2024.11.26

読書会参加者に投稿いただいた読書の感想です(2024年10月-)。

 読書会に参加した人とのちょっとした振り返りの時間として、参加できなかった人への読書会の様子や話題のシェアとして、読書会に参加いただいた方の読書の感想をこの場所に載せていきたいと考えています。「気が向いたら」という任意でいただいた感想です。引き続き更新していきます。

 過去の分はこちらです。

〈読書会について〉
 事前読書のいらない、その場で読んで感想をシェアするスタイルの読書会を開いています。事前申込をあまり求めない、出入り自由な雰囲気です。スタンスや日程などについてはこちらをご覧ください。

※スマホの方は見にくくて申し訳ありませんが、目次一覧の下に本文がございます。

2025年2月23日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『金閣寺』三島由紀夫
金閣寺は一度半分まで読んで挫折しています。1章から2章にかけて読みました。金閣寺信仰みたいだなあと思いながら読んでいます。主人公は父の死後、自分の少年時代にまるきり人間的関心というべきものが欠けていたことに驚いたとありいつの地点からの回想かな?と思いました。

2025年2月23日(日/午前):質問「   」について考える時間

 質問はこちらでした。

物の表面と中身はどこで区別しますか

田中未知著『質問』(文藝春秋)

匿名希望さん
透明と不透明の話が印象的でした。

2025年2月22日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

takashiさん『超国家主義の論理と心理』丸山眞男
 戦中戦後の分析と批判だが、何度読み返しても面白い。国の文化や形式が80年やそこらで変わるはずがないとすれば、本書は現在の我々に対する批判でもある。
 日本人である自分の根底に流れるものを揺さぶられる本だ。『菊と刀』とあわせて読みたい。

2025年2月18日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『コミュニティを問いなおす つながり・都市・日本社会の未来』広井良典
 個人は直に社会(集団全体)に出ているのではなく、コミュニティを介している、みたいな話がおもしろかったです。家族や会社などを通して社会に参加しているという意味合いですが、たしかにそうだなと思いました。なので、コミュニティは開いたものであるということ。
 日本は、他の先進国に比べると、コミュニティが閉じていてソトとの接触も少ないという点が際立っているとのこと。それは、外に外に行かなくても成り立つ、ある意味では恵まれた農村社会が成立していたからではないかとのことでした。工業化が進んで都市部への移動があっても、そこに会社というムラができて閉じたコミュニティの中で生きていくことができたということです。
 それがここ20年くらいで閉鎖したムラではいられなくなって変化を強いられているということ。終身雇用などが崩れたということでしょうが、ソトとの接触に慣れていない日本人はそこで不安や困惑を感じるということなのだと思います。そこらへんは、子供であれば教育を介して変わるチャンスがありますが、大人になったらどうなのでしょうか。大人はやっぱり自分でどうにかするしかない、自律的にどんどん変わっていくことが必要とされるように思います。そんな能力をどこかで獲得しておく必要があるのかなどと思いました。

2025年2月16日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『灰色のミツバチ』アンドレイ・クルコフ
ウクライナの紛争地域、狙撃兵と地雷に囲まれ、誰もいなくなった緩衝地帯《グレーゾーン》の村に暮らし続ける中年男ふたりの話。幼馴染だけど仲良くなかった2人。弱い立場のほうしかそれって覚えていないよねと思いながら。

2025年2月15日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』E・フラー・トリー
 神への信仰は、祖先崇拝から始まったというところを読んでいました。
 人類の進化によって、省りみることができるようになったり、イマ・ココ以外の世界を想像できるようになったりして、死後の世界を思考できるようになったというのは分かります。でも、それがなぜ祖先崇拝につながっていくのかは今いち理解できていません。あっちの世界でも元気に、というのであれば他者の気持ちを考えるということで、分かります。でも、崇拝までいくのはなぜなのか。それはやっぱり、先を考えられるようになって生じるようになってしまった未来への不安を、長く生きた祖先に導いてもらおうということだったのか。
 そうなると、祖先崇拝の延長線上に年功序列があるのか、などとも想像が巡ります。

2025年2月12日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』E・フラー・トリー
 今回は宴会の重要性について(?)。1万8千年前には複数の小集団がある時期(季節)に集まって、協力して狩猟した痕跡があるのだといいます。これはごく普通のことに思われるかもしれませんが、いくつかの点で画期的な進化的変化である言えます。
 まず、「ある時期」ということは前々から計画していたということで、計画と実行の能力が備わっていたということ。そしていくつかの小集団が集まるということは、他者の考えを慮ることがより必要とされたということであり、それができていた可能性が高いということです。
 そして、そのような変化を伴いながら、1万1千年前頃のものと思われるギョベクリ・テペという大規模な遺跡がトルコの南西部にあるのだそう。そのギョベクリ・テペは宴会場だったのではないかというのです。
 人が集まり協力をするとき、宴会や祭りが必要だということなのでしょう。ギョベクリ・テペが最初から宴会場的な目的で作られたのか、後々そう使われるようになったのかは分かりませんが、太古の大きな労働力を費やした先に宴会場になるということには宴会への合理性をみたような気になりました。

