2024.11.26

読書会参加者に投稿いただいた読書の感想です(2024年10月-)。

 読書会に参加した人とのちょっとした振り返りの時間として、参加できなかった人への読書会の様子や話題のシェアとして、読書会に参加いただいた方の読書の感想をこの場所に載せていきたいと考えています。「気が向いたら」という任意でいただいた感想です。引き続き更新していきます。

 過去の分はこちらです。

〈読書会について〉
 事前読書のいらない、その場で読んで感想をシェアするスタイルの読書会を開いています。事前申込をあまり求めない、出入り自由な雰囲気です。スタンスや日程などについてはこちらをご覧ください。

※スマホの方は見にくくて申し訳ありませんが、目次一覧の下に本文がございます。

2024年11月24日(日/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

Takashiさん『内田百閒』内田百閒(ちくま日本文学)
 私は内田百閒を初めて読みました。本書は短編・随筆集で、今日は夢の話みたいなものを幾つか読みました。これは何の比喩だとか、筆者は何を言いたいのかとか、難しいことはきっと他の人がやってくれていると思うので、私はそういうことは考えずに文章をゆっくり読みました。ひとつ引用します。

「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。」(『冥途』より)

 土手が夜の中を走っているように見えるのか~、なるほど~、みたいな感じが面白かったです。

2024年11月24日(日/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

Takashiさん『内田百閒』内田百閒(ちくま日本文学)
 私は内田百閒を初めて読みました。本書は短編・随筆集で、今日は夢の話みたいなものを幾つか読みました。これは何の比喩だとか、筆者は何を言いたいのかとか、難しいことはきっと他の人がやってくれていると思うので、私はそういうことは考えずに文章をゆっくり読みました。ひとつ引用します。

「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。」(『冥途』より)

 土手が夜の中を走っているように見えるのか~、なるほど~、みたいな感じが面白かったです。

2024年11月23日(土/午前):読書のもやもやについて話す時間

 今回のテーマは「本によって学び考えることと、身体的体験によって学び考えることの違いは何か」でした。

よしださん
 僕が出したテーマでいろいろと考える時間になってありがたかったです。
 身体性とは難しい概念です。その難しいというのは言葉で表現できにくいとも言えるのかもしれません。400mを全力で走ると疲れます。しかし、それは言葉で言うと「疲れる」ですが、そこには収まらない疲れがあります。苦しい、吐きそうとか、そんな感じですが、しかしながら実際に体験しないと分からないだろうと思ったりします。
 先日友人と話していて、nature positiveという言葉が出てきました。今の気候変動問題と関連して、これからはnature positiveとあることが重要だろうということです。nature positiveとは初めて聞いたので真意は分かりませんが、それと身体性を結びつけてこんなことを考えました。
 nature positiveの一つのあり方は、気候変動で産業も日々の暮らしも影響を受けるから自然の偉大さを自覚して共存していこうとする、人間の利を考えてのものです。これを仮に功利主義的nature positveと呼んでおきます(あくまでも僕による区分けです)。一方で、日々虫や植物なんかと戯れていて、そこに美しさやかわいらしさを感じることもnature positiveであると言えると思います。こちらは審美主義的nature positveと呼んでおきます。自然が人間に利があるからとか関係なく、自然やそこに生きる生物の存在自体を大切だと感じるこころのあり様です。
 どちらのnature positiveも、自然と共生しよう、自然や地球を大事にしようという結論は同じだと思います。しかしその動機は明らかに違います。そして、なんとなく、功利主義的nature positiveは本で学び考えることによって、審美主義的nature positiveは身体的に学び考えることによって得られる主義・価値観なのではないかと思っています。草木を分けいり、ミツバチが花に入り込んで蜜を採集しているところを見る。それを見てかわいいと思う。これは図鑑でもその感覚を抱くのは難しく、やっぱりミツバチと同じ環境に身をおいて、刺されないように慎重に近づいてじっと観察するからこそ得られることではないかと思っています。
 何が言いたいかというと、本から得られることと身体的に得られることとはやっぱり違っていて、そこから生まれる価値観やものの見方も違うのではないかということです。双方は補完し合うという意見も出て確かにそうだと思います。ただ、補完はし合うのだけど、違う。身体的にしか得られないものはあるし、本からしか得られないものもある。そんなことの正体を追ってみたいなと話していて改めて思いました。

