2021.10.23

多様性の視点。 ー色々とつながりと #5

人と人とは違う、もしもそれで関係性が薄くなってしまっては、違いを尊重することが難しくなるのではないかと思います。違うけれどもつながりを育んでいくための視点があるのではと、探ってみました。それはちょっとした足し引きなのかも。

(文量:新書の約23ページ分、約11500字)

 同調圧力を感じるということは、人のこころは外に開かれているということの表れなのかもしれません。周りから同意を求められているように感じることも、周りの流れに追随しなければいけないのではないかと思うことも、空気のようなものを感じて自分のこころに引き入れているということなのではないでしょうか。こころは輪郭のはっきりとした形で個人の内に在るものというよりは、かたちを変えながら外の世界と同化していけるものなのかもしれません。
 人と人とが共感したり協調したりできるのは、このこころのオープンさのおかげであると言えそうです。しかし一方で、人と人との違いを重んじようとするとき、自分の個性を大事にしたいと思うとき、このオープンさは弊害を生みだすこともあるのでしょう。他者と意見が違うというだけで自分の意見が正しくないことのように思えたり、世の中の主流とされる考えから外れているだけで自分が正しくないように思えたり。自分の論理がいかに深く考えられたものであったとしても、まれないようにすることは簡単なことではありません。そして同様に、自分の態度によっては、相手を引きずり込んだり呑み込んだりしてしまうこともあるでしょう。

 アドラー心理学をもとに書かれた『嫌われる勇気』には、オープンなこころを持ちながらも個人として生きていくための考え方が示されていたように思います。たとえ他者から期待をかけられようとも、「それは誰の問題であるのか」を明確に判別し、自分の問題であれば自分の考えでもって問題にあたっていくという姿勢が示されていました。承認されることを求めすぎず、アドバイスを受けたとしても、それを活用するかどうかは自分の責任でもって選択をしていくという姿勢です。
 同時に、自分は共同体の一部であるという感覚をもち、他者貢献のこころをもって生きていくことも大事であると示されていました。自分と他者のあいだに一定の線は引きながらも、決してつながりを持たないわけではないとしています。

 この、つながりをいかに築き、保っていくかという視点は、ひとりひとりは違うと認め合う生き方には、とても重要なことのように思えます。あなたと私とは違うと分かった途端につながりが薄くなっては、孤立感を強く抱くことでしょう。それが嫌で同調を求めたり受け入れたりしていることもあるはずです。違うと分かっても、別々の方向へ進もうとも、その軌道をねじ曲げることなく尊重し合えるつながりとはどういうものなのか、考えを深めていくことは重要であると考えます。多様性を考えるということは、多様性の上に成り立つつながりとはどのようなものかを考えることも、その土台として必要なのではないかと思うのです。

 これまで、いくつかの本から、違いのうえに成り立つつながりとはどのようなものなのか学ばせてもらいました。今回は、ポイントとなりそうだと感じたことと参考になりそうな本を、まとめとして紹介していきたいと思います。もちろんのことですが、ここで紹介することはまだまだ掘り下げ方も広げ方も足りないものです。ここでまとめることでまた次の疑問も出てくると思うので、引き続き考えていきたいと思っています。


対話であること

 まずは、お互いにわかり合ったり、いまの状態を確認し合ったりするための、コミュニケーションについて考えてみたいと思います。

 考えや進む方向が同じであるときと違うときとでは、コミュニケーションのとり方が変わってきます。
 同じとき、たとえば受験して進学することをあたり前として受け入れているとき、子どもと親、子どもと先生、子どもと子どもの間のコミュニケーションは、進捗確認くらいでいいのかもしれません。進学先の選定は済んだのか、学部や学科は選べたのか、合格確率はどれくらいかなどを確認すれば相手の状況が分かり手助けをすることもできます。同じ道を同じ方向を向いて歩んでいる状態であれば、すこしの確認で相手の状況や悩みが手に取るようにわかることでしょう。
 それに対して違うとき、たとえばそもそも受験や進学自体に対して懐疑的であるとき、子どもと親、子どもと先生は、互いに面を突き合わせる関係になることでしょう。子ども同士でも、対立する関係になるかもしれません。そのような関係において必然的に求められるようになるのが、対話であると考えられます。
 精神科医の泉谷閑示氏は『あなたの人生が変わる対話術』[1]のなかで、対話の前提の一つを次のように記しています[1,kindle160]。