2025年2月9日(日/午前):質問「   」について考える時間。

 この回の質問はこちらでした。

一億円を一日で使えと言われたらどう使いますか

田中未知著『質問』(文藝春秋)

yoniさん
用事で読書会は不参加だったので、初めての投稿ですが「質問の会」で思ったコトを綴ります。

たしかお題は「一億円を1日で使うなら?」だったかな。
個人的にはバカなことに使ってしまうかも。良きことを考え計画する暇は、ない。そして熟考した後の結果に後悔しないかどうかも、分からない。
それなら、実現できないかもしれない「夢」に使うのだ!(オトコのバカなロマン?世界一周船の旅)
すぐアタマに浮かんだのは、ドイツ映画『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』で、マイフェバな1本。余命わずかな若者2人が、それぞれの夢を実現するために病院を抜け出し、ギャングの大金を手にして海まで旅する、最高のロード&バディなムービー。
彼らの夢はもちろん異なるのだが、お袋さんのための「夢」や男性としての「夢」を実現していく様子が、なにか可笑しいし微笑ましい。
そして一番のキモ一番の「夢」は、「海」を観に行くこと。2人のうち1人は今まで海を見たことがない。もう1人が言う。「お前がもうすぐ死んだあと天国に行けたとしても、たぶん孤独で辛い思いをするかな。いま天国では、海について話すのがブームなんだぞ(ジョーク)。死んでも仲間が欲しいだろう?さぁすぐ一緒に北へ行こう!」ドイツは北に海がある〜。

奇跡的な展開で邁進する2人は天使の化身とも思えて、コメディ色強いが個人的に深く思考に沈める作品。ラストには、ヤラれる…。
何度もビデオで観ているが、昨年ある大劇場の閉館前の特別上映にこの映画を観れたのが、もしかしたら私の「意図してなかったがささやかな夢」が実現したコトかも。交通費入れてわずか五千円ですんだが。

2025年2月8日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

匿名希望さん『ピクニック』今村夏子
ギャンブル依存の井川意高の本を紹介された方がいて、依存症についてのいろんな話が興味深かったです。自分は暇だとネットをよく見てしまいますが(ネット依存?)、参加者さんが「足るを知る」と言っていて、「今あることに感謝して満足したら」刺激中毒というキリのない欲から自由になれると思いました。久々に参加叶いましたが、ゆるくてウェルカムな雰囲気が心地よかったです。ありがとうございました。

yuさん『灰色のミツバチ』アンドレイ・クルコフ
ウクライナの現役作家の作品で、現在のロシアとの戦争のときの市民の暮らしがリアル?に書かれているのかなと感じました。村にふたりだけ、あとのひとは逃げた。たいして仲良くもない幼馴染。30分だけ電気が来てそのあいだに携帯の充電をした?というところを読みました。

雑談で、依存やチについてはなしました。ギャンブル依存から砂糖小麦依存まで。身近な話題につながりました。

Takashiさん『熔ける』井川意高
 自分のグループ会社のお金106億円をカジノで使った元社長の懺悔録です。額が大きすぎるので庶民の感覚とは違うかもしれませんが、ギャンブル依存に興味があって読みました。
 読書会では「秘密はよくないね」という感想を頂きました。確かに著者はギャンブルに嵌まる性格ときっかけがあったにせよ、誰にもばれない状況が続いたので借金も大きくなったのだと思います。透明人間になれる指輪を拾ったばっかりに、善良な羊飼いが大悪党になる「ギュゲスの指輪」を思い出しました。
 秘密は毒なのかもしれません。

2025年1月29日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』E・フラー・トリー
 「出アフリカ」をホモ・サピエンスはしたのだけれど、そこまで世界中にまで進出していったことを不思議に思いました。
 いつ出たのかは諸説あるようで、一つには7万年くらい前にインドネシアの山が大噴火を起こしその後数百年気候が変わったことに要因があるのではと考えられているそうです。その理由はよく分かります。環境に変化が起きて住みにくくなったのであれば、移動することも分かります。しかし、ホモサピエンスはその後数万年にわたって世界進出を続けます。まずはアラビア半島へ行き、そこからロシアやヨーロッパの方へと進出したグループもいました。しかし、それより目を見張るのは南へ行ったグループです。
 当時は今よりも海水面が低く、地続きであったり海の隔たりが狭いエリアが多くありました。その環境下で、インドネシアなどの東南アジアの諸島へ巡り、さらにはそれでも海の隔たりが大きかったオーストラリアへも進出します。それはリスクがあったことでしょう。
 なぜそこまで行くのか。気候変動で住みにくくなっても、それが落ち着いたり、新しい安住の地が見つかればそこに留まってもいいはずです。でもリスクを冒してまでも世界進出をした。それは単純に生きるため、なだけではない気がしてきて気になりました。

2025年1月26日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『枕草子』清少納言
84~めでたきもの:ほめたたえたくなるもの、なまめかしきもの、かたはらいたきもの:いたたまれないもの。あさましきもの:呆然とするもので何かをひっくりかえしてこぼしてしまったことの気持ちは今にも通じるけど、牛車がひっくりかえったのなどは時代を感じました。くちをしきもの:残念なもの。など。
読書会の課題で、電子で読んでいるところです。電子だと操作がなれないので紹介には向いていないなと感じました。

2025年1月25日(土/午前):読書のもやもやについて話す時間

 今回のテーマは「読書会に何を求めているのか。コミュニケーションなど」でした。読書会の企画を考えている方がおり、その方から出された話題が広がってこのテーマになりました。

よしださん
 人と話すということにはいろいろな意味が含まっているのだと思います。話すことで考えがまとまるというのもそうだし、他の人の意見を聞いて考えを深めるというのもあります。あとは、共有する。誰かと共有することで自分の中で作られた想像や考えが、現実世界に進出する。少し飛躍しすぎかもしれませんが、自分だけの世界にあったものが、誰かとの世界にも入り込むことで、社会への一歩を踏み出すというか、社会に出してもいいのだなと思えたりする、かもしれません。
 読書は自分でするものという意見が出ました。誰かと一緒に読書をするという機会があっても、本当にこれ読んでるんだっけという感覚になってしまうという経験談も。読書は自分でするもの。もっというと、学習や作業の多くは自分でするものが多いというか、基本なような気もします。でも、誰かと話したくなるし、誰かと一緒にやった方がいいような気がすることもある。
 僕の場合は、人と時間をともにするという基本的な充実感はもちろんありつつ、硬い方の理由としては集合知的な思考をさせてもらっているという感じがしています。どこからともなく予定不調和に展開される話を聴きながら思考することで、自分一人からは出てこないような疑問や問いや視点が得られていて、それがいいなと思っているのだと思います。

