2021.07.17

人生は今日も途中、 ー惑うことの意味を考える[前編]

(文量:新書の約12ページ分、約6000字)

 本を読んだりしていると、自分の根底を覆すような考えに出くわすことがあります。文学であれば物語を通して、理論書であれば理論を通して、自分が当たり前に受け入れていたことに対して否定的な指摘が成されていきます。その指摘を受けて素直に補正することができたり、重要ではないものとして一旦奥の方にしまっておいたりできればいいのですが、自分にとって大切な価値観や考え方に対する指摘である場合は、そうもいきません。最初はその否定的な指摘を自分なりに否定しようと、つまり自分を肯定しようと試みたりするのですが、どうもその指摘を自分から引き剥がすことができません。どこか身に覚えがあることだからです。これはおそらく、惑っている状態です。本に納められた知は、肯定や後押しになることもありますが、人を惑わせることもあるのです。
 惑っているときは足を止めざるをえません。なぜなら、自分の進むべき方向がこれでいいのかと疑っているため、一歩を踏み出しても無駄足に終わってしまうことが頭をよぎるからです。否定的な指摘によって惑うことで、自分の進んでいる方向が合っているのか疑わしく感じてしまうのです。
 歩みを止めさせてしまう「惑い」や、その惑いを生む本を読むことには、どのような意味があるのでしょうか。いかにその指摘が正しいものであろうと、歩みをただ止めさせてしまうだけでは、人にとっていいものとは思えません。しかし他方で、否定的な指摘を受けたり否定的な観念を自分の中に抱いたりせず、ただ盲目的に前に進むことがいいこととも思えません。もしかしたら誰かの策略にはまっているかもしれませんし、無意識下にある違和感に気づかずにいつか爆発することにつながってしまうかもしれません。ときおり立ち止まって考える、惑うことというのは、大切なことであるように思えます。そこで今回は、惑うことの意味を考えてみたいと思います。


惑ったことの個人的体験

 本を読んで惑うこととしては、たとえばどんなことがあるのでしょうか。実際にあったことを題材に考えてみたいので、個人的な体験になってしまいますが振り返ってみたいと思います。

 読んで惑った本は何冊か頭に浮かびますが、その中でも代表的なものはミヒャエル・エンデの『モモ』です。読書会で読んでいた人がいて、また読んだことがある人も多かったので興味本意で読んでみました。すると、児童文学に分類される本とは思えないほど、心に重くのしかかるものがあったのです。
 『モモ』は「時間」をテーマにしています。物語は、比較的時間がゆっくりと流れていた中世から、産業革命などによって世界の広大な開拓余地が示された近代・資本主義社会への移行期を舞台にしています。「時は金なり」の言葉そのままに、時間の使い方は効率的であるほどよく、なんでも速い方がいいという考え方が徐々に浸透していきます。ただし、速い時間は、社会や一部の利権ある人間である資本家などから一方的に押し付けられたわけでは決してありません。受け入れた人々自身も、より豊かな生活を送りたい・成功したいという気持ちなどがあり、ある意味ではその利害が一致するかたちで、速い時間を受け入れていったのです。
 しかし、時間効率を高めて、時間をどんどん節約していっているはずなのに、手元に時間が残りません。ここが、この物語の怖いところであり、著者が投げかけてくれている否定的な指摘でした。
 たとえば床屋のおじさんは、腕もよく、会話をしながら髭を剃ったり髪を切ったりすることが好きで、常連のお客さんもいました。また時間を見つけては入院する友人のもとへ見舞いにいき、高齢の母親の面倒をみて、寝る前には窓から外をみながら一日を振り返りました。でも、時間を効率的に使うことを考えると、そのほとんどが無駄であり非合理であるとみなされるのです。いかに多くのお客さんをさばくかを目指すのであれば、お客さんとの会話は無駄です。友人の見舞いも極力行かない方がいいですし、母親の面倒も外部サービスに委託した方がいいですし、窓の外を眺める時間など取らないに越したことはありません。そして実際に床屋のおじさんは、これらの時間をすべて節約していきます。さらに、床屋では従業員を雇い、それぞれの作業の時間管理を徹底することで、さばけるお客さんの数は増えていきました。しかし不思議なことに、時間は節約できているはずなのに、自分の元に残っていると感じられる時間はなかったのです。
 この不可解な現象の裏には、単にタスクをこなした数が自分の時間的な財産になるわけではないということがありました。自分の手元に残る財産ともいえるような時間は、自分の心でしっかりと感じられる時間であり、決して客観的な効率性などで測れるようなものではないということです。