前提1 相手を「他者」として見ることから「対話」は始まる。

他者とは、自分とは違う世界や価値観をもった未知なる存在であると定義されています。意見を違える相手に出合ったとき、あるいはいつもは同じ考えなのに考えが合わないことが出てきたとき、その相手を自分とは違う“未知なる存在”であると捉えることがまずは大事であるというのです。未知なる存在と、いきなり、互いの考えをそのままぶつけ合おうとは思わないのではないでしょうか。たとえば外国に行くときや外国の人と接する機会があるとき、まずは相手の国の慣習を調べたり、ひとつひとつ聴いていったりするはずです。相手を未知なる存在であると認識することで、まずは立ち止まって、ひとつひとつ聴いていこうという心持ちになれるように思います。
 相手が違う存在であるならば、自分がもっている答えなどは相手に合わないことになります。相手が思っていることや考えていることを聴き、わからないところは質問を投げかけながら、わかろうとする努力が必要になります。相手の話をただ耳に入れていく“聞く”ではなく、積極的にわかろうとする“聴く”態度であることが大切になるのです[1,kindle497]。
 相手のことがすこしでもわかれば、考えの整理を一緒にしていったり、情報や人の紹介をしたりすることもできるかもしれません。しかしわからないまま拙速せっそくに何かを与えようとしたり、わかろうとする態度が浅かったりすれば、相手は反発して離れていってしまうかもしれません。自分とは違う他者とコミュニケーションするとは、自分というものを一旦おいておいて、相手の理解に集中することであるといえそうです。結局わからないこともあるかもしれませんが、わかろうとする態度であることで相手との関係は続いていくように思います。反対に、わからないまま何かをくり出してしまっては、それは相手にぶつかることになり、衝突したり離れたりすることにつながってしまうのかもしれません。
 自分とは違う他者とのコミュニケーションには、自分の考えに決して当てはめず、しっかりと聴いてわかろうとしていく対話の姿勢が、重要であるといえそうなのです。

利他であること

 コミュニケーションの次は、行為について考えてみたいと思います。

 対話によって相手のことがわかってくると、その人のためにできることが見えてくるかもしれません。相手を思ってしたことを相手が受け取ってくれれば、そこからつながりは生まれていくことでしょう。
 相手のことを思ってすること、それは「利他」の行為であると言えます。利他的な行為やこころは、人と人とをつなげる力があるのだと思います。しかし、多様性の観点から利他を考えていくと、いくつか注意しておいた方がいいことがありそうなのです。これは同時に利他自体について考えることにもつながります。

 自分と相手とは違うということを前提にしたとき、“あなたのために”なることをどの程度の確証をもって示すことができるのでしょうか。同じ道を同じような気質の人が歩んでいる場合にくらべて、その確証は小さくなるはずです。仮に、対話によって相手をよく理解できて「これだ」と思える策や案が出てきたとしても、そこから先、自分と相手はまた別々の道を歩んでいくことになります。そしてそれまでも別々の道を歩んできました。対話によって生まれた同調は、もしかしたら一時いっときの交わりにすぎず、過去の延長線上に伸びる線は、また別の方向に向かっているかもしれません。なにがいいのかは、その人の日々を生きているその人にしかわからないところがあるのだと思います。そう考えたとき、利他的なこころをもって自分にできることを思いついたとしても、それを受け取るかどうかの選択は相手に委ねるしかないのだと思います。
 自分とは違う他者に、利他のこころをもって何かを行いたいと思うとき、“何を”行うかだけではなく、“どういう姿勢で”行うかも重要であると考えます。相手の行為の選択を、自分の利他によって縛ってはいけないと思うのです。(なお、ここらへんの考え方は、『「利他」とは何か』(集英社新書)[2]の伊藤亜紗氏が著した第一章から学ばせていただきました。)
 たとえば、部活のある先輩が後輩である自分たちに、トレーニング方法の講座を開いてくれたとします。個人練習が多い部活ですが、後輩たちのトレーニング方法に問題点があると感じたようです。それまでの問題点を指摘し、忘れないようにと資料を用意して渡してくれて、2時間みっちりとトレーニング方法を教えてくれました。その後、後輩である自分たちはどうするでしょうか。
 次の日のトレーニングルームで先輩が目を光らせていた場合、自分たちは教えてもらったトレーニングをせざるをえないかもしれません。本当はそれぞれにやりたいトレーニングがあったかもしれないし、先輩の言っていることはおかしいと思ったかもしれないにも関わらずです。これは立場をつかった押し付けであるとも言え、表面的には先輩の利他的な行為にみえても、実質的には利己的なこころが顔を覗かせている可能性があります。もしかしたら奥底に潜んでいるかもしれない、立場を強めたかったり承認を得たかったりする利己的なこころです。
 別のパターンとして、次の日のトレーニングルームで、先輩は素知らぬ顔でもくもくと自分のトレーニングをしていたらどうでしょうか。またトレーニング講座の終わりに、「これはひとつの考え方でしかない」ということを整然と話されて終わっていたらどうでしょうか。普段からのその先輩との関係性にもよりますが、後輩の自分たちでもやりたいトレーニングを選択することができるのではないでしょうか。このような、利他行為を受けた側が受け取るかどうかを自分で選択をできる、という行為の示し方が、人と人とは違うことを前提にした利他なのではないかと考えます。相手に選択を委ねる、他者を尊重する利他であるとも言えるでしょう。

