえば、システム開発の手法では、あらかじめ最終形を決めきってから計画的に開発していくウォーターフォールという手法と、リリースしながら随時改変していくアジャイルという手法があります。後者のアジャイルの方が、相手(=ユーザーや使用環境)を分からないものとして捉えた対話的な手法であると言えます。人の心に向き合うときだけではなく、ものやサービスを作るときにも、対話的な姿勢であるということはひとつの手法としてもつことができそうです。人や環境を分からないものとして捉え、しかし能動的に分かろうとしていき、分かったらポリシーや価値観に合うものは取り入れて自らを変化させていく姿勢です。これからの時代に合っていそうですし、分かったことを丁寧に積み重ねていくことで、自分でも想像がつかない未知なるところへたどりつけそうな姿勢やスタイルであると感じました。



〈参考図書〉
1.泉谷閑示著『あなたの人生が変わる対話術』(講談社+α文庫)


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(吉田)

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