2022.04.23

読書会の読書感想(4/21-4/24)

 参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。21日(木)は9名、22日(金)は2名、23日(土)は8名、24日(日)は7名の参加でした(主催者含む)。

4月21日:読みたい本を気ままに読む読書会

Yamaneさん『沖縄と国家』
 二人の作家の対談で、読みやすいです。でも、内容は、やはり重いです。それは、批判が、日本国という国家だけでなく、本土出身の私にも、向けられているのを感じるからです。偽善的な傍観者である自分を認めざるをえません。いや、傍観者にさえなっていなかったでしょう。ほとんどなにも知らなかったわけですから。『沖縄「戦後」0年』という言葉が、印象に残りました。

つやまさん『母性社会日本の病理』河合隼雄
 日本人や日本社会に起きている諸々の問題について、その深層にある「母性」との関連から考察されている心理学の本です。今回は『「夜の意識」とイメージ』という章を読みました。
 普段私たちは知識や合理的性にもとづく「昼の意識」によって安定した日常生活を送れているが、意識のもう半面には不明瞭で非合理的な「夜の意識」がある。「夜の意識」は言葉にして説明できるような明確さには欠けるが、イメージがもつ生命力がある。その非日常の力は人を惹きつけ魅了することで日常を生きる活力を与えるが、時には破滅をもたらすこともある。神話や物語として語り継がれてきたことは、「夜の意識」で体験されたことであると考えられ、論理的な整合性よりイメージの豊かさが重要である。例えば日本神話のイザナギとイザナミの話では、地上の世界では産み育くむ愛情深い神であるイザナミが、地下の世界(黄泉の国)では生命を滅ぼす恐ろしい死の神として描かれている。イザナギは常識が支配する地上の世界から、イメージが支配する地下の世界に降りることによって、「母性」の二面性という真実を知ることができた。現代人は「昼の意識」ばかりを重視しがちだが、昼と夜の両方があって1日であるように、夢などを通して「夜の意識」に耳を傾けることも大切である。
 「母性(原理)」には「包含する」はたらきがあり、産み育てるというポジティブな面がある一方で、呑み込み死に至らしめるというネガティブな面がある(ちなみに「父性」には「切断する」はたらきがあり、やはり建設的な面と破壊的な面がある)。欧米社会は個人の自立と自由を前提とした「個の倫理」が強いのに対して、日本社会は集団の均衡を第一に考える「場の倫理」が強く、誰もが「場」の被害者であると言ってよいほどであるが、これは日本が「母性」優位な社会であるためと考えられる。不登校や対人恐怖症といった日本人に多い現象も、深層に「母性」のネガティブな面の影響があると考えられる。日本人が(戦時中などに)見せる曖昧さと極端さは矛盾しているように見えるが、母性のはたらきによって集団の内に向けられる平等性と、外に向けられる排他性という二面性から説明できる。

yuさん『赤い魚の夫婦』
 メキシコの女性作家の短編です。5つのうちの3つ目「牝猫」を読みました。20pくらいでちょうど読み終わりました。メキシコに住んでいて外国の大学院に進学をしようと思っている大学生が捨て猫を飼うことになるところから始まります。同時期に予期せぬ妊娠をするのですが・・私たちは選んでいるようでいて何一つ選んでいないのかもしれない。進学と生殖。動物と人間の関わりなど、ぎゅっと詰まったお話しでした。

 グループで話した時に国連はカントの思想を参考にしているや、沖縄の問題など話しました。返還までドルが流通していり、反対運動して投獄されたりしたそうです。
 ドイツからの参加者もいらっしゃいました。

4月22日:読みたい本を気ままに読む読書会

よしだ『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』カント著/中山元訳
 短編が合本されたような本で、今回は『啓蒙とは何か』を読みました。冒頭の「啓蒙の定義」のところからカントはとばしています(?)。