 自分が示したアドバイスや方法を相手が採用してくれるかどうかは、どうしても気になるところです。自分が役に立てているかは、人間なのだから、気になるところだと思います。しかしだからといって、採用しているかどうかをじっと観察してしまったり、採用してほしいという期待をかけてしまっては、相手の選択に自分が介在することになり、他者を自分がコントロールする結果になってしまいます。
 美学を専門とし、障害のある人と関わりながら研究を進めている伊藤亜紗氏は、『「利他」とは何か』の中で次のように言っています[2,P46]。

特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています。

著書の中では、障害のある人がケアを受けながらもイライラしてしまうのは、「助けてって言っていないのに助ける人が多いから」と障害のある人が語るエピソードが紹介されていました[2,P47]。スムーズに物事が進むことよりも、自分の力で物事を進めていきたいという価値観に、ケアの仕方が合わなかったケースなのかもしれません。ここにも、当人にしかわからない価値のあり様が見え隠れしているように感じました。
 助けが本当に助けになることは多くあると思います。ですので、“どう”その利他を示していくのかも大事にした方がいいのかもしれません。期待をかけすぎない・圧を感じさせないように、そっと置いておくくらいが、いい具合なのかもしれません。仮に選択をしないという判断を相手がしても、利他的なこころを感じられることでつながりは続いていくのではないかと考えます。

信頼があること

 対話も利他も、相手の反応が予測できないことがあたり前とする姿勢でいること、相手をコントロールしようとしないこと、が大事なポイントとなりそうです。
 対話は、相手を自分とは違う他者であることを前提として、わかろうとしていくコミュニケーションです。自分の発言に対して相手の同意を求めるような話し方は対話的であるとは言えません。自分の投げかけに対する反応の予測や期待はせずに、委ねて、待つという姿勢であることが求められるのだと思います。
 利他も同様に、相手のことを思ってした行為でも、それを受け取るかどうかは相手に委ねることが求められます。仮に自分が「絶対にこれをやった方がいい」と思っていても、最後の選択は相手に委ねるのです。自分とは違う他者は、もっている価値観も経験してきたことも違うため、わかりきることは難しいのだと思います。だから、相手のことを思ってはいても、最後は任せることが必要になってくるのだと思われます。
 このような、相手に投げかけて、あとは委ねる・任せる・待つというのは、相手を信頼するということなのだと思います。信頼が対話や利他を生む土壌となり、同時に対話や利他が信頼を育んでいくのではないでしょうか。この、信頼をいかに育んでいけるかというのは、多様性ある個のあいだにつながりを築き保っていくうえでの、重要な課題であるように思えてくるのです。