2024年11月20日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『地下室の手記』ドストエフスキー
おとこが食事会の集合時間の変更をたぶん故意にをしらされていなくて仲間にもはいれなくてきまずいけど負け惜しみを心の中で言っていて。お金もなくて。集団で歓迎されなさ過ぎて男の立場になってしまい、いたたまれなくなりました。

2024年11月13日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『現象学入門』竹田青嗣
 〈私〉は何かを判断するときに何らかの確信をもとに判断しているのだと思います。例えば、①殴られると痛い②痛いのは嫌だ③嫌なことはやってはいけない④だから殴ることはやってはいけない、というような思考のもと④の判断をしたりしています。思考といっても、これはもはや常識として捉えられていて意識的に思考することもないはずですが、根拠を尋ねられると①〜④のように説明することができます。そしてその時、①〜③は確信です。人によって違うとか、もしかするとみたいな可能性の話とかそういう次元のものではなく、確信です。その確信は、自分だけでなく誰もが確信として共有しているものであり、異論の余地がないものとして捉えています。つまり、主観ではなく客観であるということです。
 しかし、それぞれに反論をすることはできます。①の反論:殴られても痛くない、②の反論:痛いのは嫌ではない、③の反論:嫌なことをやってはいけないわけではない、などということです。①なんかは、格闘漫画でたまに出てきますよね。痛いというのは脳がそう認識しているからでその認識を書き換えれば痛いものが痛くなくなるのだ!なんていう血管が浮き出たキャラも出てきます。あるいは、②の反論も単なる強がりではなく、本当にそう思っている人もいるかもしれません。痛いというものではなくても、ハードなトレーニングをすることで自己を保てるみたいな人もいると思います。僕もスポーツをやっていたときは、そんな心持ちであったような…。
 つまり、誰もがそう確信している客観的真実だと思っていることがあって、それをもとに生きているわけですが、それはやっぱり主観性を拭えないということです。いくらでも反論できますし、①〜③の反論を実践する人がいないことを証明することは困難です。だけれども、〈私〉はその主観的客観を確信としてもって生きています。では、なぜそれを確信としてもっていられるのか、確信とはどのようにして生まれるものなのか、そんなことが現象学のテーマなのだと思います、たぶん。客観なんてない、と言って結論とするのではなく、なぜ客観というものをもてるのか、主観のなかに生きている個々の人間がなぜ確信として何かを共有し連帯できるのか、みたいなことへの答えなのかもしれません。迷走しながら読んでいるのでまだわかりませんが…。

2024年11月10日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『地下室の手記』ドストエフスキー
地下室の手記の読んだところを説明していると、ライムギのホールデンみたいだという感想をいただきました。みんなにすかれたいとおもっている。うそとかきらい。がんばってね。とかいわれるといらつく。自分の顔が阿呆ずらにみえてくるところは太宰治の「人間失格」を連想しました。じめじめしたぼた雪のような話です。

2024年11月5日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『現象学入門』竹田青嗣
 まだ序盤です。印象に残ったのは認識コンピューターの話でした。
 人は、外にある対象物を見たり聞いたり触ったりして「こんなものがある」ということを認識します。しかし、その際にダイレクトに対象物を認識しているというよりも、認識までの過程でさまざまな処理がされています。例えば、氷を触って冷たいと思う。この時に起きているのは、指で触って指の皮膚になるセンサーのようなものが情報を受けとって信号として神経に伝えて、その後もおそらくいくつかの神経を経由しながら脳に到達する。脳はその信号を受け取り、何らかの既にある基準に則って知覚する。そしてその知覚に「冷たい」という言葉が適切だと判断しその言葉を当てはめる。
 この過程は僕の想像ではありますが、そのようないくつもの処理があって認識をするのが人だとしたときに、その処理過程はコンピューターにおけるプログラムだと置き換えることができます。そして、ではその認識は正しいのかという判断は、その処理=プログラムが正しいのかどうかということを検証できて初めて判断できます。
 しかし、常にその既にあるプログラムを通してしか認識できない人においては、そのプログラムそのものが正しいかどうかを判断する術はないということです。人はものを正しくみることができるのか、主観を超えて客観で捉えることができるのかは、哲学の世界では大きなテーマであるということでした。現象学でもこのテーマにアプローチしているとのことで、どのようなアプローチと答えを出すのかこれから楽しみです。

