2019.10.19

日本の企業文化と人間の心。 〜雇用慣行を例に、変わらない理由を考える〜

(文量:新書の約15ページ分、約7500字)

 会社では、合理性を追求すべきはずなのに、合理的ではない論理が入り交じることがあります。そんなジレンマやストレスを、組織に対して感じることは少なくないのではないでしょうか。
 他方で、人生における会社での時間を、そこで形成する人間関係を、合理的な意思決定だけでさばいていくことに、抵抗を感じることもあるのではないでしょうか。
 そのような会社生活のウェットさは、アメリカなどに比べて、日本企業の方が高いと言われています。そのウェットさを表すものの一部が、日本企業に残存する雇用慣行である、「終身雇用」と「年功序列」なのではないでしょうか。
 今回は、このような雇用慣行がなぜ残存するのか、会社内でなぜ合理に徹しきれないのかを、人間の心の視点から考えてみたいと思います。人間の心の視点から考えるのは、企業人であるとはいっても、それ以前に私たちは人間であり、企業文化にはその人間の心が影響していると考えられるためです。
 まず終身雇用と年功序列がどのような背景から生まれたのかについて触れ、次に人間の心の特性について紹介します。人間の心の特性は、人類の進化の過程で築かれてきたため、進化の歴史を振り返りながら人間の心に対する理解を深めていきたいと思います。そしてその上で、なぜ日本企業の雇用慣行は変わらないのか、変わるためには何が必要なのかについて考えていきたいと思います。

終身雇用と年功序列が生まれた背景

 終身雇用と年功序列は、明治維新以降の「殖産興業・富国強兵」というスローガンのもとに生まれた、工業社会化の流れにその起源があります。
 日本では、1901年の八幡製鉄所の設立を契機に、本格的に工業化、近代化が進みました。そしてそれら企業の制度として、技術や技能の定着を目的として、熟練者を育成するため年功賃金、終身雇用が誕生したのです[1]。
 当時は、急激な工業化に伴い、熟練した技術をもつ熟練工が不足していました。そのため、労働市場における熟練工の稀少性は高まり、他企業はより高い条件を提示して引き抜きをすることがありました。終身雇用も年功序列もない当時は、より高い条件を提示されれば断る理由もなく、働き手はすぐに他社に移る傾向がありました。現代的な言い方をすると、雇用の流動性が高かったと言えます。

 働き手からすると条件の良い職場に移るのは当然のことですが、企業側からすると、それは人手確保の面でマイナスでした。そこで、企業は、終身雇用と年功序列という制度を導入したのです。これによって働き手は、長期の安定的な収入を確保でき、また長くいればいるほど高い収入や待遇を得られることになりました。
 つまり、終身雇用と年功序列は、工業社会に急激に変化・成長する中で、働き手をつなぎ止めるために導入されたのです。

 ただ、これらの制度が企業利益の面で合理的に成り立つには、一つ前提が必要とされると考えられます。その前提とは、企業が必要とするスキルがずっと変わらない、ということです。なぜなら、終身雇用は、その働き手が持つスキルが、ずっと変わらず必要であり続ける、という前提のもとで成立するためです。
 必要なスキルが変われば、それ以前に必要とされていたスキルをもつ働き手を、雇い続ける必要性は薄れていきます。年功序列も、長く居続けることでスキルが熟練していき、その向上し続けるスキルが会社に利益をもたらすために、働いた年数に比例した処遇が妥当になるのだと考えられます。逆に言うと、企業にとって必要なスキルが変わってしまえば、終身雇用や年功序列は、企業利益の面では合理性が低い制度になってしまうと考えられます。

 このように、日本型雇用慣行と言われる終身雇用や年功序列は、企業の存続や安定的成長のための、合理的理由に起源がありました。決して、何らかの精神性によって創造され、導入されたものではないと言えるでしょう。