 このような物語に浸ってみてから自分をかえりみた時にショックだったのは、私自身も時間を節約することを念頭に生活しており、もしかして自分の手元には自分の時間といえるものが残っていないのではないかいうことでした。合理的に時間を使っているようでいて実は、自分の人生を生きているとは言えないのではないかとさえ疑ってしまいました。さらに気がかりだったのは、他人の時間を奪っていないかということでした。
 床屋のおじさんは、ある日床屋に来た「灰色の男」に指摘されたことで、時間の節約を始めることになりました。灰色の男とは、無機質で人間味のない男なのですが、意味するところは社会のシステムそのものが人間に化けた存在であると言えます。その男が、床屋のおじさんに一日に行っていることを事細かに書き出させ、それにどれだけの時間を費やしているのか“秒”単位で一覧化させるのです。そして当然のように灰色の男は、そのほとんどに対して無駄な時間というレッテルを貼っていきます。
 この灰色の男と同じようなことを他者に対して自分はやっていないのかと不安にもなりました。自分に対しても他者に対しても、自分は灰色の男と化していたのではないかと怖くなったのです。

否定を受け入れて起きたこと

 著者・ミヒャエル・エンデの痛烈な批判を受けて、見事に私は惑いました。時間は節約する方がいい、基本的には速い方がいいと暗黙のうちに思っていたのだと思います。『モモ』を読んでその暗黙の前提が崩されたので、それまで通りの考えにもとづいて生活をすることに抵抗を感じるようになりました。それから生活を変化させていくことになるのですが、しかし最終的に行き着くのは必ずしもゆっくりと時間を使うことでもなかったのです。

 エンデの指摘を受けて変えたこと、あるいは自然と変わったことは、時計をあまり見なくなったことだと思います。それまでは私生活でも、料理、皿洗い、風呂など、なんでも時計を見ながら行っていました。何にどれだけ時間がかかるかを把握することで、1日をすき間なく過ごすことができるからです。私は灰色の男に会った記憶はありませんが、きちんと言いつけを守っていたわけです。
 時計をあまり見なくなっても、1日に行うことは変わりません。朝起きて仕事をして家事をして寝るのです。しかし、時計を見なくなったこと・時間を気にしなくなったことで、少しずつやることが滞るようになっていきました。1日にやるべきことというのはあるので、そちらを優先せざるをえない状況の中では、時間というのは削られていきます。結局やることに追われ時間が削られていく感覚を持てば、ストレスに感じ、生活の質が向上したとは言えません。『モモ』のイメージそのままに生活を組み立てることは、うまくいかなかったのです。

 しかし、惑うことの本当の効用は、ここから発揮されていくことになります。それまでの自分の生活や考え方を一度否定的にみて適用したところでは終わらないのです。
 痛烈な心当たりともに納得してしまった『モモ』の世界観そのままを生活に取り入れることは失敗に終わりました。では、時間の節約をしても自分の元に時間は蓄積されない、自分の心で感じられるのがひとつの時間のあり方であるといえる、というようなエンデの指摘は間違いだったのでしょうか。おそらくそうではありません。『モモ』を通して得た気づきは、たしかな納得感があるものでした。
 ここから少しずつ時間を節約することの意味を自分なりに考えはじめます。節約している時間はたしかにその時間自体を楽しんているわけではないので消えていく時間かもしれない、しかし節約することによって他のことをする時間ができるのも確かであること。また、時間の中には、やらなければならないけど自分にとって大事ではない時間と、大事にじっくりと向き合いたい時間があることなどが自分の中で整理されていきました。
 そうして徐々に、時間をどう使えばいいのかが見えていきました。それは、基本的には時間の節約をする、なぜなら1日のタスクは結構膨大で、ひとつひとつを楽しんでいてはやることが詰まっていって逆にストレスになるからです。ただ、時間の節約はあくまでも自分が大事にしたい時間を確保するためのもので、節約する時間と大事に過ごす時間は自分の中で整理しておくということも考えとして持つことになりました。

 最終的には、元に近い時間の使い方に戻ったように思います。ほとんどの時間は、効率を意識した時間の過ごし方のままだからです。では結局のところ、『モモ』を読むことで惑ったことにはどんな意味があったのでしょうか。側から見ていれば私の生活スタイルは以前と同じですが、内的には変化しており、生活の質も少しだけ向上したように感じています。では、惑うということのどんなプロセスが、そのような質的な変化をもたらすのでしょうか。