2025年1月15日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『進化心理学から考えるホモ・サピエンス』アラン・S・ミラー,サトシ・カナザワ
 〈私〉とは何かと考えていったときに、生まれてきてから得てきた知識や経験だけではなく、生まれる前・はるか昔から連綿と紡がれてきた遺伝子の存在は無視できません。ダーウィンが言うように、生物は環境に適応するかたちで進化・変化してきたのだとすれば、今の〈私〉はどこかに確かに生きてきた生物の歴史を帯びて生きていると言うこともできます。その大祖先の適応を受け継いでいるのであれば、それに大きく反するような生き方は合わないものとなってしまうかもしれない、不自由につながってしまうのかもしれない、そんな風にも思います。進化心理学を学びながら、そんなことを考えてみたいと思っています。

2025年1月12日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『響きと怒り』ウィリアム・フォークナー
4部を読んでいますが、説明もなくどこを読んでいるのか迷路のようになりながら信頼できない語り手の句点のないとぎれのない思考を延々ときいているかんじです。

2025年1月11日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『ヒトラーとナチ・ドイツ』石田勇治
 今日から読み始め、再読です。ヒトラーの生い立ちから始まりました。それを読んでいると、ヒトラーはどこかでハマったのだなと思えてきます。
 元々は戦争や政治に関心が高いわけではなかったようです。この本のなかでは、周りをみてなんとなくうまく立ち回るような日和見的なところがあったみたいな記述も。
 ただ、弁論のセンスはあったようで、第一次大戦のあとに思想教育を受けたあと、宣伝・諜報部にまわったそうです。その思想教育機関には反ユダヤ的な講師が複数人いたのだとか。
 なんとなくですが、なにもないところに反ユダヤの思想と弁論のセンスが合わさってハマったのではないかと思ってしまいました。そこから一気にナチの総帥までいくわけではないと思うので、その後の段階を追っていきたいと思っています。

2025年1月7日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』E・フラー・トリー
 相手の気持ちを自分が考えられるのと、相手が自分をどう思っているのかを自分が考えられるのとでは、1段階レベルが違うみたいなことが書かれており、印象的でした。後者は、自分がどう思われているのかという思考が働くことを意味し、客観的に自分をみることになります。自己の認識につながるということです。ネアンデルタール人は、前者の思考まではできたけど、後者まではできなかったのではないかとも書かれていました。私たちホモ・サピエンスは後者の思考までできている、つまり自己を認識できています。
 他者からの自分の見られ方を考えられるということは神の創造へとつながっていく、とも。よく「お天道様が見ているのよ」なんて言いますが、それはお天道様という他者が自分を見ているということを考えられるということを意味し、神の創造へとつながっていくということです。現代では神の話をすることは少なくなり、その一方で「自分でどう思うか」が問われることが増えてきたかもしれません。それは、神は自分になり替わったと言えるのかもしれません。別に自分が偉いとかそういう認識ではないと思いますが、私を支配するのは私になったということです。それが個人主義の一つの完成系であるとも言えます。
 それが良いのかどうか。それは、私が私や世界をよく理解し、私と世界の調和のとれた生き方を選択できるという場合は良いように思います。でも、自制心が強過ぎたりすると、自分で自分を追い込みすぎることにもつながるかもしれません。個人主義とはいえ、閉じた個人の中で決めていく・生きていくというのは少し違うようにも思いました。話が広がりすぎました。

2024年12月29日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『失脚』デュレンマット傑作選
古典新訳文庫で4つの短編の中の1つです。登場人物がA~Pの人々が会議の中で話し合っている様子?でJがいないのは何故かな?と。秘密警察長官や国防大臣Hなど政治的?な会議でどこの国かや詳しいことはわからず今は置いてけぼりになっているところです。

善や道徳についてカントについて話題になりました。カントは難しそうですが正義の人だったのかな?と感じました。

2024年12月29日(日/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

マークスさん『友だち幻想』
「気の合わない人とでも、少しはぶつかり合いながら、理解を深めていくと、自分の考えに幅を持たせる事ができ良いのではないか」という考えについて色々意見をお聞かせ下さり、参考になりました。
私自身初めての参加で、話す内容が整理されておらず、本の内容を上手く伝えられなかったのですが、皆さんは真剣に聞いて、ご感想も頂き、嬉しかったです。とてもアットホームな雰囲気で良かったです。ありがとうございました。

yuさん『ロンドリ姉妹』モーパッサン
フランスからイタリアへ向かう列車の中。男2人とイタリア人の女一人。男は女の気をひくためにあれこれと考え事をしていて美しい車窓からの風景は全くみていないところが印象に残りました。また、不機嫌な女が急に二人に同行することになってこれからどう物語が進むのか?
会では今年読んだ本やこれから読みたい本なども話して、来年の個人の課題本はどうしようかなと考えました。

Takashiさん『純粋理性批判』カント
岩波文庫上巻第72刷のP117に書かれている「『私』自体」という言葉は物自体と対比させて理解する上でとても良いキーワードだと思った。

しかし光文社古典新約文庫ではこの言葉は出てこない。ネットで拾った英文、独文テキストにも出てこない。岩波文庫の翻訳者である篠田先生のオリジナルの注釈なのか、それともどこかの原文に書かれたものがあったのか、どちらなのかが分からない。