2024年11月3日(土/午後):〈リベルの文化祭〉「労働」をテーマに話し合う会

よしださん
 労働という多くの人がどこかで関わる概念(?)について話しました。賃金が発生する労働とそうでない労働がある、生活の糧と割り切って労働はするけど他にやりたいことがある、そんないろいろな話が飛び交いました。
 言葉としては1つなのだけど、それぞれの人が思っていることは違う。これがリアルなのであって、現実というのは本当は多様で複雑であってこれこそリアル、という感じの時間であったのだと今振り返ると思います。

2024年11月3日(土/午後):〈リベルの文化祭〉秋といえば、保存食についてシェアする会

よしださん
 梅干しを漬けている人が思ったより多いかも?と驚きました。もちろん、このような会に参加される方だからというのもあると思いますが、そういえば私の実家でも漬けている…。
 干し柿は甘い柿だと水分が多くて干される前に腐るから渋柿しかできないはず、などというのは初耳の知識でした。そういえば、干すことで渋みも取れるはずで(正確には皮を剥くということが重要なようですが)、渋柿の最適な食べ方として保存食・干し柿のあるのだと受け継がれる知恵の偉大さを感じました。
 いずれにしても、今年も柚子胡椒をはじめ、なにか保存食を作っていきたいなと思いました。いろいろな調理法を試行錯誤の上(そして数々の犠牲も…)確立してきた先人たちに感謝です。たしかに、ふなずしを最初に食べた人はどんな感想をもったのだろうか。

2024年11月3日(土/午前):〈リベルの文化祭〉ドストエフスキーとその作品の魅力

yuさん
マルメラードフの「自分は神に許されないと思っているからこそ神にゆるされる」は親鸞聖人の「悪人正機説」に通じるものがあるなと感じました。マゾッケがないと読めないのではという意見が面白かったです。少年イリューシャの飼い犬の名前はなんだったか昨日から考えていました。「貧しき人々」「地下室の手記」「悪霊」・・ドストエフスキーを読むきっかけになりそうです。

jscripterさん
ドストエフスキーはずーっと気になっているが、なかなか読めない作家です。問題意識をどう持つかに掛かっているのですが、今回の読書会に参加させていただいたおかげで、少し見えてきました。「悪霊」をまず読んでみると同時に、ニーチェの書簡集にドストエフスキーが出てくるそうなので、そちらも当たってみようと思います。

よしださん
 僕はドストエフスキーの作品を読んだことがありませんが、おもしろくみなさんのお話を伺っていました。印象的だったのは、やはり(?)「なぜドストエフスキーを読むのか?」→「頭がおかしくなりたいから」という意見でしょうか。話が長くて、それぞれの登場人物のなかに矛盾があって、所作もおかしかったりするから頭がおかしくなる?ようです。その矛盾と複雑さに徐々にシンクロしていくということでしょうか。僕も科学書なり哲学書なりで常識を覆されたときに呆然としながらも楽しいと思ってしまう、その感覚に似ているのでしょうか。『悪霊』か『罪と罰』あたりを読んでみたいと思いました。

2024年11月1日(金/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

野中さん『男性危機』
伊藤さんによるジェンダー平等政策の解説が非常に秀逸だった。

yuさん『カラマーゾフの兄弟3』 ドストエフスキー
三部ゾシマ長老が死に人々が詰めかけて奇跡を待ち受けているところにありえないことが。聖人からは腐臭がしないはずが・・・。町中の人が注目している、人々は退屈していたのかなと感じました。

2024年10月30日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

むしこさん『実践日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』
本の感想では無いのですが、「推し活」とは何なのか、いろいろな観点から語り合ったのがとても面白かったです。この本を読まれた方の着眼点も大変面白くて、もっといろいろ伺ってみたかったです。