「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。」

人間が啓蒙された状態とは、自分で考えて、その考えにもとづいて選択や行動や議論をしていくような状態を指しているのだと思います。誰かの考えをそのまま自分に投影させたり自分で考えずに教えを請うたりはしない状態です。
 カントはさらに「人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである。」とも言います。これは人間は啓蒙に至ることを自然と求める性質をもっているという意味だと解釈しました。これはマズローの自己実現欲求に対する考えとも似たものであると感じ、他方でそこに至らない未成年状態とはフロムの『自由からの逃走』で同様の指摘がされたりハイデガーが「世人」(100de名著で観ただけですが)として批判したりする状態であるとも言えそうです。つまり、啓蒙とはそこに至るのは相当難しく一般的ではない、であるならば人間性の根本的な規定と言えるのだろうかと思ってしまいました。啓蒙とは相当に特別な状態なのではないかと。
 そんな感想を読書会で共有すると、でも啓蒙の兆候を例えば子育てにおいて見ることがあるという話がされました。啓蒙へ向かおうとする芽を人は確かに出すことがある、でもそれが摘まれてしまうことも簡単にされてしまうのではないかということです。人の本質とは何なのかとは難しい問題なのだと改めて感じました。ある性質をもっていたとしてもちょっとしたことで別の方向へ進むことがあり、その方向転換の連続の上に今の自分や社会の状態があるのだと思いました。

4月23日:読書のもやもやを話して考える時間「教養とは何か?」

 今回のテーマは「教養とは何か?」でした。

〈持ち寄られたテーマ〉
・地球外知性が必ず読書をすると思いますか?(知性があるものは読書をするはずなのか?)
・生活に影響を与えるほどの衝撃的な本との出合い、そういう体験を聞いてみたい。例えば三島由紀夫の『金閣寺』など。
・教養とは何か?ある本によると、社会のリーダーが最低限もっておかなければいけない知識とあるけど。

つやまさん
 今日は「教養」をめぐって話しました。以下ような話題が特に興味深く感じました。

・本には文字情報以外の内容が含まれているのか。(言葉による伝達の限界について。)
・教養は社会や他者のために活かしてこそ意味があるのか。(教養は書斎にあるのか、現場にあるのか。)
・教養は否定神学と同様に、「~でない」という否定形でしか定義できないのではないか。
・生きるのに教養は必須か。教養には知識量だけではなく、常識や品の良さ、想像力などが不可欠なのではないか。
・既存の価値体系の外側や先にあるものを想像、志向することの大切さ。(いったん知識を全部捨てることも必要なのかも。)
・資本主義の良いところ、自由と豊かな生活。

最近読んだ茂木健一郎さんの本で、人工知能の知性と人間の知性は根本的に異なっており、前者が圧倒的なデータ量と計算速度を根拠にしているのに対して、後者は生物としての身体性をもって「生きる」ことが根底にあると説明されていました。また、既にわかっていることの外側を想像する能力が、人間の知性を発展させてきた、とも。今日の対話でも、教養と生きることや想像力とのつながりが指摘されていて、通じるものを感じました。ところで、茂木さんは世間的に「教養人」として認識されているのかどうか、少し気になりました。教養って難しいですね。

よしだ
 今日のテーマも何か明確な答えが出たわけではないのですが、個人的には想像力と教養が関連するもののように思えました。思えば、「教養がない」と非難されるシーンをテレビや最近ではSNSで見聞きすることがありますが、それは多少なりとも軽薄な言動をしたときにそう非難されるように思い出されます。(図らずも)軽薄になってしまうのは他の誰かの気持ちを想像することができないからではないかと考えると、教養と想像力がつながります。学問としても文学や歴史などが一般的には該当すると思われ、それらが人間や社会そのものについて考える学問だとすると教養は想像力とつながっていきます。
 教養とは考えれば考えるほどよく分からないもので、よく分からないものなのに言葉や概念として使われていることが不思議でなりません。でも人について想像するための知だと考えれば、よく分からないけれども漠然と必要に思えるもの、少なくとも気になってしまうものなのだと納得もしてしまいました。

4月24日:読みたい本を気ままに読む読書会

Takashiさん『梶井基次郎』ちくま日本文学028
 本書は梶井基次郎の短編集だ。文章にキレがある。キレッキレだ。内容は陰鬱なものが多いが、読んでいて気持ちがいい。

