「考え方はいろいろだよね」と言ってしまうことは、相手との間に線を引くような行為にも思えます。同じことを求めないようなその言いぶりは、協調を重んじない、一匹狼な姿勢を感じさせなくもありません。
しかし色々であることは、おもしろいことであるはずです。海外のスーパーマーケットで日本とは違う色の卵の数々を見たときのように、色々あることは興味を抱かせ、なぜ・どういう・どうやったら、といった好奇心を掻き立てます。そうした好奇心の先には、それまでの自分の経験とミックスされた、新たなアイディアや活動が生まれるかもしれません。
ただ、文化的な影響なのか、やはり違うことは関係性の希薄化へとつながっていくイメージも抱かせてしまいます。違うことを認めながらもつながっていくとは、いったいどういうことなのでしょうか。今回は、アドラー心理学を用いて青年の悩みを対話的に解決に導いていく『嫌われる勇気』[1]を参考に考えてみました。
分離
アドラー心理学・『嫌われる勇気』では、対人関係の悩みに向き合うにあたって「課題の分離」を一つのポイントとします。この分離するという考え方が、違いや色々を受け入れていくというこのコンテンツのテーマと似ていると感じました。まずは「課題の分離」の紹介から始めてみたいと思います。
『嫌われる勇気』では、他者の期待を満たそうとする「承認の欲求」をもつことを否定します。親の期待通りに進路を歩めなかったり、上司が思う通りに仕事を進められなかったりすることで悩むことは、承認の欲求を抱くことが要因としてあると考え、それを否定するのです。他者の考えを知ることは重要と考えますが、それをそのまま自分のものとして自分の考えや行動に反映させることは否定します。それでは他人の人生を歩んでいることになると指摘するのです。
他者の期待に自分自身が侵されないために「課題の分離」という考え方が用いられます。課題の分離とは、他者の自分に対する言動が、自分の問題なのか、他者の問題なのかを考え、識別してから自分の中に受け入れていくということです。たとえば、将来は良い大学へ進学することを親から期待されていたとします。子供としては、期待通りに良い成績を取れればうれしいのですが、かんばしくなければ期待を裏切っていることになります。つまり、親の期待が子供の感情の浮き沈みに大きく影響していくことになるのです。
アドラー心理学においてここで考えるべきとされることは、どのような大学へ進学するのかは、そもそも誰の問題であるのかということです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」[1,kindle1752]という視点で考えると、それは子供の問題であると言えるでしょう。なぜなら、いい大学へ進学できないことが仮に人生に影響を与えるのだとしたら、その影響を受けるのは子供自身ということになるからです。
このような視点から誰の課題であるのかを識別していくことを課題の分離といいます。課題の分離をすることで、他者が進言してくることを、真に自分ごととすべきことかどうかを判断し選択することができるようになります。それは、ひとつの自由を得ることを意味します。
さて、課題の分離とは、分かりやすくはあるのですが、すこしドライすぎるような気もします。なにか期待をかけられたときに、「それはあなたの問題であって私の問題ではありません」という姿勢でいたときに、人同士の関係は持続することができるのでしょうか。そもそも人と人とが関係をもって生きていくこと自体を否定しているようにも感じられなくもありません
このような疑念は、冒頭で取り上げた「考え方はいろいろだよね」に暗に感じられる、関係が希薄になっていくのではないかという不安に共通するものを感じます。課題の分離を勧めるアドラー心理学では、人同士の関係についてどのように考えているのでしょうか。
関心の矢印を他者へ
アドラー心理学では、人が関係を深めていくことを決して否定していません。人が幸せに生きるためには、「共同体感覚」をもち、その共同体へ所属感を感じられることが重要であると考えます[1,kindle2228]。つまり、課題の分離は人同士の関係性を希薄化させることにはつながらないと考えているのです。では、課題の分離をしながらもつながりを維持していくための考え方とは、どのようなものなのでしょうか。
それは、自己への執着から他者への関心へ切り替えていくことが重要であるとする考え方です[1,kindle2273]。
