参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。7月26日(火)は4名、27日(水)は5名、30日(土)は11名、31日(日)は11名の参加でした(主催者含む)。
日曜日の「質問「 」について考える時間。」の質問は、
どのくらい無意識でいられますか
(田中未知著『質問』(文藝春秋))
でした。話しているうちに、意識的である方が実は少ないのではないかと思えてきました。
7月26日:読みたい本を気ままに読む読書会
よしだ『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ著/小松淳子訳
文字に比べて音声や動画の方が優れているところをたくさん挙げられるようにも思います。音声は声の抑揚も込められるし、動画は表情や背景まで情報に含められます。さまざまな演出もしやすいでしょう。それに比べて文字は、、、というところへ、いやいやいや文字というのはね実は、ということを発見したくてこの本を読んでいるのかもしれません。少しまじめな仮説では、文字は情報量が少ないので読み手に想像や思考が委ねられる、書き手は文字にしか頼れないから例えば論述であれば論理の精密さを磨くしかない、というあたりが文字の優れているところ(そして疲れるところ)かななどと思っています。でも今のところ、ひたすら文字の歴史や文字認識に対する脳の使われ方などについて書かれています。これは、でも、こういう内容は僕の場合は本でしか理解を進めることができないようにも感じています。なかなか大変な本です。
7月27日:読みたい本を気ままに読む読書会
yuさん『移民たち』
4つの長い物語が副題。
ゼーバルトの文は、小説だか随筆だかわからない散文で書かれています。
今日読んだところは、
3作目のマックス・アウラッハがチューリッヒからマンチェスターまで夜間飛行して、宿にたどり着き、宿の夫人がティーメイカーを持ってきてくれてそれに心が安らいだところを読みました。霧の中を進んでいるような気持ちになりました。国を追われたわけでなく研究生活をする学生としてきたようです。作者自身のことなのかな?とも思いました。
よしだ『100分de名著 モモ』河合俊雄著
児童文学『モモ』を心理学者の河合俊雄さんが読み解いている本です。
印象的だったのは主人公・モモを「まれびと(客人、来訪神)」であると言っていることです。まれびととは、お祭りなどで出てくる例えばなまはげなどのことです。モモがくることで町にある問題が解決されていきます。なまはげとか、ただ子どもを戒めるものみたいなイメージしかなかったのですが、昔からムラの問題を解決してきたのだなと思いました。いつも通りのところに異物が現れることでその場が動き出す。お祭りとはそういう働きもしてきたのかなと思ったりしました。
7月30日:読書のもやもやについて話す時間「みんなスマホをみている」
今回のテーマは「みんなスマホをみている」でした。
〈持ち寄られたテーマ〉
・対話はいかにして可能か。対話と会話の違い。まったく知らない他者と対話するか。誤解が生まれる。
・想像と理解 会話は一人相撲、対話は心象を想像したり理解する
・本やサイトなどが多くキャパシティが追いつかない。どのようなバランスをもっているか。
・何のために読書をするのか
・問題が起こったときに自分の問題として捉えているか。
・あたりまえが違うことについて
・村上春樹さんはそんなにりっぱ?読む人が読めば違うのだと思うから聞いてみたい。いろいろな解釈をする人がいるが、村上春樹さんの心のなかを覗いてみたいというのもある。
・★みんなスマホをみている。
おおにしさん
Soiさんの「東南アジアでは街中の人々がスマホをいじっている」という話から、スマホ社会が人々に及ぼす影響やスマホ社会の将来について話し合いました。
みなさんのお話を思い出しながら、自分の感想(もやもや)をまとめておきます。
(1)先進国も途上国もスマホはすでに人々の生活の一部になっており、スマホがないと生活できない人が大多数を占めているのが現実。スマホ社会の未来がディストピアになりそうな予感はするが、規制をかけることはなかなか難しく、企業も利潤を生むスマホ・サービスを手放すことはありえないだろう。
さらに、生まれた時からスマホが存在する世界で育ったデジタル・ネイティヴたちはスマホがない社会など想像できないだろう。そんな若者たちがせめてスマホ依存症にならないように啓蒙していくことは必要だと思う。
(2)日々膨大な情報が行き交うデジタル社会の中で、人々は少しでも多くの情報を吸収しようと様々な努力をしている。その一方で本を読むという非効率でアナログ的な行為は敬遠されがちだ。
しかし、脳の処理速度を超えた情報の流入は、思考停止や適切な判断を損なう恐れがある。
内容をよく吟味せずに脊髄反応的にツイッターで「いいね」やリツイートを繰り返すうちに誤った世論形成に加担してしまうことにもなりかねない。
デジタル社会に生きる我々にとって”自分の頭でじっくり考える”トレーニングは必要不可欠だ。
例えば、本を読んで感想を述べ人と意見を交換するという「リベルの読書会」はこのトレーニングにふさわしいものだと思う
よしだ
今回はスマホを切り口にいろんなところに話が及びました。おおむね、スマホに時間をつかいすぎていることに対しては批判的な見方が多かったのですが、これは皮肉とかではなく、それでもみなさんたぶんスマホを使っています。最後の方に出た、なんでスマホをつかうことを抑える方向には世の中は進まないのだろうという疑問は印象的でした。
たとえば一つの考え方として、自然とそれを使ってしまうのだからそれが自然体なのではないか・無意識に求めているのではないかというのもあるかもしれません。しかしこのような考え方は元々の自然環境から大きく離れたところで生きている今の人間には当てはまらないように思います。生き物の本能とは育ってきた環境に適応していると考えられますが、ヒトにとってのそれは草原の狩猟採集生活であると考えられるからです。そのときに適応した本能が今の環境で反応したからといってそれは自然体であるとはいえないように思います。
感情や身体的反応に抗うことはとても難しいというか、体力がいるように思います。なんかでも大変だろうけど、スマホをつかう時間を減らす方法を考えてみようかなと思いました。でも持ち運びしやすすぎるし情報も更新されてるし、なにか仕組みみたいなものを自分で考えないと引き離すのは難しいだろうなとも。あるいはスマホは怖いという本を延々と読み続けるか。。
7月31日:読みたい本を気ままに読む読書会
tetsuさん『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』
心の中にあるものを何らかの表現方法によって「形」を与えることで、「収まるところに収まる」ようになっていくのだろうなと思いました。自分の心の健康のためにも、表現できる何かをやってみたくなりました。ありがとうございました。
よしだ『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』東畑開人著
臨床心理学者の著者がカウンセリングの経験と心理学の知識をもとにしながら書いています。架空の人物をおいて、そのひとのこころを著者と一緒にみるようなかたちで話は進んでいきます。
著者はこころに補助線を引くことでこころをみえやすくしようとしています。たとえば馬とジョッキー。馬は抑えられない情動のようなもので、ジョッキーはそれをうまくコントロールする理性のようなもの。情動のままに生きていては生きることがままならなくなるからジョッキーが必要とされる。もしも社会がなかったらジョッキーは今ここにいるのだろうかとか、そんなことも考えてしまいました。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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(吉田)