あっち側に渡って戻ってくる -否定の否定

 時間に関する価値観が揺さぶられ惑った過程を振り返ると、2段階のプロセスがあったことが分かります。それは、今を否定して新たな世界観に赴き、その上でさらに新たな世界観をも否定して今に戻ってくるというプロセスです。これは「否定の否定」とも言い換えられます。このような整理は私自身が考えたことではなく、『弁証法はどういう科学か』で紹介されていたことを、『モモ』によって生まれた惑いのプロセスに当てはめたものです。
 エンデによって時間の節約・効率化を否定されたことで、一度は時間の節約から離れて、時計を見ずに奔放に使ってみることにチャレンジしました。これが1段階目の否定です。しかしそれでは、タスクが積み重なっていき逆にストレスを感じる事態になりました。そこで、時間の節約は本当にダメなものなのか、エンデの描く世界は本当にいいものなのかと考え直します。これが2段階目の否定です。
 この2段階目の否定により、最終的に(あるいは現時点では)時間の節約を主とする生活に戻ってきました。しかし、惑う前とは少しばかりの違いがあります。それは、節約の対象とする時間と時計を気にせずそのままを大事にする時間とを、分けて考えられるようになったことです。また、その前段として時間を節約することの意味を考えることができました。時間の節約は、大事な時間を確保するために行うことで、すべての時間に当てはめてはいけないということです。すべての時間を節約していては、それこそエンデの言うように自分の元に時間は残らなくなってしまいます。
 エンデの描いた文学は、時間を節約しているのに時間が消えていくという不合理を、強調したものでした。強調されていたからこそ心に深く刺さったのですが、一方で強調されたものをそのまま受け入れようとしても生活との不一致が生まれます。時間の節約や効率化を前提に生活や社会的活動の多くが組み立てられており、そこから脱することは自分の責任だけでは行えないからです。もっとも、そんな世間からは脱してやる、というところまで踏み切れば話は別だとは思いますが、今の生活をあまり変えたくないというのが素直に思うところでした。
 1段階目の否定によって、今の生活や自分を取り巻く不合理や問題点を認識することができます。惑うところのひとつの大きな意味はおそらくここにあり、一度別の世界観に身を置いてみることで、それまでの「今」を客観的にみることができるのです。ただ日々を過ごすだけでは見えてこなかったものが、なにものかによって別の次元に引きずられていくことで、引いた目線をもつことができるようになります。そしてさらに、1段階目の否定の先にある世界と今との不一致を、2段階目の否定によって解消していくことになります。時間の節約にはびこる不合理と、今の社会システムの現実や自分はどう生きたいのかということの間に生じる矛盾が、2段階目の否定というプロセスによって解消されたのです。
 惑うことの意味は、このようにあっちこっちに身も心も行き交わせることで、一見すると今と同じだけれど質的には高い段階へ上ることができるという点にあると考えられます。これも弁証法に基づく考え方です。惑うことは、歩みを止めることを伴い、精神的にも負担がかかります。ですので、すすんで踏み込みたいところでもないのですが、決して無駄なストレスを生むだけのものではありません。自分なりに咀嚼していくことによって、自分でも気づいていたなかったような違和感を克服し、また少し豊かな生活を送ることができる可能性を秘めているのです。

 惑うことの意味について考えたことは、ここまでで概ね紹介させていただきました。しかし、惑うことに意味を見出すにあたって参考となった弁証法からは、もう少し深い考えを得ることができた気がしています。それは、人生や世界の見方に関する、少し壮大なことでした。次回は後編として、惑うことの意味を考える中で垣間見えた、認識の一端について紹介を試みます。それによってさらに深く、惑うことの意味を考えることができるのではないかと思っています。


〈参考図書〉
 以下の図書は、今回のテーマの着想を得たり考える視点となったりしたものです。
1.レイ・ブラッドペリ著/伊藤典夫訳『華氏451度(新訳版)』(ハヤカワ文庫)
 本を見つけたら燃やすことが義務付けられた非理想的な世界を描いた物語です。本を燃やす理由は、本が心を惑わせたり、人間の軽薄さや残酷さを思い知らせたりと、人々にマイナスな感情を植え付け混乱させる恐れがあるからです。たしかにそういう側面が本にあることは私自身も自覚しつつ、しかしそれを避けてしまってもいいものだろうか、いやそうではないはずだと思ったことが、今回のコンテンツの着想になっています。
2.三浦つとむ著『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)
 実際に本を読んで何度か惑ったことの経験を解釈するにあたって、この本を参考にしました。弁証法は以前から見知ってはいましたが踏み込んだことはありませんでした。今回のテーマを考えるにあたって手にとってみました。本自体は平易な文章で書かれていましたが、弁証法自体が深いものなので決して理解したとはいえません。これから少しずつ理解を深めていきたいと考えています。ちなみに弁証法には、ヘーゲルによるもの・マルクスによるものなどといくつかに分類されるようですが、これはマルクスによるものでした。

 後編はこちらになります。

(吉田)

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