2021.07.10

視点の紹介。 ーテーマ「話すこと」の読書会

(文量:新書の約10ページ分、約5000字)

 7月4日にテーマを「話すこと」においた読書会の1回目を開きました。この読書会は、ほぼ2ヶ月間開いている予定です(※)。いろいろな本を持ち寄って・読んで・感想を共有することで、広がりのある時間になればと思っています。「話すこと」とはすこしテーマが漠然としていますので、思い立ったきっかけと、1回目の読書会を参考にした視点の紹介をしていきたいと思います。

※主催者の都合で2回目は7月24日(土)に開く予定です。それ以降はほぼ毎週末に開きたいと考えています。


テーマ「話すこと」のきっかけ

 テーマのある読書会のテーマは、読書会で盛り上がった話題をもとに決めています。「話すこと」をテーマにしたのは、考えることを禁じられたディストピア(反理想的な世界)を描いた物語を読んでいる人がいたことがきっかけにありました。『華氏451度』という本で、私も読み始めているので、あとで改めて紹介したいと思います。
 考えることを禁じるような世界を想像したとき、そういえば普段はなにを話しているのだろうということが気になり始めました。近況を誰かと話そうと思うときただ近況を共有することに目的はないはずですし、おもむろに雑談をしたいと思うときただ時間をつぶしたいと思っているわけでもないはずです。そんなことを考えていると他の参加者が、「普段は、事実だけを話しているわけではなく、考えたことを話している」と言いました。これには、その場にいた人が納得したように感じられました。
 事実だけではなく考えたことを話しているとは、おもしろい観点だと思いました。たしかに、近況を共有するときは何かアイディアやプランがあって意見を聞いてみたいときかもしれませんし、雑談を切り出すのはまだまとまりきっていないおもしろいことがあったときかもしれません。また、噂話に尾ひれがどんどんついていくのも、事実に自分の考えを付け加えたいという人間の性なのでしょうか。人がコミュニケーションに何を求めているのかが、そんな観点から透かし見えるような気もしました。人が話すことの背景には、どんなことが隠れているのでしょうか。

 なにを話しているかだけではなく、どう話しているかという観点も興味深いものであると感じています。
 哲学者・野矢茂樹氏のエッセイ集のような本『哲学な日々』では、「案外ダメな授業」と題して、意外な授業が学生にウケたことが紹介されていました[P28]。野矢先生は、講義のときにはきちんと準備して臨むのだそうです。講義ノートをかなりしっかりと作り、台本を用意するような感覚で教壇に立つのだといいます。しかしあるときの授業で、自分で作った講義ノートに、自分で納得できないところを見つけてしまいました。そうすると、そこを修正しながら講義を進めなければいけないため、しどろもどろです。なんとか講義を終えてぐったりして教室を後にしようとすると、ある学生が声をかけてきました。「先生、今日の話は分かりやすかったですね」と。
 よどみなく話すようないつもの講義より、詰まりながらもなんとか前に進めていく講義の方が、分かりやすいと感じられたそうなのです。これは考えることそのものを学ぶ哲学の講義だから言えることで、別の話す場面では滑らかでよどみない方がいいことももちろんあるのだと思います。ただ、話すシーンによっては、流暢であることが必ずしもいいことではないという気づきをくれたようなエピソードであると感じました

 「話すこと」は身近なことでいつもやっていることだけれど、奥は深いのではないか。そんなことを思い、読書会を開いてみることにしました。

視点の紹介

 まだ1回目を開いただけですが、参加者に持ってきていただいた本の感想を聞きながら(読書会ではその場で読んだ後、感想を共有する時間があります)、さまざまな視点を得られたような気がしました。私なりの解釈や考えたことになってしまいますが、紹介していきたいと思います。なお、参考として読まれていた本も合わせて紹介しますが、内容は感想を聞いての憶測になりますので、その点はご了承ください。本の紹介というよりも、視点の紹介として受け取っていただければと思っています。

考えを話すこと
 まずは、この読書会テーマのひとつのきっかけにもなった『華氏451度』の紹介も交えた視点となります。
 『華氏451度』は、本を見つけたら燃やさなければならないディストピアを描いた物語です。火事に駆けつける消防士ならぬ、本が発見されたら駆けつけて燃やす昇火士という職業があるほど、それは厳格な世の決まり事なのです。
 なぜ本はあってはならないのかというと、本にはさまざまな人によるさまざまな考えや主張が書かれており、人を迷わせ、ときには傷つけることもあるからです。答えはひとつであった方が、あるいはそもそも答えはないなどと言われない方が、迷いが生まれなくていいということです。また、たとえば人種差別の歴史の本があれば、差別を受けた側も、差別をした側も、近しい出自の人がいれば傷つき思い悩むことにもなります。本はあれこれと考えることを生み、それは人間にとって幸せなことではない、ということを前提とした架空世界が描かれていました。
 まだ前半しか読んでいませんが、そのような世界に生きる人の様子から、わたしたちは普段なにを話して楽しさや豊かさを感じているのかを、感じることができている気がします。本の中で描かれている人々は、どこか無気力・無関心で、その反動なのかギャンブルなどの刺激的な余暇にも興じているようです。すこし踏み込んで考えるならば、考えることや話すことはどのような意味のある行為なのか、思いを巡らせることができる本であるように感じました。

