2021.11.06

「そうだったんだ」と知ることから。 ーテーマ「価値観の色々」の読書会

知ることで、自分の思い込みに気づいたり、もっと知りたくなったりします。知ることは、自分とは違う経験をもつ人との接点を作り出してくれることのように思えました。テーマ「価値観の色々」の読書会を振り返りました。

(文量:新書の約21ページ分、約10500字)

 「やってしまったな」を思うときがあります。相手がなにか問題を抱えているとき、頭だけで考えてそれっぽい言葉でまとめて、指摘や助言なんかをしてしまったときです。あとから自分自身でその問題を経験したとき、大変さや複雑さを知って、なんと軽々しかったのだと赤面するのです。経験していないことは、やっぱりわからないものです。
 しかし一方で、経験がないからと口を閉ざし、関わることを遠慮するようにしていては、話すことも助け合うこともできなくなってしまいます。これは、経験しているかどうかの差を実感することで作られる、壁であると言えるのかもしれません。この壁を薄くしていくことはできないのでしょうか。

 9月と10月の2ヶ月間は、「価値観の色々」というテーマで読書会を開いてみました。基本的には読みたい本を読むのですが、テーマがあると話題が重なり合ったりしておもしろいので、テーマのある読書会を開いています。そのなかで個人的に、経験の違いは大きいことを感じることがありました。今回は、経験の差による壁はどうすればすこしでも薄くできそうなのか、考えてみたいと思います。もったいぶるような結論でもないので最初に言いますと、やっぱり知ることですこしは壁は薄くできるのではないかと感じました。


読書会の本や話題

 テーマのある読書会とはいっても、テーマに対する本の縛りなどはなく、課題図書のようなものもありません。そのときに読みたい本を持ってきて、読んで、感想を共有し合う時間になっています。そういう自由さがあるからこそ、いろいろな視点や気づきを得られるような気がしています。
 まずは読書会に持ち寄られた本や出た話題について紹介したいと思います。タイトルの一覧になってしまいますが、このような本が読まれました。

異文化理解力 / 沈黙のちから / 世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか / 非営利組織の経営 / マザーグースのうた / 僕はイエローでホワイトでちょっとブルー / スピリチュアルズ 「わたし」の謎 / 無意識の構造 / 天才たちの日課 / 聖書vs世界史 / 失われたいくつかのものの目録 / コンビニ人間 / コンビニ人間 / insight 自己認識力を高める / こちら本の探偵です / 理不尽な進化 / めくらやなぎと眠る女 / 100分de名著 「老い/ボーヴォワール」上野千鶴子解説 / ムダなありがたい保険 / 荒れ野の40年 ドイツ終戦40年記念演説 / 哲学入門 / 高瀬舟 / どんぐり姉妹 / 女のいない男たち / トヨタの会議は30分 / 死に至る病 / 言語学バーリ・トゥード / あるヨギの自叙伝 / コンビニ人間 / 生物多様性 / 民俗学 / 理不尽な進化 / 波 / 思想の現在 / 生物多様性 / ボディマッピング / ソフィーの世界 / イルカも泳ぐわい / カレンの台所 / 反教育論 / マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち / 生物多様性 / ヴェニスに死す / 生物多様性 / 反教育論 / 落ちこぼれ、バンザイ!-スヌーピーたちに学ぶ知恵 / マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か / インスタグラム 野望の果ての真実 / 生物多様性

 参加者の方にいただいた読書感想はこちらに載せています。


 一言で価値観とはいっても、そこからイメージされることはさまざまであることを感じました。
 『ヴェニスに死す』は、栄誉を得ても満たされない老作家が、少年に傾倒していく物語のようでした。なにを・どのように得れば満たされるのかという価値基準や、若さがもつ可能性への普遍的な価値のようなものが感じられました。
 『天才たちの日課』では、さまざまな天才の生活が短くまとめられていたようですが、そこには共通点もあったようでした。天才たちが、生活のなかでどのようなことを大事にしていたのか、興味深かったです。
 また、読書会とは別枠でNHKの連続テレビ小説『おかえりモネ』について雑談する時間も開いたのですが、そこで出た話も印象的でした。『おかえりモネ』は東日本大震災をひとつのテーマにしていました。印象的だったのは、震災に遭った人たちを「被災者」という一つの括りでは、決してみることはできないのだなという話です。なにを失くしたのかがそれぞれに違えば、負っていることも違うということがドラマのなかでは描かれていたような気がします。知らず知らずのうちに抱いている一つにしか見ない括り方やステレオタイプに気づくことができました。