どなたか詳しい方に聞いてみたい。

2024年12月28日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』E・フラー・トリー
 神は脳の生成物であるということを前提に、人類の進化、特に脳的なところが書かれているのでしょうか。今日が読み始めでした。
 僕としては、認識の創造に関心があります。そして、認識は脳も関わっているのだろうけど、身体も関わっているのではないかと。仮に神は脳がつくったのだとしても、その神をつくるのは脳内だけの作用なのではなく、身体的な体験を伴うのではないかということです。筋トレをしまくっているといつしか無敵な感覚になるような、なったことはないですが、そんな身体性のある認識形成について今興味をもっています。

2024年12月27日(金/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『ロンドリ姉妹』モーパッサン
フランスから旅が好きでない男2人がイタリアに列車で行く。途中で20歳まえくらいのフランス美人に会う。しかし、ブレスレットが大きすぎるだのオレンジの食べ方でろくなしつけを受けていないことがわかるだとか、優美さが足りないだとか・・窓から見える香濃いオレンジや景色の長い描写が綺麗でした。

2024年12月25日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』今井むつみ/秋田喜美著
 最後の方を読んでいました。チンパンジーとヒトの思考の違いについて書かれていました。論理思考の厳密さでいうと、もしかしたらチンパンジーの方が上なのかもしれなくて、ヒトの方が誤りが多いのではないかということ。
 例えばヒトの場合、「これはバナナ」と教えてから、いくつかのフルーツの中から「バナナをとって」と言うとバナナをとることができます。しかしチンパンジーはそれができません。ではどちらが正しいかというと、実はチンパンジーだったりします。なぜなら、黄色い棒状のフルーツがバナナだということはわかっても、色々あるフルーツの中の黄色い棒状のフルーツだけがバナナとは限らないからです。赤い丸いフルーツもバナナかもしれないということです。しかしヒトの場合は、これがバナナというA→Xという学習をすると、X→Aという推論も本能的にするということです。結果的に、赤い丸いフルーツがあっても迷わず黄色い棒状のフルーツを取ることができます。
 ヒトは推論をします。だから間違いも犯します。でも、その間違いは可能性でもあり、既存の枠を超えて飛び出すことにもつながる。その飛び出しの結果、失敗をしてしまうことも多々ありますが、その失敗や間違いを補正して妥当な解に近づいていく。ヒトの思考の本質は推論にあるのかもしれなく、その推論とは絶えず失敗や間違いのリスクとセットであるということはあまり知られていないけど大切な示唆であるような気がしました。

2024年12月22日(日/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アレント
 歴史的な事実がわかっていないと読み進めづらいなと思いつつ、アイヒマンに何らかの強烈な思想や意図はないのだろうなと思える記述でした。裁判で本人が話すのは、自分の功績めいたことやそれをキャッチコピーのようにまとめた一言の繰り返し。思想が強い悪であればいいということではないけど、何も考えていなさそうな悪に蹂躙されたというのもやりきれないのだろうと思いました。ただ、悪とは、企図する者はほんの一部で、加担する大勢はそういうものなのかもしれません。

2024年12月17日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『モラトリアム人間の時代』小此木啓吾
 モラトリアム人間とは、立場を示さない、当事者意識のないお客様気質の人間のことと定義されています。中立とも違います。中立とは中立という立場を示しているからです。その場その場で言動を変える日和見的なところがあり、責任が発生しないような振る舞いをする人間のことをいうのだと思います。
 さて、これは良いのでしょうか、悪いのでしょうか。僕個人の意見としては、何事も参加した方が(大変だけど)楽しいし充足感も得られるから、モラトリアム人間的でない方がいいとは思います。しかし、「そうですか、でも自分はこれでいいんです」と言われたら返す言葉が見当たりません。
 人間の本質や普遍性とはどこにあるのだろうかと思うことがあります。例えば、労働をしていないと後ろめたい気持ちが起こるとします。しかし、それは周りがみんな労働しているからかもしれません。労働をしない人が一定数を超えたら労働をしていないことに後ろめたさを感じなくなるかもしれません。当事者意識があった方が充実感があるし、そうでなければ退屈だからどこかで責任をもって生きていくことになるだろう、という結論は早計なのだろうと思ったりします。これは、沼です。

2024年12月11日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『モラトリアム人間の時代』小此木啓吾
 モラトリアムの意味とその変遷みたいなことが書かれているところを読みました。
 モラトリアムは一般的に「猶予」というような意味があるらしく、人間に当てはめると、社会に出るための猶予期間ということのようです。元々は、医者や弁護士など、仕事に就くために事前の十分な勉強が必要な人に対して与えられる社会人になるまでの猶予期間という意味合いが強かったということです。
 それが、時代とともに変わってきました。工業化が進むにつれて、医者や弁護士と同じように大学で勉強してから社会に出る必要がある人が増えてきて、モラトリアムを与えられるべき人が増えてきました。つまり、より一般的になったということです。
 さらには、昔は師弟関係のように、基本的には年上の人から知識や技術を学ぶことが一般的でしたが、新しい知識や技術は年上の人から学ぶことができません。そうなると、いくぶん吸収力のある若者が重宝され、モラトリアムの地位が向上していきます。昔のモラトリアムは、その期間にいるのは一人前になる前の半人前の期間であり、認められないばかりでなく恋愛なども自由にできなかった。だから早く抜け出して一人前になりたい期間だったそうです。それが、モラトリアムの必要性のなかでその地位が向上し、なかにはそこに安住して抜け出そうとしない人も増えてきたとのことです。もう少し付け加えると、モラトリアム人間とは、単に社会に出ない・仕事に就かない人を言うのではなく、立場を示さない人・決めない人・(提供を一方的に受けその都度態度を変える)お客様気質の人を言うとのことです。これは定義の問題ではありますが、そのように記されています。