 そのような合理的な背景であるため、これらの雇用慣行や企業文化は、実はかつてアメリカにも存在していました。
 1956年に、フォーチュン誌の編集者だったウィリアム・H・ホワイトは、『組織の中の人間 ーオーガニゼーション・マン』を刊行し、7ヶ月にわたってベストセラーの上位を占めました。オーガニゼーション・マンとは、大組織のために個人的目標を押し殺して、代わりに企業から、定収入と雇用の安定の提供を受けている働き手とされています。ホワイトは、「オーガニゼーション・マンはアメリカ社会の主流である・・・アメリカの国民性を形成しているのはこの人たちなのである」と著書の中で記しています[2]。つまり、かつては、現代のアメリカの雇用イメージとは異なる、会社から雇用の保証を与えられた働き手が一般的だったのです。
 しかしその後、1980年代に入ると状況は変わり始め、1990年代に入って、その変化は一気に加速しました。雇用を保証してくれていた大企業である、電話会社のAT&Tや写真用品メーカーのコダックなどが、従業員の大量解雇を始めたのです[2]。これは、技術革新により必要とされる産業が変わり、それに伴い企業も働き手を解雇する必要性が出てきたための施策でした。それによって、アメリカでは、オーガニゼーション・マンとは異なる、新たな労働文化へと切り替わっていきました。

 このような産業構造の変化は、日本でも経験されてきているはずです。それにも関わらず、なぜ日本企業には終身雇用や年功序列が、根強く残り続けているのでしょうか。そこには、人間の心の特性が関係していると考えられます。

進化の視点から考える人間の心

(本章の内容は、リベルの『未進化な心の混乱』により詳しく書いています。)

 生物が持つ遺伝的特性は、その生きてきた環境に由来します。生物は子孫を残す過程で、基本的には両親と同等の性質を受け継ぎますが、ごく一部で、突然変異によって別の特性を備えることがあります。生物は、その環境に適した特性を持つものは生き残り、適していない特性の生物は生き残ることが困難です。したがって、その突然変異した特性も、環境に適していればその生物種に残存し、適していなければ、その個体ごと消えていくことになります。
 このような過程を繰り返し、より環境に適した生物種になっていくことを、進化といいます。そして、このように、環境がその生物種の特性を決定するメカニズムを、自然淘汰といいます。自然淘汰とは、自然(生きてきた周囲の環境)が、適していない個体を淘汰するという意味であり、「自然」が主語になります。つまり、生物の特性は、その生きてきた環境によって決定されるのです。
 人類も、その長い進化の歴史の中で、生きてきた環境に適応した特性を備えてきました。私たちの祖先が地球上に誕生したのは、約200万年前と言われており、狩猟採集を生業とした生活をしていました。その後、約1万年前の農耕革命、約250年前の産業革命によって社会環境が大きく変わりましたが、約200万年を過ごした狩猟採集生活に比べると、ごくわずかな期間と言えます。つまり、私たちの遺伝的特性の大部分は、狩猟採集時代に築かれたものである可能性が高いと言えます。

 狩猟採集時代、人類は「集団で協力すること」が生存するためには必要でした。人類が誕生したアフリカの草原では、獰猛な動物も多く、人類は身体的に弱い存在だったからです。このような環境では、脆弱な人類は、集団で協力しなければ生き残ることが困難であり、逆に言うと協力しなかった個体は自然淘汰の対象になったと考えられます。
 生存のため、個体同士の協力を促すために備わっていった遺伝的特性が、「感情」でした。集団での協力を裏切る人に対する強い嫌悪や、集団内での居場所を求める承認の欲求はその一例です。これらの感情はそれぞれ、他者や自分自身の集団に対する裏切りを防止し、集団内で積極的に認められようとする貢献的な行為を促します。
 つまり、これらの感情を備えることで、個体同士の協力が自然と促されたのです。現代を生きる私たちにも、強く思い当たるところがある感情ではないでしょうか。反対に、このような感情を備えなかった個体は、協力行動がうまくとれず、自然淘汰の対象になったと考えられます。

 狩猟採集時代、人類は100人程度の閉じた集団で生活していたと考えられています。100人程度というのは、人類の脳の機能的に、集団内の人間関係や顔を記憶しておける人数であると言われています。
 つまりこの時代、集団内の他の人は皆、自分にとって知っている人だったのです。そして、集団の危機は、個々の生存の危機でもあったため、知っている人は皆、一蓮托生の仲間だったのです。集団でなければ生存することが困難であった狩猟採集時代においては、集団が生き残ることとができなければ、自分が生き残ることも困難になるためです。
 また、集団が100人程度で、集団間の出入りもなく固定的なメンバーであったと考えられているため、知っている人を、その人自身の誠実さで判断することができました。集団内の個々人の行動は、常に集団内で認識され、それが記憶として蓄積されていたためです。現代のような契約や資産規模、肩書きなどではなく、その人自身の日々の行動で判断されたのです。
 これは集団内の裏切り行為の監視につながり、反対に、誠実な行動を続ける人は、集団内で承認を得られました。ここで言う誠実な行動とは、狩猟において獲物の捕獲や、自然災害などの危機において集団の生存に貢献するということなどです。