よしださん『想像力 生きる力の源をさぐる』内田伸子著
 今日が読み始めですが、印象に残ったのは以下の部分です(P7)。

「五官を働かせて得た「直接体験」から抽象化された「経験」へと昇華する過程で、レジリエンス(ストレスを回復する精神的回復力)が高まってゆきます。」

正直、この記述に実感をもてるような体験は僕のなかに見出せませんでした。この本の冒頭はフランクルの『夜と霧』の紹介から始まります。『夜と霧』では、ナチスによる強制収容から生き延びたフランクルが、どのような人が生き残りどのような人が亡くなっていったのか記しています。そこには、精神面が生死を分かつ確かな記述がありました。読んでから時間が経っているので記憶もあやふやですが、外的な(絶望的な)世界に翻弄されるばかりでは生きられず、内的な世界を生きる時間をもち続けられた人が生き残ったような記述があった気がします。その内的な世界を形成するのが「経験」であるということなのでしょうか、あるいは形成した内的な世界自体が「経験」であるということでしょうか。想像力を生きる力と結びつけて考えたことがなかったので、興味深く読み進めていきたいと思います。

2024年10月22日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント
 僕の理解不足かもしれませんが、シオニストの人たちはナチスよりもイギリスを敵とみなしていた時期もあったと書かれていました。シオニストとはパレスチナにユダヤ人国家を再建しようとする人たち。当時パレスチナはイギリスにより支配されていたのか、シオニストの活動を阻む存在として忌避されていた。ナチスは、ドイツやオーストリアからユダヤ人を追い出そうとしているけど、この時点では殺戮までは至っていないから、どちらかというと悲願を阻むイギリスの方が敵であるということなのかなと理解しました。歴史は単純ではないなと感じました。

2024年10月19日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『縄文時代の歴史』山田康弘著
 定期的に読みたくなる縄文時代。今回も初めから読み返してみて、冒頭の縄文時代の概要を書いているところを読みました。
 食料は燻製加工したり貯蔵庫を設けたりして保存する。建物は竪穴を掘って寒さと暑さを和らげる工夫をするなど、用途に応じた工夫がされた建築物を建てて生活をする。集落間のネットワークがあり、物や情報のやりとりをしている。集落間の関係をより堅いものにするために結婚制度を設けて嫁や婿をどちらかの集落に住まわせる。
 これらは、縄文時代に確立されていた慣習なのですが、さて今とどこに違いがあるのかというと、、と思って考えていました。
 便利さや快適さを追求しようとする方向性は時代や文化を違えてもあまり変わらないのかもしれません。結婚をして関係を堅くするというのも、血縁のもつつながりの力を示していて、近現代とあまり変わりません。時代を超えた歴史を知ると、同じところと違うところが見えてきてやっぱりおもしろいなと思いました。

2024年10月8日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント
 アイヒマンは整合性のないことを言います。さっきまで自分は絶対に宣誓をしないと言っていたのに、いきなり宣誓すると言い出したりする。それの矛盾に気づいていない。本の中の表現を借りれば、紋切り型の発言に終始している。紋切り型だから、状況や周りの反応やさっき話した自分の話に対して調節が効いていない。自分と、外の世界とのあいだのコミュニケーションが成立していないように思いました。
 アイヒマンはナチスにおけるユダヤ人の国外移住へ加担していました。移住といえば聞こえはいいですが、国内からの追放であり、ユダヤ人は自身の国内の全財産を放棄することになった上に必要な外貨も法外な為替レートで押し付けられたのだとか。アイヒマンは、自分の子供に自分はユダヤ人が殺されるのを国外移住させることで防いだのだと武勇伝のように語っていたのだとか。そしておそらく子供もそれを信じていた。閉じた世界の自分に都合の良い完結した物語ができていたということなのでしょうか。

2024年10月6日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん「ロシア文学の教室」文学界2023年6月号 奈倉 有里 (著)
第6講 布団から出たくないイワン・ゴンチャロフ『オブローモフ』紹介の回を読みました。
大学2年生のロシア文学の授業形式で書かれた小説です。
この授業では、あなたという読者を主体とし、ロシア文学を素材として体験することによって、社会とは、愛とは何かを考えます」山を思わせる初老の教授が、学生たちをいっぷう変わった「体験型」の授業へといざなう。オブローモフは上中下とあり、上巻では主人公は布団のなかからなかなかでてこない話のようです。だんだん主人公のような行動をしてみたいと作中の人物の気分がうつろっていました。なにが大事なことなのかと考えさせられるような本かなと思いました。

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