 しかし、信頼を育むことは簡単ではない、ということは言うまでもないほど日常で痛感することかもしれません。その信頼の難しさなどに触れながら、信頼についてもうすこし理解を深めていきたいと思います。
 伊藤亜紗氏は、「相手の力を信じることは、利他にとって絶対的に必要なことです。」[2,P50]と記しています。障害をもつ人に対して、ついつい先回りして手助けしすぎてしまうことは、やさしさが伴っていながらもその人の力を信じられていないからではないかといいます。相手の力を信じるとは言うは易しで、委ねることで相手が危険な状態になったり周りに手間をかけさせすぎたりすれば、それは放任ともなりかねません。信頼することには、心配や責任との葛藤がつきまとうのだと思います。確たるものなどないバランスのうえに、信頼は成り立っているものなのかもしれません。
 さらにもう少し言及するとするならば、相手の力だけではなく、相手の人間性を信じられるかということも信頼できるかどうかの分岐を生みだすと考えられます。社会心理学者の山岸俊男氏は、『安心社会から信頼社会へ』[3]の中で、安心と比較しながら信頼を定義しています。すなわち、信頼とは相手がどのような行為に及ぶかは不確実な中でも、相手は自分にとって不利益になる行為はしないだろうと考えられることとしています。それに対して安心は、相手の行為にそもそも不確実性がないことで得られることとしています。
 安心はたとえば、ある取引の話が進んでいたときに、全体として前向きに進んでいるが、最終的に反故ほごにされる可能性がないわけではない。そんな状況で交わされる契約締結によって生まれる感情が、安心です。契約書に書かれた内容に反すれば法律にもとづいた賠償などが発生するので、相手はそんなことをしないだろうという安心が得られます。つまり契約によって相手の行為の不確実性が限りなく小さくなり安心するのです。
 信頼は、契約のような不確実性を小さくするような仕組みや規律がなくとも、相手は自分に対してひどいことはしないだろうと考えることです。信頼があることで、より自由な振る舞いができることでしょう。たとえば秘密の情報を話そうとするときに、秘密保持の契約を交わさずとも相手は秘密を守ってくれるだろう、あるいは秘密を自分に損になるような使い方はしないだろう、いやむしろうまい具合につかって返してくれるのではないかと考えられることは信頼であるといえます。

 相手の力を信じる、相手の人間性を信じるというのは、その相手のことをよく観察したり、一緒に活動をしてみたりしながら、時間をかけて育まれていくことのように思います。しかし、時間にただ任せるだけではなく、身近な瞬間に、信頼をするという選択の機会はあるのかもしれません。
 たとえば、プロジェクトの報告をする打ち合わせの席で、あなたは経験も知識も豊富な上司の立場にあったとします。報告をしているのは、いつも一緒に仕事をしている部下です。プロジェクトは順調なので、大きな不安もなく報告は部下に任せています。しかし、報告をしていた相手である役員から、予想をしていなかった質問を受けました。その点についてあなたと部下のあいだで議論をしたことはありませんでした。場は一瞬止まります。
 このような一瞬に、信頼か安心かの選択の機会があったりするのではないかと思うのです。
 部下と事前にすり合わせをしていなかった質問を受けて、自分が収めようと入っていったとき、それは安心を選択したと言えるのかもしれません。部下を気遣う気持ちからであったとしても、とっさに介入したとき、自分のコントロールが及ぶようになり安心ができるのです。
 それに対して、場が一瞬止まったとしても、部下が話し始めるまで待ったとしたら、それは信頼を選択したと言えそうです。どう応えるのか、そもそも応えられるのかどうかもわからない状況のなかで、委ねてみるという選択です。
 信頼して委ねた結果うまくコミュニケーションが成立した場合、それはひとつの成功体験になります。委ねた方も委ねられた方も、そのあとは信頼の選択をすることが増えていくのではないでしょうか。そして、自分とは違う他者の応答は自分とは違うもので、おもしろいと感じられることもきっとあるはずです。偶然に訪れる一瞬の狭間に、信頼の土壌が築かれるきっかけがあるような気がしています。