 ここで紹介したことは、非常に長い狩猟採集の環境で築かれた人間の心の一部ですが、現代の高度に文明化した社会に生きる私たちにも、備わっていると実感できるものではないでしょうか。進化のメカニズムから考えると、このような狩猟採集時代で備わった感情と生きてきた環境の前提が、現代の私たちの心を形成していると考えられます。そして、このような心が満たされるとき、つまり、下記のような環境に身を置き、築かれた感情に反しない状況にあるとき、私たちは幸せを感じられるのです。

〈進化適応環境(一部)〉
・閉じた集団(集団間の出入りがなく、集団の内外の境界が明瞭)
・知っている人は一蓮托生の仲間(裏切りや集団を外れる可能性が極めて低い)
・他者は誠実さで判断(契約や資産の多寡、一時の利害ではない)

〈築かれた感情(一部)〉
・裏切りに対する強い嫌悪
・承認の欲求

雇用慣行が変わらない理由の仮説

 前章で紹介した、狩猟採集時代に築かれた私たちの心は、終身雇用や年功序列といった、現代の雇用環境にとてもフィットしていると言えるのではないでしょうか。
 終身雇用は、一度その会社に入った働き手を、一蓮托生の仲間として認めた証であると捉えられると考えられます。年功序列は、その会社で認められてきていることを意味し、居場所を感じるための承認の欲求が満たされるような制度であると考えられます。終身雇用も同様に、ずっとその会社にいてもいいという、居場所を感じるための承認の欲求が満たされると考えられます。また、年功序列の、長く所属することで役職が上がっていくという考え方は、業績に加えて、その人自身の集団への長い献身が認められているとも捉えられ、その人自身の誠実さが評価されているとも捉えられます。
 つまり、終身雇用や年功序列は、元々は働き手をつなぎとめるための合理的な理由で導入されましたが、それが思いのほか、私たちの心にフィットしていたと言えるのではないでしょうか。閉じた集団の中で生涯を全うした狩猟採集の時代の環境と、これら雇用制度が作り出す会社内の環境が、類似していると考えられるのです。
 それによって、制度は長く続き、逆に言うと変えることが困難になっていると考えられます。変えようとすると、頭では変える合理性が分かっていても、心が強い抵抗を示すからです。

 しかし、他方でアメリカでは1980年代頃を境に、雇用の安定を保証するような制度から脱却していきました。アメリカの人々も、当然のことながら非常に長い狩猟採集の時代を経験しているため、先に紹介した人類の心は共通して有しているはずです。
 では、なぜアメリカは雇用制度の切り替えがスムーズにできたのでしょうか。アメリカでも、人間の心にフィットした雇用制度が変わることには、抵抗があったはずです。

 リベルのブックレット『未進化な心の混乱』に協力していただいた、明治大学・情報コミュニケーション学部の石川幹人まさと先生は、そのような問いに関する秘密は「教会」にあるのではないかという仮説を述べていました。
 教会では、地域の人々や神様と触れ合うことで、心の平安やつながりを感じられます。だから、会社環境が心にストレスを感じやすいものであっても、それを受け入れて仕事を続けることができるということです。
 人間は、狩猟採集の環境のような、お互いをよく理解していて、他者を誠実さで判断し、それによって承認し合えるような環境に身を置くことで幸福を感じます。逆に言うと、そのような幸福感が不足していれば、どこかでそれを満たそうと求めることになります。
 アメリカでは、そのような心の幸せを感じられる環境が、会社の外にあると言えます。教会での時間だけではなく、欧米人は家族との時間を大事にすると言われますが、それは本能的にそのような時間を求めているのかもしれません。つまり、アメリカでは、心の平安やつながりを得る教会などの場と、企業利益を優先しそれによって生活の糧を得る会社という場が、明確に分離されていると考えられます。
 他方で、日本の場合は、教会のような心の平安やつながりを感じられる場に行く習慣に乏しく、また核家族化によって家族の構成メンバーも縮小しています。そのような社会環境では、心の平安やつながりを感じられるような制度や文化が、会社からも奪われることに、相対的に強い抵抗を示すのは必然なのではないでしょうか。
 したがって、日本型と言われる雇用慣行や文化が変えられない原因は、心の平安やつながりを得る場と、企業利益を優先し生活の糧を得る場が混在しているからであり、その原因の原因は、会社の外に心の平安やつながりを得られる場に乏しいからではないか、という仮説が考えられます。言い換えると、心の平安やつながりを得られる場が会社の外にないために、会社にそのような機会を求めてしまうということです。
 ただ、心の視点から考えると「変えられない」ではなく、「変わらない」の方が表現が適切かもしれません。なぜなら、心の幸福度の多寡や、心がどうずれば幸福になるかは、意識的に考え判断することが困難であると思われるためです。その意識しにくいところで感じている違和感や不安が、「変わらずに今のままで」という無意識的な合意形成を促しているのではないでしょうか。

