2021.07.24

人生は今日も途中、 ー惑うことの意味を考える[後編]

(文量:新書の約14ページ分、約7000字)

 世界は今日も(仮)で進んでいるのかもしれません。

 本を読んで知に触れると、自分の考え方や生き方だったり、今の世の中のあり方だったりに疑問を抱くことがあります。時間効率だけを志向していては自分の時間が残らないとか、都市化の進行が地域コミュニティの崩壊だけではなく過度な消費や格差を助長しているなどと言われれば、自分たちが目指しているものは何なのかと思ってしまいます。本、あるいは知は、人を惑わすことがあるのです。
 しかしながら先週の前編では、惑うことは、歩みを止めたりストレスになったりするだけではないという考えに至りました。「今」を否定するような惑いに入り込んでも、否定して行き着いた先でさらに否定を重ねることで、否定や矛盾を包みこむような新たな考えが生まれることがあるからです。このような惑うことの意味を整理するにあたっては、「弁証法」という、物事の全体像や構造を読み解くのに有効な知を参考にしました。

 ここでひとつ考えてみなければいけないと思ったことがあります。惑うことを私はネガティブな感情で捉えてしまうのですが、それは今が絶対的に正しい完成形であるという前提に立っているからなのではないかという認識についてです。完成形であると思っているから否定する立場になったときに困惑するのであって、はじめから仮の姿にすぎないと思っていれば否定して再構築することに大きな抵抗は感じないはずです。『弁証法はどういう科学か』では、世界のあり方を、「世界はできあがった事物の複合体ではなくて過程の複合体である」[1,kindle3353]と表現していました。世界の人・物・事などは、すべて過程の状態で組み合わさって、今の全体をかたち作っているということです。
 このような前提に立つならば、惑うことは常に生じうるものであり、さらに踏み込んでいうならば惑うことは生きることそのものであるとも言えるのかもしれません。なぜなら、世界が過程の複合体であるならば、過程はどんどんと移り変わっていくので、そのたびに考え方や行動の仕方に見直しをすることは必然だからです。

 弁証法的な世界の捉え方も、そもそも弁証法自体も、まだよくわかっていません。しかし、世界を過程の複合体として見るという物事の見方は、移ろいの速い世の中を生きていく上でとても有用なものに思えます。そこで今回は、弁証法的に世界をみていく足がかりとして、『弁証法はどういう科学か』から感じとれたことと、これまでに惑った経験を交えながら、世界が過程の複合体であるとはどういうことなのか読み解いていきたいと思います。


時代とともに変わるサードプレイスのかたち

 最近は「サードプレイス」という言葉を聞くことも増えてきたように思います。サードプレイスとは、家庭や職場で担っている役割から解放されて自分らしくいられる第三の場所、という意味合いをもった場のことです。家庭では、親であれば親の、子どもであれば子どもの役割が、その家庭にいる親子や祖父母などとの間で暗黙のうちに定められていると思います。あるいは社会的にも、夫・妻・子どもの役割やあり方が、一定程度定められてしまっていることでしょう。職場においてはさらに分かりやすく、所属部署や役職があてがわれて、役割というものが決められています。サードプレイスは、そのような周囲によって定められた役割をもつ必要がない、自分を解放することができる場所とされています。具体的には、日本の場合では赤ちょうちん居酒屋や銭湯などが、海外の場合ではバルや床屋や薬局などが挙げられます。家から歩いていけるほど近く、出入りの敷居は低く、派手なエンタメ性はないけれど人同士の何気ない会話そのものがコンテンツの、人が安らげる場所です。先に挙げた床屋や薬局にはそのようなイメージはないかもしれませんが、国によってはよく人が集う場所なのだそうです。
 サードプレイスの存在は、アメリカの都市社会学者であるレイ・オルデンバーグ(1932年〜)の著作『サードプレイス ーコミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』で知りました。実はその前からカフェチェーン・スターバックスがサードプレイスというコンセプトを標榜しており、その言葉を耳にしていましたが、スタバの言うサードプレイスはオルデンバーグの言うそれとは少し異なります。スタバはどちらかというと一人で訪れるか約束した友人知人と訪れるかだと思います。一方でオルデンバーグの言うサードプレイスは、なんの約束もせずふらりと訪れて、たまたまそこに居た人とのコミュニケーションを楽しむ場なのです。たまたま居た人と話すとは敷居が高いように感じられますが、その場所は地域に根ざした場所であるため、まったく知らない人ばかり居るわけではありません。親しい人も馴染みの薄い人も集まって、家庭や仕事の肩書きなどは忘れて、垣根なくコミュニケーションできる場所なのです。

 サードプレイスの紹介が長くなってしまいましたが、著作の中でオルデンバーグは、サードプレイスの社会的な喪失を嘆いています。このような、過去にたしかにあった場所が失われことを嘆きながらも、しかし今再び人々がそれを求めだしているというところに、世界が過程の複合体であるということが見えてくるのです。