 そして、読書会で個人的に印象に残っているのは、「特権階級」にまつわる話です。『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』の読書感想から、考えさせられました。
 特権階級とは、先祖代々富豪であるとか権力者であるとか、ごく一部の人が属する特別な階級のことを指すのが一般的なのではないかと思います。しかしここで話された特権階級は違いました。たとえば、男性であるというだけで、今の日本社会では特権階級に属することになるのではないか、ということです。男性に有利なように社会全体が作られていると考えられるからです。
 問題を複雑にするのは、特権階級に属する側、ここでは男性が、自分が相対的に良い扱いを受けていることに気づいていないということです。進学も就職も、結婚や出産といったライフイベントも、自分なりに苦労して越えてきたと思っているはずです。たしかに苦労はしたのかもしれませんが、経験していない不公平さに伴う苦労は、見過ごしているのではないかということです。だからたとえば、「あのときは大変だったよね」という話をしても、もう一方の側の人たちのそれとは、次元や質が違うということです。ちなみに、私は男性です。自分が特権階級にいると知らされたとき、なにを言おうとも上すべりするような気が急にしてきました。(あ、読書会では議論やバトルにはなりませんのでご安心ください。)
 価値観とは、主観としてなにに価値を感じるか・なにを大事に思うかといった価値に対する認識を指すのだと思います。価値観は、社会的に定められるものもあると思いますが、個人個人の経験によって築かれるものもあると思います。たとえば、お金に苦労した経験がある人は、お金を人一倍大事に思うはずです。同じ社会環境のなかで生きてきたように思えても個人間の経験の差は大きいはずですが、それに気づいていないことも多いように思います。その認識の齟齬が分かり合えなさを余計に生み出しているように思えました。ですので、価値観の違いのあいだに生まれる壁について考えるためには、「経験の差」から考えてみる必要があるのではないかと思いました。

経験の差と価値観の違い

 価値観は、ひとつには社会環境に大きく左右されるように思います。
 たとえば、砂漠のような地域に住んでいれば水はとても大事で価値のあるものですが、日本のような水が豊富な環境に住んでいれば蛇口をひねれば水が出てくるので、普段あまり価値を感じていないでしょう。ほかにもたとえば、高校や大学に進むことが比較的一般的な日本では勉強できることにあまり価値を感じませんが、そうではない国では勉強ができることは特別なことであるはずです。
 このように価値観とは、生きてきた社会環境にひとつ影響を受けるのだと思います。それは生まれ育った場所だけではなく、世代によっても違ってくるのだと思います。たとえば「家」に対する価値観は世代によって大きく違うように感じます。家を続いていくものとしてしっかりと残していこうとする意識は、下の世代であるほど重要視していないのではないかと思います。家業を仕事にするのではなく会社に就職することが一般的になったことも影響しているのかもしれません。たった一世代違うだけでも、価値観が大きく違うことを実感することは少なくありません。

 しかしさきに挙げた特権階級の話は、社会環境の差ではなく、同じ環境にいながら生じる経験の差に着目しないと見えてこないことなのだと思いました。
 たとえば、男女の兄妹や姉弟では、家庭環境は同じで、通える学校や習い事へかけられるお金などは同じであると言えるかもしれません。育った地域も同じで、日常で会う人も、週末に出かける先も同じであると言えそうです。
 しかし、性別が違うというだけで、兄妹・姉弟それぞれにかけられる言葉や接せられる態度が、違うことがあるはずです。古風な家や地域であれば、長男が生まれたことを明からさまに喜ぶことがあります。進学や就職を考えるとき、希望する先の実績としての男女比が違うことも多いでしょう。同じように面接を受けても、質問が違うこともあるはずです。また、最近実際にこんなことがありました。賃貸マンションの契約の際、平日に必要な手続きに、「奥様がされると思いますが」という前置き付きで説明されたのです。
 同じような人に会い、同じような場所に行き、同じような体験をして、同じような情報に接しているように見えても、それぞれの人が経験していることは違うのだと思います。片一方の人にとってはただ目の前の通過していくような事であっても、もう片一方の人には鮮明に記憶に残っている事が、生活のそこかしこにあるのだと思います。
 ひとりひとりに送られる言葉や態度や情報がそれぞれに違うのは、ごく自然なことだと思います。しかし、性別などのわかりやすい属性だけをみて、その違いが生まれていくことは、人を尊重しているとは言い難いものです。そうした不公平さのもとに積み上がった経験の差が、社会の分断を生んでいくのではないかと思いました。自分と相手とのあいだに分かりやすい違いがあるとき、たとえ似たような環境にいたとしても、違う経験をしているとみた方が適切であると言えるのかもしれません。