 「夕凪橋の狸」という短編は作者の子供時代の回想で、真ん中の弟と末っ子が夜遅く帰ってきて皆に心配をかけたという話だ。末っ子は駄々をこねて真ん中の弟について行き帰宅が遅れてしまった。帰ってきてただ甘えて泣きじゃくる末っ子に対する母の態度の記述があるので紹介する。

 以下引用ー 彼をただ泣かしておくだけで何ともかまってやらない母の正当な処置が私には快く思われた。 -引用終わり

 たったこれだけの文章で、私の気持ち、末っ子の気持ち、母の凛とした気持ち、そして母の態度から何かを感じるだろう真ん中の弟の気持ちが鮮やかに浮かんでくる。

 若くして亡くなった著者だが、日本文学全集に必ず名前を連ねるだけのことはある。やっぱり読んでみなくちゃ分からない。

つやまさん『人間とは何か』マーク・トウェイン
 「老人と青年とが話していた。老人は、人間とは畢竟機械にしかすぎぬと主張した。青年の見解は反対であった。」ということで二人の対話がはじまり、人間の自由意思や利己心について、そして人間とは何かについて、思索が深められていきます。老人が言うには、人間は予め与えられた資質に、外(環境)からの力がはたらいて自動的に何かを為すというだけの機械と同じような存在で、自分自身の力では何も生み出せないということです。それは、凡人であろうがシェイクスピアのような偉大な作家であろうが同じことで、そこにはただの機械鋸かゴブラン織の織機かという程度の違いしかないと言っています。したがって、そこに人間的価値を認めたり、本人が誇りを感じたりするのは、人間の真実を見誤っていると主張します。また、人が何かの行為をするときに、その根本にある動機はただひとつしかなく、それは己の心の満足や安心感であり、どんなに自己犠牲や利他的に見える行為にも当てはまると言います。
 『ハックルベリー・フィンの冒険』や『トム・ソーヤーの冒険』などの世界的な児童文学の作者が、このような身も蓋もない悲観的な人間観をもっていたのは意外な気がしましたが、人一倍暗い影の部分を抱えていたからこそ偉大な作品を書くことができたのかもしれません。また他の参加者の方から、うまく表現することができないだけで本質的には誰もがすごい才能を持っているのかも、というような感想をいただきました。他者に対して競争心や劣等感を抱くことの無意味さを心底納得できるようになるというポジティブな面もあるのかもしれません。老人と青年の対話がはたしてどこに行き着くのか、とても気になります。

小澤さん『NOISE』
 本書が扱うのはヒューマンエラーである。バイアスすなわち系統的な偏りとノイズすなわちランダムなばらつきはどちらもエラーを構成する要素である。著者は「ファスト&スロー」でも有名なダニエル・カーネマンで、前作がバイアスの本であるとするならば、今回はノイズをテーマとしている。

 第一部はどういったノイズがあるのかといった内容であった。犯罪の量刑にだいぶばらつきがあった話があり、たとえば偽造小切手の現金化であれば、担当者により懲役15年と30日が判決が変わったりとバラツキがかなりあったという記載があった。1970年代にマービン・フランケルという著名な連邦裁判刑事がばらつきを減らすためのガイドライン策定を提案し、バラツキは多少軽減されたようだ。逆に言えば、完全に抑えることはできなかった。理想的にはつねに同一であるべき判断に不可避的に入り込む好ましくないばらつきを「システムノイズ」という。システムノイズは保険の分野での事例もあり、保険という指標が定まっていそうな分野でも最大5倍のずれがあることが判明した。

 本筋からそれるが、量刑に関するガイドラインは機械的な判断になってしまうということで反対勢力があったようだ。個人的にはこういったガイドラインは賛成のため、新しいものに対して、反対勢力が発生するのは組織的な力学において常に発生するものかなと感じた。


 過去の読書感想はこちらに載せています。

読書会参加者に投稿いただいた読書の感想です(2022年10月-)。

 

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(吉田)

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