 別の方が読んでいた本の話の流れで、責任の話にもなりました。何をやらかしても「それはあなたの責任じゃないのよ」と言われるような、責任が個人に帰属しない世界に生きるのはどうなのだろうということです。僕は前に少し想像してみて、それはさすがにハリがなさすぎて嫌だなと思いました。責任は押し付けられると嫌なのですが、自らもつのはそこまで嫌なだけではないような気がしています。モラトリアムという期間も必要だと僕は思いますし、それは働きながらでもこころの何割かはモラトリアムであるというのもいいなと思っています。でも、責任はもてていた方が尊厳や充足という意味でいいのではないかと思っています。

2024年12月8日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

まるやまさん『やる気とか元気がでるポスター』
サルトルの嘔吐、もっと内容がしりたくなった。

yuさん『箱男』阿部公房
今日読んだところは「Dの場合」:少年Dは強さに憧れていた:ある日ふとおもいついて一種のアングルスコープを作ってみることにした。アングルスコープが何かわたしにはよく理解できなかったのですがそのまま読み進め、隣家の便所を家人の目を盗んで覗く計画を立てて実行に移すところを読みました。覗く行為は箱男だなと思いました。他の参加者が読んでいた「嘔吐」で突然わけもなくおそってくる恐怖ってなんなんだろうと考えました。

2024年12月7日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『箱男』阿部公房
段ボール箱に入ってのぞきあなから町をみる。突飛だなとはじめは思っていました。読み進めるうちに自然と主人公が箱男の沼?にはまっていきました。今日よんだところは箱男となった自身の死体の捨て場処は、以前二人で打合せた、例のしょうゆ工場裏をすすめたいという箇所。どゆこと?となっています。それから安楽死に対する見解・・・・。きままな時間でモラトリアムについての各人の捉え方を話しましたが猶予というより異形?と感じました。種明かしがこれからのようです。

よしださん『モラトリアム人間の時代』小此木啓吾
 今日から読み始めました。読書会の前の30分の「最近気になっているテーマや本など」で、「モラトリアム」に抱く印象などを聞いてアップを済ませてからの(?)読書でした。
 序盤からモラトリアムの説明がされていて、印象的で分かりやすかったのは無党派の話です。無党派とは立場を明らかにしないこととこの本では書かれていました。何らかのテーマに関して立場を明らかにせずに、受け身的なお客さま気質で、当事者意識がない、そんな人間をモラトリアム人間と呼ぶそうです。
 それがいいか悪いかは議論を深める必要があると思いますが、一つ良くないと言えることとしては、ナチス時代の社会が全体主義であり、その結果があのような非人道的な活動への加担につながっていたのではないかということです。当事者意識がない集団がなんとなく流されてある活動に従事していく、リーダーが悪であれば悪になりうるということです。
 世の中には問題が多いので当事者意識をもてることには限りがあると思いますが、モラトリアムなだけではいけないなと思いました。ただ、モラトリアムは色々な使われ方をしていて、社会に出る前のあるいは社会に出てから一度立ち止まる・ペースを落とす期間としてのモラトリアムというのもあると思います。これは、多様性とか人生100年の時代には必要な時間であるような気もしていますが、混同せずに整理してみることで、モラトリアムの意味や問題性も分かっていくような気がしました。何気なく世の中にある言葉だけど深いなと思いました。

2024年12月1日(日/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

かめさん『ミセス・ハリス、モスクワに行く』ポール・ギャリコ著
 シリーズ四作目、最終話。そろそろ終わりという所から会で読み、読了。
 1970年代のオイル・ショックの話で日本についても出てきますが、この件が事件?を解決する鍵になっています。
 奇想天外にも思える筋運び、どんな立場の人とも通じ合ってしまう掃除婦のミセス・ハリス。今回は鉄のカーテンの向こうで、体制に引き裂かれた恋人たちを結びつけられるのか。大丈夫だろうと思いつつ、いやさすがに無理かもと読み進めていました。
 大人のお伽話のようなこのシリーズ、なぜ作者が主人公をこのような人物に書いたのか考えていたのですが、参加者の方から、実際にあった社会的な事柄を取り入れている事が面白いと言われ、執筆時の社会の中で作者が言いたいことが、現在の私たちが感じる以上にあったのではないかと思いました。時代背景を調べ直そうかと考えています。
 初めての参加でしたが、自分では読まない分野のお話が聴けて、楽しかったです。(小松左京が書店からなくなっている、というお話はショックでした)

Takashiさん『内田百閒』内田百閒(ちくま日本文学)
内田百閒は夏目漱石の門下生だった小説家で、本書は短編集です。

今日読んだのは「件』(くだん)です。件(くだん)という伝説の化け物になってしまった男の戸惑いを、どたばた喜劇のように書いた面白い短編でした。

私は件(くだん)の伝説を小松左京の『くだんのはは』で知りましたが、それよりも前に内田百閒が書いていることを今日まで知りませんでした。

2024年11月29日(金/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『別れを告げない』ハン・ガン
作家のキョンハは2014年の夏、虐殺に関する本をだしてから悪夢をみるようになる。一人っ子のインソンは、認知症の母親の介護をして看取った。20年来の付き合いの二人。疎遠になりかけていたところに、インソンがキョンハに身分証明書を持ってすぐきてくれる?とメッセージがはいったところを読みました。韓国の病院では看護師は医療以外の任務を担わないそうです。