 価値とはどのようなものに感じるのでしょうか。どのようなものを大事に思うのでしょうか。経験の差のことをふまえて、次は価値観の違いについて考えてみたいと思います。
 ひとつの考え方としては、必要としているのに欠けてしまっているものに感じるのではないかと思います。逆に言うと、必要としていても満たされてるものには、価値を感じなかったり気づかなかったりするのだと思います。よくある話としては、健康は害してはじめてその大事さに気づく、などということです。普段からあたり前にあることには、たとえ諭されても価値を実感することは簡単なことではないのではないかと思います。それが普通であると感じ、特に着目もしていないから、価値があることだとは感じられないのではないでしょうか。
 たとえば、また話題を転換しますが、障害があるとされる人はなにに価値を感じるのでしょうか。健常者とされる人と同じように物事をラクに進めていくことなのでしょうか。このようなことを考えるきっかけが、『「利他」とは何か』[1]の中の、障害のある人と関わりながら研究をする伊藤亜紗氏が著した章にありました。若年性アルツハイマーを抱える人のインタビューのなかに、このような不満が記されていたのです[1,P47]。

助けてって言ってないのに助ける人が多いから、イライラするんじゃないかな。

ここから感じられることは、障害のある人は、目の前の事をなんでも苦労せずにラクに進められることに、必ずしも一番の価値をおいていないのではないかということです。トラブルもなくラクに進められることが一番の価値なのであれば、助けてもらうことを嫌がりはしないはずです。
 このインタビューに応えた人は、食事のときに割り箸まで割って渡すような、周りの助け過ぎに疑問を投げかけていました。自分がやろうとしたことはいつも周りが先回りしてくれて自分で行為を遂げることは少ないのだと思います。自分がやろうとしたことを自分にやらせてくれないとは、どのような気持ちなのでしょうか。
 健常者の大人であれば、誰かが先回りしてやってくれることなど、ほとんどなくなります。障害のある人とは逆なのです。助けてもらうとラクでいいと思っているのが健常者です。なんでも周りにやられてしまうということは、子どもの頃はありますが、大人になると経験としては少なくなります。だからいつも先回りされる経験をしている人にとってどんなことが価値なのかは、わかりにくいのだと思います。自分でやろうとしたことを自分でできる自律性や、行為を自分の力で遂げることで得られるちょっとした達成感は、価値なのです。日常の経験が違えば、なにに価値を感じるのか、大事にしたいと思うのかは、違ってくるのだと考えられます。
 価値観が違うことを認識しないまま他者と接してしまうと、自分にとっては価値でも相手にとってはそうではないものを押し付けてしまうことになりかねません。場合によっては、さきほどの例のように、価値の押し付けが相手の価値ある体験を奪ってしまうことにもなりかねません。また、価値あるものという認識が自分になければ、相手が大事にしたいと言ってもそれを理解できずに、聞き流してしまうようなことにもなるでしょう。「価値観が違う」という言葉とともに生まれる対立は、互いの経験の差に十分な想像が及ばないときに起こるようにも思われます。

 では、このような経験の差や価値観の違いは、どうすれば埋めていけるのでしょうか。日常のそこかしこで積み重なっている経験の差は、そう簡単に埋め合わせることはできなそうに思えてきます。日常会話ではゆるされる「わかる」とか「共感できる」ということを、その人の経験に対して言うことはなかなかできないはずです。

知ることによる接点の変化

 いろいろな意味で自分にしか見えていないものというのはあるのだと思います。
 自分が生きてきたなかで見たことや感じたこと、うまくいったこと、反対にあまりうまくいかなかったことや理不尽に感じたことなど、そうした経験から物事に対する見方や認識というものがつくられているのではないかと思います。
 しかしその認識は、あくまでも自分の目線から見てきた世界でのことなのかもしれません。
 たとえば、世の中は公平にできているという認識をもっていたとします。それほど豊富ではないまでも人生の選択肢があり、うまくいかないことはあっても努力をくり返すことで成果につなげることができてきたからです。でも、人生の節目のときに選択肢がきわめて限られている人もいます。また、努力が実を結んだり、そもそも努力をしようと思えたりするのは、適した評価尺度が存在していたからかもしれません。たとえば、営業力を評価する尺度はありますが、働きやすさを整える気配りを評価する尺度は乏しいように思えます。適度に認めてもらえることは、もっと頑張ってみようという気持ちにつながるはずです。自分なりの苦労があって選択や努力をしてきたとしても、それをできたこと自体が恵まれていたのではないかというある種の疑念はもっておいてもいいのではないかと考えます。
 もし、自分が大富豪だったら、自分の経験をそのまま世の中に対する認識に置き換えることはあまりしないのではないかと思います。自分は特別であり、普通ではないことが明らかだからです。しかし、特別に贅沢をしているわけでもなく、選択肢が豊富なものすごい自由を享受しているわけでもなく、自分なりに努力をしてそれに応じただけの成果を得てきた人は、自分は普通の感覚をもっていると思いやすいのではないかと思います。そして、普通の感覚から得た物事の認識は、世間一般・他者一般に当てはまると考えてしまいがちかもしれません。このような思い込みが、違う属性にいる人たちとのあいだの分かり合えなさを生み出す要因の一つなのではないかと思えてきます。