 信頼の育まれ方という観点でいうと、信頼というのは二者間だけで育まれるわけではないらしいということも、注目していきたいところです。さきほどの例でいうと、上司が部下に委ねるという選択をした結果、その二人の間の信頼関係は育まれたことでしょう。しかし信頼というのは、部下が上司を・上司が部下を信頼するというような、特定の誰かに向けられたものだけではないのです。
 社会の事象を分析・研究する社会学には、一般的信頼という指標があります。一般的信頼とは、たいていの人は信頼できるか、という他者一般に対する信頼度を指標化したものです。よく見知った特定の人物に対する信頼度ではなく、世間一般の人に対する信頼度を表すものです。
 この一般的信頼は、社会やコミュニティごとに差が生じることが示されています。『安心社会から信頼社会へ』ではアメリカと日本との違いについて、ある調査結果とともに紹介されていました。次のような結果です[3,kindle371]。

「たいていの人は信頼できると思いますか、それとも用心するにこしたことはないと思いますか?」
→「たいていの人は信頼できる」に対してアメリカ人47%、日本人26%

「他人は、スキがあればあなたを利用しようとしていると思いますが、それともそんなことはないと思いますか」
→「そんなことはない」に対してアメリカ人62%、日本人53%

「たいていの人は、他人の役に立とうとしていると思いますか、それとも、自分のことだけに気をくばっていると思いますか」
→「他人の役に立とうとしている」に対してアメリカ人47%、日本人19%

すこし驚く方もいるかもしれませんが、この結果は日本よりもアメリカの方が他者一般を信頼する程度が高いことを示しています。これが意味するところなどは『安心社会から信頼社会へ』に書かれていますが、ここで言いたかったことは、信頼は社会環境によって育まれ方に違いが出るのではないかということです。国という単位ではなくとも、町や村という単位でも一般的信頼に差が出るという結果を他の本で見かけたこともあります。
 一般化信頼は個人に対する調査結果の統計であるため、個人の経験に依るものであるともいえます。しかし、その指標に集団単位ごとに違いが出てくるのであれば、それは社会やコミュニティに内在する規範や仕組みが作用しているのではないかとも考えられます。個人個人の日々の生活のなかで信頼が育まれるような環境を、整えていくことはできるのではないかということが示唆されているのです。

 最後は他者に委ねるという選択に影響する信頼は、人と人との違いを重んじる対話や利他の土台や足場となるものと言えそうです。また、人同士の関係性という点でも、不確実性を減らすことで得られる安心よりも、不確実性が高いなかでも築くことができる信頼の方が、多様な個人がつながるうえでは相性がよいものに思われます。しかし、信頼を育んでいくことは決して簡単なことではないのだということも同時に思います。今回は、どうすれば信頼を育むことができるのかというところには踏み込めませんでしたが、日常の一瞬にその機会は潜んでいるのではないかと思います。また、信頼が育まれやすい環境というのがあり、それを整えていくことはできるのではないかと思っています。

それぞれがそれぞれを生む

 今回は、ひとりひとりが違う、多様な個がつながりを築き保っていくためには、対話と利他と信頼がポイントになってくるのではないかと考えました。それぞれを別々に紹介してきましたが、それぞれの性質や効用を知ると、互いが互いを生みだすように育まれていくのではないかということがみえてきます。最後に、それぞれがどのように生みだし合うのかをすこしだけ考えてみたいと思います。図にまとめてみました。

スクリーンショット 2021-10-23 7.59.41

 まずは、対話と利他についてです。
 これはさきほどもすこし書きましたが、対話によって相手のことがわかってくると、相手のために自分ができることがみえてくるのではないかと思います。すると、利他のこころが芽生えてくるかもしれません。
 反対に、利他的であろうとしたとき、まずは「聴く」ことがはじまるのではないかと思います。相手がどういうことを求めているのかを知る必要があるからです。相手を積極的にわかろうとする「聴く」という行為は、対話の基本であると思います。ですので、利他的であろうとすると、対話が自然と始まるのではないかと思います。

 次に、対話と信頼についてです。
 対話によって相手をわかろうとしていく過程で、相手のもつ力や人間性がわかっていくのではないかと思います。相手の力や人間性を信じられるようになっていくことは、すなわち信頼を生みます。
 対話は、違う他者同士が、互いにわかろうとしていくことです。共通の認識や価値観があれば発話と応答のキャッチボールもスムーズでしょうが、わからない者同士では互いの理解度を探りながら、考えながら言葉を選びながらゆっくりと進んでいくことでしょう。その際中には、相手がきちんと考えて伝えようとしてくれているだろう、わかり合おうとしてくれているだろうという信頼が必要とされるのではないでしょうか。信頼があることで、相手の発話や応答を待ち、自分も時間をかけて返すことができるように思います。信頼が、対話の土壌としてはたらくのではないかと思うのです。