対談、共通と違いの探り合い
 著名人同士の対談は、まさにそれぞれが深く考えたことを話していると言えるのかもしれません。
 『人間の建設』を読んでいる人がいました。文芸評論家の小林秀雄と数学者の岡潔おかきよしの対談が収録された本です。文学と数学では頭の使い方が真反対かと思いきや、文学は理性で数学は感性などと、一般的な認識とは異なる考えをもって話が進んでいったりと、突きつめた人間ならではの対話の深まりがあるように感じました。
 イメージとして対談には、お互いに話しながら、共通点があれば共感して喜び、違う点があれば興味をもってさらに聞いてみるという交錯があると思います。そんな引力と斥力ともいえるものが釣り合って生まれた距離感が心地よいときに、いい関係になるのかもしれません。あるいは、同じすぎず違いすぎずの、いい距離感を作っていくことを、話すことを通して行っているのではないかと思ったりもしましたが、どうなのでしょう。

話さない紳士さ
 なんでも隠さずに話すのではなく、話さないことで守られる誠実さや格好良さのようなものもあるのだと思います。カズオ・イシグロの『日の名残り』からは、ある老執事のそんな一面が感じられるようでした。執事は、さまざまな人に仕えてきましたが、誰に仕えたかは公には話したりしません。それはイギリスにおける暗黙の了解・紳士協定のようなもののようですが、雇う側としては執事が過去にどんな人に仕えてきたのかを自慢したくもなります。そんな両者の対峙も描かれているようでした。
 仕えてきた経歴を執事が話さないのは、雇い主の秘密を守るという側面もあるのだと思います。ただ一方で、自慢できるような経歴をあけすけに話さない紳士さや配慮のようなものも、勝手に感じていました。隠し事をするわけではないけれど話さないというのは、いろいろな感じ方をする人がいる中で、ひとつの振る舞いのあり方なのではないかと思ったりもします。難しいひとつの線引きの作法として、学んでおきたいことであると思いました。

場にフィットする話し方
 「話すこと」といえば、話し方や伝え方は外せないテーマだと思います。『超一流の雑談力』では、雑談に関するハウツーだけではなく、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットなどの成功者が、いかに話す練習をしていたかも記されているようでした。本人に秀でたスキルや実績があるだけでは足りず、それをしっかりと伝えていくことが重要であると暗に示されているように感じました。
 フィットする話し方は、場面に応じてさまざまであるように感じられます。結論から話した方がいいときもあれば、相手があまり乗り気でないときは別のアプローチが必要なようにも思います。理路整然と話した方が受け止められることもあれば、言い淀むことで聞き耳を立ててもらえることもあると思います。「なぜ」から話した方がいいとする考えもあれば(参考『WHYから始めよ!』)、ドキュメンタリー番組などでは「何を」を最初にもってくることでインパクトが出ているようにも感じます。ここぞというときの話し方は、多くの偉人たちがおそらく多くの時間を割いて鍛錬してきたように、探求し続けるテーマなのだろうと思いました。

言葉遣いと意見の言いやすさ
 言語の使い方に、その文化圏の人々の自立性や同調性が表れていると指摘している本もありました。『「私」を生きるための言葉』を読んでいる人の感想から、考えさせられたことです。
 米国と日本の違いが紹介されていたようなのですが、米国では話すときに一人称である「I(アイ、私は)」を明確に付けるのだといいます。それに対して日本の場合は、話すときに「私は」と付けることは多くはありません。この違いが暗に示すことは、米国では話したことの責任を「私」が負うのに対して、日本では集団のあたり前として同調を求めているのだというのです。誰かが言った意見はその人の意見ではなく、集団の意見として共有されるということです。そしてそのような違いは、単なる言葉の使い方に起因するものではなく、自己を集団と同一化してしまう日本人の精神性が根強く関わっていると指摘されているようでした。
 個人の問題として考えるときに、日本という文化圏全体に根を張る精神性にまで気を向けることは、すこし重たいかもしれません。しかしこの話を聞いたときに思ったことは、「私は」と付けられている方が、それに対して「私は」と重ねて意見を言いやすいのかもしれないということでした。つまり、「私は」と付けて自分の意見だと表明することで他の意見もあると認識していることを暗に示し、周りが意見を言いやすくなったりしないかということでした。同調することが前提の雰囲気では、「私は」と付けて自分の意見を切り出すのはより難しそうです。いろいろな意見があることがあたりまえということを示すには、「私は」と一人称を付けて話すこともひとつの方法なのではないかと思いました。
 紹介された本の本筋からはずれてしまいましたが、言葉の使い方による場の雰囲気の変化などもおもしろいテーマかもしれません。また本の本筋である、言葉の使い方から見える人の精神性や文化的特性という視点は、とても深くて興味深いものに思えました。


 話すことは日常的に行っている行為ですが、すこし壮大に捉えると、何万年・何十万年前から行ってきたことのはずです。人間の生活や仕事、生きることを支えてきた長い歴史があります。その間、言語自体も、コミュニケーションの手段も多様に発展してきました。きっと深掘りしていくと、普段何気なく行っていることを振り返ることになったり、自分なりに深めてみたいテーマが見つかったりするはずです。そんな壮大な「話すこと」に対して2ヶ月という期間は短いのかもしれませんが、そこは気軽な一歩目として8月末までを目処に読書会を開いていきたいと思っています。なお、「話すこと」読書会の参加者にもらった読書感想を以下に載せています。それでは、読書会でお待ちしています。


〈読書会について〉
 (ほぼ)毎週末の朝10時から、その場で読んで感想をシェアするスタイルで読書会を開いています。事前申込をあまり求めない、出入り自由な雰囲気です。日程などについては、FacebookページやPeatixをご覧ください。
Facebookページ
Peatix
※7月は主催者の都合で7月10,11,18日はお休みします。24日から「話すこと」読書会を再開する予定です。

 読書会の形式や様子はこちらに載せています。

(吉田)

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