 では、自分とは違う人たちとあいだの壁を薄くしていくためにはどうすればいいのでしょうか。ひとつには同じような経験をして、価値観レベルで認識を改めていくことなのかもしれません。しかし、これはこれで窮屈ではないでしょうか。一方がある経験と価値観をもっていれば、もう一方は別の経験や価値観をもっているということが、様々なところにあるはずです。価値観レベルで共感し分かり合うということは、自分の価値観を変えていくということを意味するように思います。それが求められるようでは、歩み寄ることを躊躇してしまうのではないかと思います。さらに壁を厚くしていくことにつながるかもしれません。
 しかし、「知る」という程度の一歩ではどうでしょうか。人の話しを聞いたり、映画やドキュメンタリーを観たり、本を読んだりしながら、自分とは違う立場にある人の生活や考えを知っていくのです。
 この知るということは、社会や他者との接点をすこしだけ変えてくれることのように思えます。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んだときに、実際にそう感じました。

 視覚をはじめ、どこかしらの器官や身体に障害をもつ人は、その部分が欠けただけの存在なのでしょうか。一般的にはそういう認識、あるいはそんなこと考えたこともなかったかもしれませんが、どうやら欠けただけの存在では決してないようなのです。健常者とされる人とは、そもそも違う身体の使い方をしているようです。たとえば、こんなエピソードが紹介されていました[2,P47]。
 著者で美学を専門とする伊藤亜紗氏は、生まれつき弱視で現在は全盲の方に、東京工業大学の大岡山キャンパスでインタビューを行ったそうです。当日は駅で待ち合わせて伊藤氏の研究室まで案内していきます。すると全盲の方は、「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているのですね」と言ったそうです。これに伊藤氏はかなりびっくりしたといいます。たしかに大岡山の南半分は、駅の改札を頂上として研究棟をふもととする山のような形状をしていたのです。しかし全盲の方にそう言われるまでは、山などということを意識したこともなかったようです。
 わたしたちは普段歩いているとき、登っているときも下っているときも、ただ道を歩いているという感覚でしかないかもしれません。登った先にあるお目当てのお店や、周りに並ぶ看板などに目をやりながら、歩くために作られた歩道に沿って進んでいきます。クリスマスの時期の表参道や六本木のように、きれいなイルミネーションで飾られでもしていたら、登っていることすら忘れてしまうかもしれません。
 それに対して視覚に障害があれば、登っている・下っているという感覚から、どこをどんな風に進んでいるのかを認識していくことになります。健常者の場合は、視覚であたり一面を見渡すことで、ほぼ一瞬にして前に進むのに十分な情報を得られます。しかし目が見えなければ、その情報は得られません。そこでどうしているかというのが、先に挙げた「大岡山は山なのですね」という、想像による認識なのだと考えられます。健常者がただ道なりに歩いているときに、登ったり下ったりした感覚的情報と、「大岡山」というわずかな場所に関する情報から、山的な空間に立っていると認識したりしているようなのです。
 ここで言いたいことは、優劣の問題ではなく、認識していることが違うということです。健常者が日常でおおきく頼っている視覚が使えないとなったとき、人は、地名や足裏から得られる感覚的情報などから想像を巡らせて、その人なりの認識を得ていくということです。ほかにも、初めて降り立った場所なのに、いつのまにかトイレの場所を把握できていることもあるようです。健常者であれば、初めて降り立った場所では辺り一面を見回して、自分にとって必要な情報を得ます。それに対して視覚に頼れない人は、耳を使っておそらく周りの人の会話などを聞きながら、トイレなどの場所を把握していくことがあるようなのです。
 つまり、どこか一つの器官がうまく働いていないからといって、ただその一つが欠けた状態になっているのではありません。他の器官や身体の働きを活用して、その人なりに認識を作り上げていっているのだといえます。健常者とは違う身体の使い方をしており、認識も異なり、結果的に経験も違うのだと考えられるのです。