2024年11月27日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『矛盾と創造』小坂井敏晶著
 これの前に読もうと思っていた同じ著者の『答えのない世界を生きる』にはこのようなことが書かれています。「ナチスも、正しい世界を作ろうとした。その構想を誤ったのではない。普遍的真理や正しい生き方がどこかに存在するという信念自体が危険なのだ。」(意訳)
 世界は正しい方向に進んでいると考える、そうするとある時そうとは思っていなかった人たちからの逆襲にあう。これは言い換えると、ある人たちは倫理的だと思っていたことが、他のある人たちからすると非倫理的であることだったとも言えるのかもしれない。『自由論』を書いたジョン・スチュアート・ミルは、未開人は自分たちが教育しなければならない、みたいなことを書いていた。
 最近は正しさを非倫理的なものにしないためにはどうすればいいのかということを考えることがある。

2024年11月24日(日/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

Takashiさん『内田百閒』内田百閒(ちくま日本文学)
 私は内田百閒を初めて読みました。本書は短編・随筆集で、今日は夢の話みたいなものを幾つか読みました。これは何の比喩だとか、筆者は何を言いたいのかとか、難しいことはきっと他の人がやってくれていると思うので、私はそういうことは考えずに文章をゆっくり読みました。ひとつ引用します。

「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。」(『冥途』より)

 土手が夜の中を走っているように見えるのか~、なるほど~、みたいな感じが面白かったです。

2024年11月24日(日/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

Takashiさん『内田百閒』内田百閒(ちくま日本文学)
 私は内田百閒を初めて読みました。本書は短編・随筆集で、今日は夢の話みたいなものを幾つか読みました。これは何の比喩だとか、筆者は何を言いたいのかとか、難しいことはきっと他の人がやってくれていると思うので、私はそういうことは考えずに文章をゆっくり読みました。ひとつ引用します。

「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。」(『冥途』より)

 土手が夜の中を走っているように見えるのか~、なるほど~、みたいな感じが面白かったです。

2024年11月23日(土/午前):読書のもやもやについて話す時間

 今回のテーマは「本によって学び考えることと、身体的体験によって学び考えることの違いは何か」でした。

よしださん
 僕が出したテーマでいろいろと考える時間になってありがたかったです。
 身体性とは難しい概念です。その難しいというのは言葉で表現できにくいとも言えるのかもしれません。400mを全力で走ると疲れます。しかし、それは言葉で言うと「疲れる」ですが、そこには収まらない疲れがあります。苦しい、吐きそうとか、そんな感じですが、しかしながら実際に体験しないと分からないだろうと思ったりします。
 先日友人と話していて、nature positiveという言葉が出てきました。今の気候変動問題と関連して、これからはnature positiveとあることが重要だろうということです。nature positiveとは初めて聞いたので真意は分かりませんが、それと身体性を結びつけてこんなことを考えました。
 nature positiveの一つのあり方は、気候変動で産業も日々の暮らしも影響を受けるから自然の偉大さを自覚して共存していこうとする、人間の利を考えてのものです。これを仮に功利主義的nature positveと呼んでおきます(あくまでも僕による区分けです)。一方で、日々虫や植物なんかと戯れていて、そこに美しさやかわいらしさを感じることもnature positiveであると言えると思います。こちらは審美主義的nature positveと呼んでおきます。自然が人間に利があるからとか関係なく、自然やそこに生きる生物の存在自体を大切だと感じるこころのあり様です。
 どちらのnature positiveも、自然と共生しよう、自然や地球を大事にしようという結論は同じだと思います。しかしその動機は明らかに違います。そして、なんとなく、功利主義的nature positiveは本で学び考えることによって、審美主義的nature positiveは身体的に学び考えることによって得られる主義・価値観なのではないかと思っています。草木を分けいり、ミツバチが花に入り込んで蜜を採集しているところを見る。それを見てかわいいと思う。これは図鑑でもその感覚を抱くのは難しく、やっぱりミツバチと同じ環境に身をおいて、刺されないように慎重に近づいてじっと観察するからこそ得られることではないかと思っています。
 何が言いたいかというと、本から得られることと身体的に得られることとはやっぱり違っていて、そこから生まれる価値観やものの見方も違うのではないかということです。双方は補完し合うという意見も出て確かにそうだと思います。ただ、補完はし合うのだけど、違う。身体的にしか得られないものはあるし、本からしか得られないものもある。そんなことの正体を追ってみたいなと話していて改めて思いました。

2024年11月20日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『地下室の手記』ドストエフスキー
おとこが食事会の集合時間の変更をたぶん故意にをしらされていなくて仲間にもはいれなくてきまずいけど負け惜しみを心の中で言っていて。お金もなくて。集団で歓迎されなさ過ぎて男の立場になってしまい、いたたまれなくなりました。