変わるためには何が必要なのか

 終身雇用や年功序列が、人間の心を満たすような制度であった場合、それは変わらずに今のままであった方が良いとも考えられます。
 しかし、現状さまざまなメディアなどで言われているように、働き手の勤続年数が企業の存続年数を上回り、終身雇用という制度が、仕事人生の一生を保証するものとはなり得なくなってきました。また、年功序列は、右肩上がりで会社の規模が拡大し、上位ポストが増え続ける前提において成立する制度です。さらに、先に述べたように、これらの制度は、企業が必要とするスキルが変わらないことが、制度が成立する前提であると考えられます。現代、そして今後はますます、社会の変化のスピードは早くなり、企業が必要とするスキルはどんどん変わっていくのではないでしょうか。

 そのような前提が、制度導入当初から変わっているにも関わらず、その制度を維持しようとすると企業の業績に悪影響を及ぼすと考えられます。そして、雇用の維持や、一定水準以上の処遇を提供することが、困難になっていくと考えられます。これは、働き手の衣食住にも影響を与え、人々の幸せを大きく損なうと言えるでしょう。したがってこれからは、私たちが狩猟採集の時代から集団生活に求めていた心の平安やつながりを、会社に求めることはより適切ではなくなっていくと考えられます。

 では、会社に心の平安やつながりを求める状況から変わるためには、何が必要となるのでしょうか。
 前章で挙げた原因を踏まえると、アメリカの教会の例のような、会社の外に心の平安やつながりを得られる場を持つということが一つのヒントになると考えられます。
 狩猟採集以後の農耕社会でも、家族的な共同体の単位で生業が営まれていました。その後、産業革命により、仕事を求めた都市への人口集中が起こり、共同体が再編されました。それでも、会社が終身雇用や年功序列などの制度をもとに、保証や家族的な付き合いを提供してくれていた時代は、そこに人間としての心の平安やつながりを求められたと考えられます。
 しかしながら、そのような雇用環境や企業文化も時代にそぐわなくなってきた現代は、その会社という共同体からも、人々は脱却することを強いられています。たとえそれが合理的な理由であったとしても、その先に、本当に私たちの幸せがあるのかは疑問です。

 だからこれからは、会社とは別の場所に、仕事や利害関係から離れた関係性を築ける場が必要とされるのだと考えられます。
 最近では、コミュニティという言葉をよく聞くようになりましたが、これは人間の心が本能的に求めているという表れでもあるのではないでしょうか。今回は終身雇用や年功序列といった制度を取り上げましたが、今後も変化の激しい環境で挑戦する企業が変わり続けるためには、人々が会社の外で心の幸せを感じられる場を、積極的に作り出していくことが必要とされるのかもしれません。
 誰が主体になってそのような場を作り出すべきかは、正直ここでは考えきれていません。しかし、個々が意識的にそのような場を持つこと、作り出すことは意義深いことであると考えられます。なぜなら、そのような場で心の幸せを感じられることによって人は、会社という外の場で、ビジョンの実現や利益を求めて、思いきり挑戦することができるのだと考えられるからです。


〈参考文献〉
1.幸田絵里著(2007年)『日本型雇用慣行の変容と再構築の影響』(香川大学 経済政策研究第3号(通巻第3号))
2.ダニエル・ピンク著(2014年)『フリーエージェント社会の到来 新装版』(ダイヤモンド社)
3.リベル(2019年)『未進化な心の混乱 〜現代のコミュニティ生活のあり方を考える〜』

(吉田)

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