 ここで、すこし話はそれますが、「山を歩いている」というイメージを作り上げられることについて、全盲の方は次のように見解を示していたようです[2,P50]。

たぶん脳の中にはスペースがありますよね。見える人だと、そこがスーパーや通る人だとかで埋まっているんだけど、ぼくらの場合はそこが空いていて、見える人のように使っていない。でもそのスペースを何とか使おうとして、情報と情報を結びつけいくので、そういったイメージができてくるんでしょうね。

得られる情報が少ないことで脳に余裕ができる分、そこで想像を働かせることができるのではないかというのです。この見解は、現代の情報過多の環境は自分で想像や思考をする機会を奪っていると言えるのではないだろうか、という問題を考えるきっかけになりました。
 すこし前まではスマホで見るのは文字が中心でしたが、そこから画像になり動画になってきました。文字よりも画像の方が、画像よりも動画の方が情報量が多くてリッチです。声の抑揚や色や光の変化などが込められていることで、視聴する側も満足しやすくなっているのではないかと思います。しかし一方で、自分なりに想像したり思考したりということは難しくなっているのかもしれません。そんな余裕やすき間がないからです。動画の方がリッチで良いと考えられがちですが、それは注目や高い満足度を獲得しやすい製作者目線のことであって、受け手側からすると必ずしもそうとも言えないのではないでしょうか。動画のことだけではなく、情報全般は多いに越したことはないと考えられているように思えます。しかし自分にとっての経験という意味でいうと、生活のなかで情報が多すぎることは見直したいポイントであると考えます。とはいえ、ソファに座ればリモコンを手にしますし、信号で止まればスマホをポケットから取り出してしまうのですが…。これは、大きな問題です。

 さて、話を戻しまして、視覚などの器官や身体の一部が健常者のように働いていない人は、そもそも違う身体の使い方をしている・違う物事の認識の仕方をしているといえそうです。わたしたちが得ているのとは違う情報から、周囲を把握し、イメージを作り上げ、場所を空間的に認識したり歩いたり会話したりしているのです。
 そんなことを知ったとき、私は急にパラリンピックを見たくなりました。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んでいたのが、ちょうど東京オリンピックの後半あたりだったというのもあります。また、人間の身体の使い方にちょっとした興味を持っていた時期があったというのもあります。そんなさまざまな背景もあって、パラリンピックに出場する選手がどのように身体をつかっているのかもっと知りたくなったのです。
 しかし結局見ることはできませんでした。やはり、生まれつき持ちえなかったり事故や病気などで失ったりした部位が目に入ると、正直いたたまれない気持ちになってしまいました。関わりをもっていくことはそれほど簡単なことではないのだと感じました。
 ただ、道ですれ違ったりエレベーターに乗り合わせたりするような日常的な場面では、変化があったように思います。そっけない感じでもいいのではないかと考えるようになり、実際にそうなったように自分では感じています。生活に困らない身体の使い方をその人なりに習得しているのであれば、過度に気をつかう必要はないように思えます。また、必ずしも援助してほしいと思っているわけではなく自分でできることは自分でしたいと考えているのであれば、あまり気にかけるのも相手にとっては気持ちのいいことではないかもしれません。
 もちろん、どのような応対を望ましいと思っているかは、人によって違うでしょう。しかしそれは、相手がどんな人の場合でも、対人関係全般に言えることです。知ることで得られることは、自分が勝手に作り上げてしまっているかもしれない思い込みに疑いをもち、新たな目で世界を見させてくれることです。

 知ることで、知らなかったことに「しまった」と思うこともあります。しかし同時に、もっと知ってみようという興味関心や意欲のようなものが湧いてきたりもします。知ることは、他者に対する見方や接し方に、ほんのすこしの変化を起こさせてくれます。そこから、自分と相手とのちょうどいい距離や関係ができていくのかもしれません。
 そうしていろいろな人とコミュニケーションできるようになったり、自分にとっての新しい考えや価値観を知れたりすることを、生活が豊かになることといってもいいのでしょう。気を使いすぎるのもお互い窮屈ですが、あまりにも無神経になっていることも避けたいと個人的には思います。知ることで、自分のなかの認識が新たまり、互いにとってよりいい時間を過ごせるようになるのではないかと思いました。


〈参考図書〉
1.伊藤亜紗編著/中島岳志著/若松英輔著/國分功一郎著/磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』(集英社新書)
2.伊藤亜紗著『見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)

(吉田)

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