参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。25日(水)は6名、26日(木)は5名、28日(土)は6名、29日(日)は6名の参加でした(主催者含む)。
5月25日:読みたい本を気ままに読む読書会
yuさん『アウシュビッツの小さな姉妹』
物語かと思って読み始めたら実話でした。作者は4才のときアウシュビッツへ。奇跡的に生き延び、いまはホロコーストについて最も影響力のある1人でもあるそうです。
子供の目線から描かれているらしいです。
大変な状況での人間の様子が読んだだけでも辛いのに、実際子供の時体験するとはどういう風なんだろうと思いました。
5月26日:読みたい本を気ままに読む読書会
Soi Tomsonさん『The art of surviving under the Taliban』 (NIKKEI Asia)
今回は”タリバン政権下”において人々の芸術活動の現状について書かれた記事を読んだ。
2021年8月にアメリカをはじめとする各国の支援撤退、その後のタリバン政権復活以来、アフガニスタンに住む多くの芸術家の活動が制限され(忖度も含む)、芸術活動は疎か日々の生活さえも何とか食いつないでいる状況らしい。ある芸術家の壁画作品の多くはタリバンによって白いペンキで上塗りされ、アラーを称える文言に変わったという。ある女性音楽家達は身の危険を感じながらもYouTubeでアフガニスタンから発信し続けている。「音楽家になれないのならほかに何ができるのか本当にわからない」と訴える。
現在タリバン政権は、公共での芸術を全面的に禁止しているわけではないということだが、2001年までの前タリバン政権での悲惨な抑圧について未だ鮮明に記憶にある芸術家は、公に活動できないということだろうともある。
感想:戦争、紛争、不安定な情勢、または伝染病の流行のような非常事態下で芸術家の生活は真っ先に窮地に追いやられる。しかしこのような苦しい状況下でも湧き上がる創造性と向き合い活動を続ける人々はとても強く美しい。
よしだ『ダイアローグ』デヴィッド・ボーム著/金井真弓訳
ダイアローグは日本語では対話と訳されます。
”誰の”意見が正当かを競うような討論や、決定事項を通達するトップダウン型のコミュニケーションとも違う。かといって一つの総意をまとめ上げるボトムアップ型のものとも違う。ただ聴き・話し、それぞれの人のなかで考えやイメージがつくられていく。対話とはそのようなコミュニケーションなのだと理解しました。
このような個別性の生じるコミュニケーションでは協調活動に向かないように思われますが、ムラの寄り合いなどがそれに該当するとのことです。おそらく、周りの人の気質を理解したり、本当に困っていることや望むものに対する察しがついたりすることで、自律的な思考や活動が生まれるということなのではないかと思いました。
読書会のなかで、対話は時間がかかるという話も出て納得しました。時間がかかる代わりに押し付けにはなりにくいと思うので、個別性を大事にしたいときには必要とされるコミュニケーションなのだとも思いました。
また、他の話題として、望むことができるものは社会によって大きな違いがあるということを改めて知り、世の中は平等ではないということを感じました。平和なところに生まれた身としてどう生きるのかということは、すこし重たいですが、自分なりに考えておきたいことであるように思いました。
5月28日:読みたい本を気ままに読む読書会
原 タカシさん『献灯使』(多和田葉子)
著者は、ここ数年、隠れノーベル文学賞候補。(多くの人は知らないようだ。)
https://books.j-cast.com/2020/10/07013166.html
『献灯使』は全米図書賞(翻訳文学部門)受賞作品(2018年)。
登場するのは、無名(むめい)少年と義郎(よしろう)老人。
「大災厄に見舞われ、外来語も自動車もインターネットもなくなり鎖国状態の日本」(裏表紙から引用)における言葉の変容を、たとえば、次のように紹介する。
用もないのに走ることを昔の人は「ジョギング」と呼んでいたが、外来語が消えていく中でいつからか、「駆け落ち」と呼ばれるようになった。「駆ければ血圧が落ちる」という意味で初めは冗談で使われていた流行言葉がやがて定着したのだ(p.9)。
今はいている韋駄天靴は、天狗社が最近発売を始めたもので、はき心地が大変よく、どこかで草鞋を思わせる。天狗社は岩手県に本社があり、靴の中に「岩手まで」と毛筆で書いてある。この「まで」は、英語を習わなくなった世代が、「made in Japan」の「made」を自分なりに解釈した結果できた表現だった(p.10~11)。
「診断」が「死んだ」と響きが似ているため、「定期診断」という言葉はいつからか使われなくなり、「月の見立て」と呼ぶ医者が増えてきた(p.26)。
言葉遊びでもなく、ブラックユーモアでもなく、言葉の軽やかな存在感の呈示であろうか。
小説の基調は、「老人は百歳を過ぎても健康だが子どもは学校に通う体力もない。義郎は身体が弱い曾孫の無名が心配でならない」(裏表紙から引用)大震災後のデストプア。
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追伸です。
『倫理学入門』の感想・意見交換に触発されて。
下記はウキペデイアからの引用。出典元が明記されているので、いい加減な情報ではないでしょう。(最後の文学者の言葉は、参考資料としては余計。)
イエス・キリスト
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(『マタイによる福音書』7章12節,『ルカによる福音書』6章31節)
孔子
己の欲せざるところ、他に施すことなかれ(『論語』巻第八衛霊公第十五 二十四)
ユダヤ教
あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。(ダビデの末裔を称したファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉)、自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない(『トビト記』4章15節)