 オルデンバーグは、都市化や車社会化の進行によって、サードプレイスが失われていったと指摘しています。かつては、生まれた場所で教育や仕事、買い物や娯楽などが成立していました。しかし今の日本社会の東京・大阪・名古屋や、あるいは地方の福岡・仙台・札幌などのように、人々が都市部に仕事を求めて移動すれば、地域のコミュニティは崩れていきます。馴染みのある人が近くにいれば近所の飲み屋や床屋や薬局はサードプレイスになりますが、知らない人が集まった都市ではそうはならないのです。
 サードプレイスは、自分らしく過ごせる場所・時間となるので、人に充足感をもたらします。しかしそれが失われたことで、人々はテレビを観るだけでは満たされず、過剰な消費で解消しているとオルデンバーグは指摘していました。消費活動も、近所の商店街で行うのではなく、車で移動してショッピングモールなどで行うため、コミュニティの形成には至りません。自分が居をおく場所に、人との関わり合いを感じられるところが、なくなってしまったのです。

 アメリカ社会をイメージすることはなかなか難しいので日本社会に当てはめて考えてみたいと思います。日本社会でも同様に、生まれた地域から離れて生活することは一般的であり、先に挙げたような都市に人々が集中しています。しかし他方で、コミュニティが人々の移動とともに失われたかというと必ずしもそうではなく、近年まで会社がその役割の一部を担っていたと考えることもできます。都市部への移動は、仕事を求めての目的が多かったと思われますが、就職先の会社では終身雇用が前提とされていました。そのような前提をもつ会社社会では、親睦を深めるためのレクリエーションや飲み会が多く行われていました。自分らしくいられるサードプレイス的な場や時間であったかどうかは微妙なところですが、人との関わり合いの時間は多くとれていたのではないかと考えられます。地域から離れても、会社での部署を越えたつながりや会社帰りの飲み会などが、サードプレイス的な人の関わりを生み出していたのではないかと考えられるのです。
 しかし、終身雇用が崩れ、またさまざまなハラスメントが指摘されるようになると、個人の自由が得られる一方で会社で人と関わり合う時間は減っていきます。すると孤独を感じる瞬間が増えていき、サードプレイスやコミュニティに注目が集まり出したのではないかと考えられるのです。いくつかの過程を経て、サードプレイス的な場を失いつつある今を迎えているのかもしれません。

 オルデンバーグの示すサードプレイスのあった時代を思い浮かべると、なんとゆったりとした温かい時代だったのだと思ったりもします。また、生まれた場所そのままに暮らす人は今でも当然多くおり、そのような姿を羨ましいと思う都市への移住者も少なくないのではないかと思います。
 では、都市化を進めてきた社会や、都市部への移住をした人々の選択は、大きな方向性として間違いだったのでしょうか。という、惑いや今への否定が生じるのです。

 しかしながらここで目を向けなければいけないのは、かつてのサードプレイスは、仕事や教育などがひとつの地域で完結することを前提に存在できたものだということです。地域で生活のほとんどが執り行われることで互いに見知った関係になっていき、気のみ気のままに訪れた場所がサードプレイスになるのです。しかし他方で、このような前提は、人によっては縛り付けられていると感じることもあったでしょう。仕事は家業に属するものかその地域で成立するものに限られました。また地域コミュニティの風習が合わずに抜け出したいと思う人もいたでしょう。ひとつの良い場所と感じられるサードプレイスの周りには、まだまだ未完成ともいえる過程的な社会システムがあったのです。
 その後、仕事や住む場所の自由を手に入れました。しかしその一方で、ある意味では固定的な社会であるからこそ成立していたサードプレイスが失われていきます。かつてのサードプレイスは、流動的な社会では失われるのが必然だったのです。社会的な必然の中で失われていっても人は、サードプレイスという家庭や職場での役割から解放されて自分らしく居られる場所を求めます。だから今再び、サードプレイスという言葉を聞くことも増えてきたのかもしれません。そのかたちは、かつてのものとはかたちを変えていくのでしょう。オンラインの上に人の集いができたり、自分が気に入った場所に住んで積極的に関係性を作っていったりしている様子が伺えます。サードプレイスの本質はそのままに、しかしかたちを変えながら、また新たなかたちを成していくように思われます。かつてのサードプレイスを取り巻く社会システムが過程的であったように、サードプレイ自体も過程的なものであったのです。過程同士が組み合わさってかたちを成している世界だからこそ、絶えずどこかで喪失感や惑いが生じるのはあたり前のことなのかもしれません。

 よく、失ってはじめて気づくことを、人間の愚かさの表れであると捉えるむきがあります。しかしながらそこまで自虐的にとらなくてもいいのではないかとも思います。社会全体がある方向に動くとき、たしかに取りこぼすものは出てきてしまうのかもしれません。しかし、オルデンバーグがサードプレイスの喪失を指摘したように、誰かがそれに気づき世に訴えかけてくれます。そして、人々がその問題について認識していくという学びが生まれます。
 おそらく、地域にごく自然にサードプレイスがあったとき、人々はそれを人間にとって大切なものだとは気づいていなかったのではないかと思います。それが失われる危機に直面してはじめて、そのピースが存在していたことに気づき、輪郭と大切さを認識することができるのではないでしょうか。出来上がったパズルを眺めているだけでは、どのような要素で全体がかたち作られているのかを認識することは困難です。喪失しそうになることではじめて、なにかが欠けていることに気づき学ぶことができるのかもしれません。
 学ぶという過程を経ることで、本質を保ったまま、しかし時代に合わせてかたちを変えて再構築することができます。このように人間は、さまざまなことに気づいて学びながら、これまで生きてきたと言えるのかもしれません。そして世界がこれまでも過程であったように、今もこれからも過程であるはずです。同時に、人間の物事に対する認識も、当然のように過程の中にあると言えそうです。