アドラー心理学あるいは『嫌われる勇気』は手厳しいところがあるのですが、親が子供に大学進学を勧めることも、子供がその期待にこたえようとすることも、自己への執着が基になっているといいます。
親は、子供に良い大学にいってもらわなければ困る事情があるから、子供に手厳しく言う部分もあるのかもしれません。つまり本当に相手のためを思って言っているというよりは、自分に困ることがあるから他者である子供の課題に介入しようとする場合があるのだというのです。
子供も、親の期待にこたえられなければ自分が寂しくなってしまうからストレスを感じてまでも頑張ろうとすることが少なくないのかもしれません。親の期待や考えを尊重しているのではなく、自分を守ろうとするような行為なのではないかということです。
アドラー心理学では、他者の課題へ介入することも、期待にこたえようとする承認の欲求も、自己への執着への結果であるとして否定的にみます。他者の課題へ介入することは他者を縛り付けることにつながり、期待にこたえようとしすぎることは他人の人生を生きることになり生きづらさを生み出すからです。
自己への執着は関心の矢印が自分へ向いている状態であると言えます。一見他者をみているようで、実は自分をみているのです。アドラー心理学では、一人一人が自由を手に入れ幸せになっていくために、関心の矢印を他者へ向けていくことを大切であると考えているようでした。それによって他者からの介入を受けず、選択の自由を手にすることができます。また、関心を他者へ向け、さらには他者への貢献を積極的に行っていくことで、共同体への所属感を抱くことができます。ただし、貢献を行う場合でも他者の課題へ介入するように期待をかけたり行為を施したりすることは行うべきではありません。選択をするのは課題の当事者であるという前提のもと、情報や人を紹介したり話を聴いたりする程度が、適切な他者への関心の向け方であるのだと思われます。あくまでも課題の分離を前提に、他者へ関心を向け貢献をしていくのです。
課題の分離は、期待にこたえられない・期待にこたえてもらえないという対人関係の問題を解決してくれるかもしれません。しかしそれだけを実践しては、人は孤立してしまい、協力して大きな困難を乗り越えたり、幸福感を感じたりすることができなくなりそうます。そこでアドラー心理学は、課題の分離をして自己への執着を拭いさると共に、関心を他者へ向けることを同時に重要だと説きます。
さらには、課題を分離することで他者との適切な距離がとれて、はじめて他者のことを適切に分かろうとすることができるとも考えているようです。一心同体であるかのように近くに居すぎては相手のことが逆によくみえません。課題の当事者は誰であるのかと冷静に識別する課題の分離は、他者を尊重することができる考え方である捉えることができます。
違うつながり
考え方は色々であるとすることは、課題の分離をした場合と同様に、他者をよくみるきっかけになりそうです。同じではなく違うことを認めることで、より他者を知ろうとする関心が湧くのではないでしょうか。その関心の外矢印が人と人とをつなげるひとつの役割を果たしそうではあります。
しかしアドラー心理学がいうような他者貢献の矢印まで自然と生じるものなのかは疑問が残りました。たしかに他者貢献の意欲をそれぞれの人がもてば、互いに助け合える強いつながりが築かれていきそうです。ここらへんはアドラーのいう「共同体感覚」や、人の利他性などへの理解を深めることが必要であるように感じられました。
関心の矢印だけで日々の生活をともにできるようなつながりとなりうるのか。それよりも強いつながりと感じられる他者貢献は、どのようにして生まれるものなのか。人が生来もつものなのか、あるいは社会的になにかを整えていかなければいけないのか。互いに違うと認めながらも生活や遊びをともにできるような友人関係が続くようなつながりには、何が紐帯として作用するのか、守らなければいけない大事な前提はあるのか、あるとすればそれは何なのか。
いろいろな生き方ができて、考えや価値観が互いに違っていきそうな今だからこそ、さらに理解を深めていきたいと改めて思いました。違うことを安心しておもしろがれるようになるのではないかと思っています。
〈参考図書〉
1.岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)
〈「色々とつながりと」他のコンテンツ〉
(吉田)
(カバー画像出典元)