ヒンドゥー教
人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない(『マハーバーラタ』5:15:17)
イスラム教
自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。(ムハンマドの遺言)
文学者
戯曲家のジョージ・バーナード・ショーは黄金律というのはないというのが黄金律だ”the golden rule is that there are no golden rules”.といい、別の人にしてもらいたいと思うことは人にしてはならない。人の好みというのは同じではないからである “Do not do unto others as you would that they should do unto you. Their tastes may not be the same” (Maxims for Revolutionists; 1903). という言葉を残している。
[ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E5%BE%8B ]
『名画読解観察力をみがく』の感想・意見交換に触発されて。
「影」の作者の名前を思い出しました。高松次郎です。参考までに。
[ http://www.kansaiartbeat.com/kablog/entries.ja/2015/07/kokuritukokusai-takamatsujiro.html ]
さくらさん『倫理学入門』
倫理学の重要性が分かった。倫理学は抽象的で観念的だが、生活に落とし込んで考えてみると倫理は色んなところに散在している。だから生きた学問だと思った。
よしだ『ブループリント(下)』ニコラス・クリスタキス著/鬼澤忍,塩原通緒訳
ヒトは社会を築き維持しながら生きていますが、そのように社会性高く生きることの利点は、場所を移動しても社会(集団)がそのまま移動することになるので、一定程度の環境がそのまま移動されることを意味し、変化の影響が軽減されることにあるようです。
本の趣旨からは逸れるかもしれませんが、だから一人旅というか、そういうことをしたくなるのかなとも思いました。海外旅行に行くとき、友達数人と行くのと一人で行くのとでは、刺激や不安感の面でだいぶ違う気がします。友達と行くと、案外旅行後感は国内にいるのと変わらないかもしれません。いつも自分はなにかの社会に属しながら生きている。自分を確認したり変えたりしたいと思ったとき、いつもの社会から離れて一人旅のようなことをしたくなるのかな、そういうことを求めるのかなと思いました。
5月29日:読書のもやもやを話して考える時間「本当かフェイクかの判断をどのように行なっていますか?」
今回のテーマは「本当かフェイクかの判断をどのように行なっていますか?」でした。
〈持ち寄られたテーマ〉
・世界の境界について。ジャンルの分類など(フィクション/ノンフィクションなど)。分類そのものに対する疑問(日本人/日本人以外など)。
・本当かフェイクかの判断。どうやって感じているのか。
・言葉は現実を表せられないような気がするが、一方で人間は真実をもとに生きていかなければならないことについて。
・本当かフェイクかの判断をどのように行なっていますか
おおにしさん
・本当かフェイクかの判断をどのように行なっていますか
私がこのテーマで本当に聴きたかったことは、皆さんは何かを判断するとき
どのような基準で行っていますか?ということでした。後で気がつきました。
後半、神さまの話へシフトしたのは、私が持論を述べたことが原因しているかと思います。
私の持論は、何か判断・決断する時、自分自身の思考だけでない神秘的な
サムシングがそこに寄与しているのではないかということです。
それを私は「神」と仮に読んでいます。守護霊の方が言葉としては近いかもしれません。
「神」は私が何かを決断しようと悩んでいる時にヒントをくれます。
ヒントはどんな形で私に現れるかはわかりません。他人からのアドバイスだったりたまたま立ち読みした雑誌の中の言葉だったり様々です。
アクシデントという形で現れることもあります。
実際、電車に乗り遅れて運命が変わったことがあります。
これは私の「神秘主義」と言えるかもしれません。
「神」からのヒントに気づかず、失敗したこともあったと思いますが、ここまで無事に生きてこられたのは、私の「神」のおかげだと思っています。
これは私の「神秘主義」といえますね。
私の持論について、皆さんがどう思われるか機会があればぜひ聞いてみたいです。
よしだ
本当かフェイク(ウソ)かというよりも、正しいか正しくないかの判断という話がされたように思います。そして後半は神についても話が及んだことは興味深かったです。なかなか普段話さないことなので。
神については、たとえば神の教えを信じるというよりも、神のような超越したものが在り自分あるいは人間は部分的な存在であるという意味合いで話がされていたように僕は解釈しました。そのような認識をもつかどうかは判断に影響を及ぼすのだと今回考えることができました。仮に自分たちを絶対視した場合、他は正しくないという見方になる可能性があります。そうではなく自分たちは部分であり過程である・大きな世界や時間軸のなかの一部でしかないという認識であれば、正しいとしたものでも状況依存的なものであるという前提が伴います。その前提付きであれば、他をただ間違っているとみたり正しさの基準を変えられなくなったりということが起きにくくなるはずです。
神の存在を考えることはすなわち自分のことを考えることであり、正しさの判断について考えることにもつながっていくことに驚きました。おもしろかったです。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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(吉田)