自分自身も過程である

 過程的であると捉えるべきは、物事に対する認識や、周囲に存在する社会システムや事物の機能・デザインだけではないように思われます。自分自身も過程の状態にあると捉えるのが適切なのかもしれません。

 前編では、『モモ』によって時間に関する価値観が覆されたという個人的な経験を綴ってみました。しかし、これは今だからこそ覆されたのであって、10年15年前であれば覆されるに至らず素通りするだけであったかもしれません。実際に『モモ』は児童文学に分類されていますが、大人も(が)読むべき本ということもよく見聞きします。
 今だから、というのは置かれている環境や年齢からくる心身の変化が、『モモ』の物語をより深く感じさせたのではないかということです。目指すものやそこに至るプロセスを明示してもらえるような学校のような環境であれば、速いことや時間を節約することは大きな価値であったかもしれません。しかし自分でなにかをつくったり方向性を決めなければいけない社会人になると、ひとつひとつをしっかり消化していかないと、経験を土台や糧としていくことが難しくなるように感じます。案外、気の合う人と過ごしたり、ぼーっとしている時間が、ひらめきや選択の後押しをくれるようにも感じられます。また、10代20代の頃はとにかく成長することや物事を消化することに喜びを感じるようなエネルギッシュさが前面にあり、それによって充足感を得ていたように思います。しかし、年齢を重ねるごとに、湧き出るエネルギーに隠れていた自己や自分らしさが、前に出やすくなったりはしていないでしょうか。自己と照らし合わせた自分らしい選択をしたいという気持ちは、勢い溢れるままに生きていた頃とは、また違う質感で抱いているような気もします。身をおく環境によって興味関心などが変わるだけではなく、もっと身体的・内面的な部分でも、ひとりの人間はいつも過程的な状態にあると言えるのではないかと思ったりするのです。

 世界は過程の複合体である、ということの「世界」には、自分も含まれます。自分の考えを周りに伝え、逆に周りの考えに影響され、人を残し、教えを残し、人によっては芸術を残し、過程の一部を織り成します。大いなる過程の中に、未だ過程的である自分が生きているのです。そのような過程の複合体の中では、惑うことは必然であり、生きることそのものなのではないかと思えてしまいます。

人生は今日も過程

 あらかじめ何かが決まってくれていた方が楽ではありますが、なかなかそうもいかないようです。世界が過程の複合体なのであれば、自分の周りでも、自分では認識できない広大な範囲でも、今日も無数の物事がうごめいています。ひとりの人間が惑わないわけにはいきません。
 惑うことはストレスですが、惑うことで踏み出した一歩は、新たな安定を生んでくれるとも言えそうです。惑いが生まれたということは、気づかぬうちに不安定な状態におちいっていたということのシグナルかもしれないからです。惑いながら踏み出した一歩のくり返しは、新たな安定と、副産物としての新たな学びももたらしてくれるはずです。
 弁証法的に世界をみることなどまだまだできず、惑いを前向きに捉えようと思ってもやっぱりストレスには感じてしまいそうではあります。ただ、すこしだけゆるく構えることができそうな気もしています。時間をかけて、世界の見方を養い、うまい惑い方を身につけていきたいと思いました。



〈参考図書〉
1.三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)
 今回は「世界は過程の複合体」という表現をピックアップして、世界のあり方に対する理解を深めてみましたが、それ以外にもさまざまな表現で世界や物事について記されています。それはマルクスやヘーゲルといった哲学者の考えも引用しつつ、著者の三浦氏自身が研究や人生を通して認識を深めてきたことであるようにも感じられました。書き方はわかりやすいのですが、内容が深いので一度で理解したとはとても言えません。時間をおいて読み返すごとに、書かれていることの意味を感じ取れるようになっていく本なのではないかと思いました。
2.レイ・オルデンバーグ著/マイク・モラスキー解説/忠平美幸訳『サードプレイス ーコミュニティの核になる「とびきり居心地のよい場所」』
 赤ちょうちんの居酒屋や、床屋や薬局などは、外面的にはただのお店なのですが、そこに社会的な役割を見出したことは、とてもおもしろく有意義なことであると思います。目に見えないことは、誰かが声高らかに言わなければ、気づかずにそのまま喪失されてしまうこともあると思うからです。オルデンバーグの情熱そのままになかなか分厚いのですが、内容全体を通してサードプレイスとはどういうものなのかが伝わってくる本です。論理的・体系的・統計的に説明されているというよりは、全面を通してサードプレイスのことを感じながら理解できる本のように思います。

 なお、このコンテンツの前編はこちらです。

(吉田)

(カバー画像出典元)

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