2024年11月13日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『現象学入門』竹田青嗣
 〈私〉は何かを判断するときに何らかの確信をもとに判断しているのだと思います。例えば、①殴られると痛い②痛いのは嫌だ③嫌なことはやってはいけない④だから殴ることはやってはいけない、というような思考のもと④の判断をしたりしています。思考といっても、これはもはや常識として捉えられていて意識的に思考することもないはずですが、根拠を尋ねられると①〜④のように説明することができます。そしてその時、①〜③は確信です。人によって違うとか、もしかするとみたいな可能性の話とかそういう次元のものではなく、確信です。その確信は、自分だけでなく誰もが確信として共有しているものであり、異論の余地がないものとして捉えています。つまり、主観ではなく客観であるということです。
 しかし、それぞれに反論をすることはできます。①の反論:殴られても痛くない、②の反論:痛いのは嫌ではない、③の反論:嫌なことをやってはいけないわけではない、などということです。①なんかは、格闘漫画でたまに出てきますよね。痛いというのは脳がそう認識しているからでその認識を書き換えれば痛いものが痛くなくなるのだ!なんていう血管が浮き出たキャラも出てきます。あるいは、②の反論も単なる強がりではなく、本当にそう思っている人もいるかもしれません。痛いというものではなくても、ハードなトレーニングをすることで自己を保てるみたいな人もいると思います。僕もスポーツをやっていたときは、そんな心持ちであったような…。
 つまり、誰もがそう確信している客観的真実だと思っていることがあって、それをもとに生きているわけですが、それはやっぱり主観性を拭えないということです。いくらでも反論できますし、①〜③の反論を実践する人がいないことを証明することは困難です。だけれども、〈私〉はその主観的客観を確信としてもって生きています。では、なぜそれを確信としてもっていられるのか、確信とはどのようにして生まれるものなのか、そんなことが現象学のテーマなのだと思います、たぶん。客観なんてない、と言って結論とするのではなく、なぜ客観というものをもてるのか、主観のなかに生きている個々の人間がなぜ確信として何かを共有し連帯できるのか、みたいなことへの答えなのかもしれません。迷走しながら読んでいるのでまだわかりませんが…。

2024年11月10日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『地下室の手記』ドストエフスキー
地下室の手記の読んだところを説明していると、ライムギのホールデンみたいだという感想をいただきました。みんなにすかれたいとおもっている。うそとかきらい。がんばってね。とかいわれるといらつく。自分の顔が阿呆ずらにみえてくるところは太宰治の「人間失格」を連想しました。じめじめしたぼた雪のような話です。

2024年11月5日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『現象学入門』竹田青嗣
 まだ序盤です。印象に残ったのは認識コンピューターの話でした。
 人は、外にある対象物を見たり聞いたり触ったりして「こんなものがある」ということを認識します。しかし、その際にダイレクトに対象物を認識しているというよりも、認識までの過程でさまざまな処理がされています。例えば、氷を触って冷たいと思う。この時に起きているのは、指で触って指の皮膚になるセンサーのようなものが情報を受けとって信号として神経に伝えて、その後もおそらくいくつかの神経を経由しながら脳に到達する。脳はその信号を受け取り、何らかの既にある基準に則って知覚する。そしてその知覚に「冷たい」という言葉が適切だと判断しその言葉を当てはめる。
 この過程は僕の想像ではありますが、そのようないくつもの処理があって認識をするのが人だとしたときに、その処理過程はコンピューターにおけるプログラムだと置き換えることができます。そして、ではその認識は正しいのかという判断は、その処理=プログラムが正しいのかどうかということを検証できて初めて判断できます。
 しかし、常にその既にあるプログラムを通してしか認識できない人においては、そのプログラムそのものが正しいかどうかを判断する術はないということです。人はものを正しくみることができるのか、主観を超えて客観で捉えることができるのかは、哲学の世界では大きなテーマであるということでした。現象学でもこのテーマにアプローチしているとのことで、どのようなアプローチと答えを出すのかこれから楽しみです。

2024年11月3日(土/午後):〈リベルの文化祭〉「労働」をテーマに話し合う会

よしださん
 労働という多くの人がどこかで関わる概念(?)について話しました。賃金が発生する労働とそうでない労働がある、生活の糧と割り切って労働はするけど他にやりたいことがある、そんないろいろな話が飛び交いました。
 言葉としては1つなのだけど、それぞれの人が思っていることは違う。これがリアルなのであって、現実というのは本当は多様で複雑であってこれこそリアル、という感じの時間であったのだと今振り返ると思います。

2024年11月3日(土/午後):〈リベルの文化祭〉秋といえば、保存食についてシェアする会

よしださん
 梅干しを漬けている人が思ったより多いかも?と驚きました。もちろん、このような会に参加される方だからというのもあると思いますが、そういえば私の実家でも漬けている…。
 干し柿は甘い柿だと水分が多くて干される前に腐るから渋柿しかできないはず、などというのは初耳の知識でした。そういえば、干すことで渋みも取れるはずで(正確には皮を剥くということが重要なようですが)、渋柿の最適な食べ方として保存食・干し柿のあるのだと受け継がれる知恵の偉大さを感じました。
 いずれにしても、今年も柚子胡椒をはじめ、なにか保存食を作っていきたいなと思いました。いろいろな調理法を試行錯誤の上(そして数々の犠牲も…)確立してきた先人たちに感謝です。たしかに、ふなずしを最初に食べた人はどんな感想をもったのだろうか。

2024年11月3日(土/午前):〈リベルの文化祭〉ドストエフスキーとその作品の魅力

yuさん
マルメラードフの「自分は神に許されないと思っているからこそ神にゆるされる」は親鸞聖人の「悪人正機説」に通じるものがあるなと感じました。マゾッケがないと読めないのではという意見が面白かったです。少年イリューシャの飼い犬の名前はなんだったか昨日から考えていました。「貧しき人々」「地下室の手記」「悪霊」・・ドストエフスキーを読むきっかけになりそうです。

jscripterさん
ドストエフスキーはずーっと気になっているが、なかなか読めない作家です。問題意識をどう持つかに掛かっているのですが、今回の読書会に参加させていただいたおかげで、少し見えてきました。「悪霊」をまず読んでみると同時に、ニーチェの書簡集にドストエフスキーが出てくるそうなので、そちらも当たってみようと思います。