 最後に、利他と信頼についてです。
 利他的な行為を受ければ、それはそのまま相手を信頼することにつながるといえそうです。もうすこし細かいことを言うならば、山岸俊男氏の定義をもとにすれば、信頼とは相手の行為に不確実性がある中でも相手は自分に不利益なことはしないだろうと考えられることでした。自分のことを思ってなにかをしてくれた相手は、自分にひどいことをしない相手だと考えることができるでしょう。ただし、押し付けではないことは大切なポイントです。選択を委ねることが、他者を尊重する利他であるといえ、信頼につながっていくのだと思います。
 そして選択を委ねるには、相手の力を信じられていることが必要になってくると思います。それは信頼であるといえ、信頼が他者を尊重する利他を支えるとも言えるのでしょう。ただ、信頼がなければ利他ができないと言われると、それはそれで大雑把すぎる気もします。不安に思うことがあれば不安が解消される方法を考えたり、不安を覚えない範囲で、選択を委ねていくのがいいのではないでしょうか。

 対話と利他と信頼は、それぞれがそれぞれを生み、互いを支え合うような関係にあるように感じられます。しかし大事なことは、まずは対話・利他・信頼のひとつひとつを、しっかりと大切にしていくことではないかと考えます。対話が利他を生むからと、対話をそこそこに利他に及んでしまっては、対話の肝である相手を積極的にわかろうとする姿勢が保てなくなってしまいます。もしかしたらそうして生まれた利他は、相手のことを考えられていないものになってしまうかもしれません。
 今回紹介した対話・利他・信頼は、すでに普段の生活のなかに、似たようなことがあることでしょう。話すことや誰かのために何かをすることは、日常のなかで行っていることだと思います。今回はそんな日常の営みに、相手を自分とは違う他者であるとした場合、なにが重要になってくるのかというポイントを整理して追加してみたともいえます。今回さまざまな知から学んだことをふまえて、普段行っていることに何かを足したり引いたりしてみると、人とのあいだにまた違う関係性が築かれていったりするのかもしれません。
 ひとつのことにしっかりと向き合っていると、それが足場になって次のことが見えてくることがあるのではないかと思います。対話を大切にしていれば利他が自然と生まれて、利他を大切にしていれば信頼が自然と生まれるかもしれません。そうして、ひとつひとつが積み重なっていくことで、多様でありながらもつながりをもって生きられる土壌が作られていくのではないかと思いました。ひとりひとりが違う考えをもって違う生き方をしていても、つながりをもって生活していくにはどうすればいいのか、今後も考えていきたいテーマだと思いました。


〈参考図書〉
1.泉谷閑示著『あなたの人生が変わる対話術』(講談社+α文庫)
 対話とはどういうものをいうのかという考えから示されています。「何は対話ではないのか」ということも、すこし厳しめの指摘も交えながら示されています。著者は精神科医であり、多くの患者さんと対話をしてきたのだと思います。その経験にもとづいた対話の心得や技術なども具体的に著されています。

2.伊藤亜紗編著/中島岳志著/若松英輔著/國分功一郎著/磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』(集英社新書)
 東京工業大学・未来の人類研究センターの利他プロジェクトに参画する5名によってつくられた本です。専門はそれぞれに異なるのに、利他に対してはあるひとつのイメージを共通してもっていたそうです。今回は美学を専門とする伊藤亜紗氏の章を取り上げましたが、他にも政治学や文学、哲学(倫理学)などを研究対象としている研究者の、それぞれの視点からの利他の捉え方は、利他に対する考えの幅を広げてくれます。

3.山岸俊男著『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)
 個人間の信頼の問題というよりも、社会の基盤としての信頼の問題について書かれた本です。このコンテンツでも紹介したような信頼の定義や、信頼にまつわる実験的な知見などは、信頼そのものを考える上でとても参考になります。安心を基盤とした社会と信頼を基盤とした社会で何がどう違ってくるのか、これからの社会はどちらに向かっていかなければならないのかなどが著されています。

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(吉田)

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