よしださん
 僕はドストエフスキーの作品を読んだことがありませんが、おもしろくみなさんのお話を伺っていました。印象的だったのは、やはり(?)「なぜドストエフスキーを読むのか?」→「頭がおかしくなりたいから」という意見でしょうか。話が長くて、それぞれの登場人物のなかに矛盾があって、所作もおかしかったりするから頭がおかしくなる?ようです。その矛盾と複雑さに徐々にシンクロしていくということでしょうか。僕も科学書なり哲学書なりで常識を覆されたときに呆然としながらも楽しいと思ってしまう、その感覚に似ているのでしょうか。『悪霊』か『罪と罰』あたりを読んでみたいと思いました。

2024年11月1日(金/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

野中さん『男性危機』
伊藤さんによるジェンダー平等政策の解説が非常に秀逸だった。

yuさん『カラマーゾフの兄弟3』 ドストエフスキー
三部ゾシマ長老が死に人々が詰めかけて奇跡を待ち受けているところにありえないことが。聖人からは腐臭がしないはずが・・・。町中の人が注目している、人々は退屈していたのかなと感じました。

2024年10月30日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

むしこさん『実践日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』
本の感想では無いのですが、「推し活」とは何なのか、いろいろな観点から語り合ったのがとても面白かったです。この本を読まれた方の着眼点も大変面白くて、もっといろいろ伺ってみたかったです。

よしださん『想像力 生きる力の源をさぐる』内田伸子著
 今日が読み始めですが、印象に残ったのは以下の部分です(P7)。

「五官を働かせて得た「直接体験」から抽象化された「経験」へと昇華する過程で、レジリエンス(ストレスを回復する精神的回復力)が高まってゆきます。」

正直、この記述に実感をもてるような体験は僕のなかに見出せませんでした。この本の冒頭はフランクルの『夜と霧』の紹介から始まります。『夜と霧』では、ナチスによる強制収容から生き延びたフランクルが、どのような人が生き残りどのような人が亡くなっていったのか記しています。そこには、精神面が生死を分かつ確かな記述がありました。読んでから時間が経っているので記憶もあやふやですが、外的な(絶望的な)世界に翻弄されるばかりでは生きられず、内的な世界を生きる時間をもち続けられた人が生き残ったような記述があった気がします。その内的な世界を形成するのが「経験」であるということなのでしょうか、あるいは形成した内的な世界自体が「経験」であるということでしょうか。想像力を生きる力と結びつけて考えたことがなかったので、興味深く読み進めていきたいと思います。

2024年10月22日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント
 僕の理解不足かもしれませんが、シオニストの人たちはナチスよりもイギリスを敵とみなしていた時期もあったと書かれていました。シオニストとはパレスチナにユダヤ人国家を再建しようとする人たち。当時パレスチナはイギリスにより支配されていたのか、シオニストの活動を阻む存在として忌避されていた。ナチスは、ドイツやオーストリアからユダヤ人を追い出そうとしているけど、この時点では殺戮までは至っていないから、どちらかというと悲願を阻むイギリスの方が敵であるということなのかなと理解しました。歴史は単純ではないなと感じました。

2024年10月19日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『縄文時代の歴史』山田康弘著
 定期的に読みたくなる縄文時代。今回も初めから読み返してみて、冒頭の縄文時代の概要を書いているところを読みました。
 食料は燻製加工したり貯蔵庫を設けたりして保存する。建物は竪穴を掘って寒さと暑さを和らげる工夫をするなど、用途に応じた工夫がされた建築物を建てて生活をする。集落間のネットワークがあり、物や情報のやりとりをしている。集落間の関係をより堅いものにするために結婚制度を設けて嫁や婿をどちらかの集落に住まわせる。
 これらは、縄文時代に確立されていた慣習なのですが、さて今とどこに違いがあるのかというと、、と思って考えていました。
 便利さや快適さを追求しようとする方向性は時代や文化を違えてもあまり変わらないのかもしれません。結婚をして関係を堅くするというのも、血縁のもつつながりの力を示していて、近現代とあまり変わりません。時代を超えた歴史を知ると、同じところと違うところが見えてきてやっぱりおもしろいなと思いました。

2024年10月8日(火/午前):読みたい本を気ままに読む読書会

よしださん『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント
 アイヒマンは整合性のないことを言います。さっきまで自分は絶対に宣誓をしないと言っていたのに、いきなり宣誓すると言い出したりする。それの矛盾に気づいていない。本の中の表現を借りれば、紋切り型の発言に終始している。紋切り型だから、状況や周りの反応やさっき話した自分の話に対して調節が効いていない。自分と、外の世界とのあいだのコミュニケーションが成立していないように思いました。
 アイヒマンはナチスにおけるユダヤ人の国外移住へ加担していました。移住といえば聞こえはいいですが、国内からの追放であり、ユダヤ人は自身の国内の全財産を放棄することになった上に必要な外貨も法外な為替レートで押し付けられたのだとか。アイヒマンは、自分の子供に自分はユダヤ人が殺されるのを国外移住させることで防いだのだと武勇伝のように語っていたのだとか。そしておそらく子供もそれを信じていた。閉じた世界の自分に都合の良い完結した物語ができていたということなのでしょうか。

2024年10月6日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん「ロシア文学の教室」文学界2023年6月号 奈倉 有里 (著)
第6講 布団から出たくないイワン・ゴンチャロフ『オブローモフ』紹介の回を読みました。
大学2年生のロシア文学の授業形式で書かれた小説です。
この授業では、あなたという読者を主体とし、ロシア文学を素材として体験することによって、社会とは、愛とは何かを考えます」山を思わせる初老の教授が、学生たちをいっぷう変わった「体験型」の授業へといざなう。オブローモフは上中下とあり、上巻では主人公は布団のなかからなかなかでてこない話のようです。だんだん主人公のような行動をしてみたいと作中の人物の気分がうつろっていました。なにが大事なことなのかと考えさせられるような本かなと思いました。

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