2020.02.15

考えるスイッチは「変なの」 〜考えることを考える #1〜

リベルでは「考える」時間を共有したいと思っています。ですので、これから少しだけ「考える」ということについて深めていきたいと思いました。「考える」ことを考えてみました。

(文量:新書の約13ページ分、約6500字)

 おそらく、人間は古来より「考える」ということに向き合ってきたのだと思います。
 パスカルの「人間は考える葦である」とは、「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」と説明されています。パスカルは17世紀を生きた人間なので、「考える」ということが人間の特質であることが、少なくともこの頃には強く認識されていたと言えそうです。
 また、紀元前4世紀頃には、アリストテレスなどの有名な哲学者を生み出した古代ギリシャが存在していました。彼らは、アゴラという広場で哲学談義に華を咲かせていたと言われています。
 これらのことから、「考える」ということは人間にとっての武器であり、そのような特質を備えていることを尊んできたのではないかということが想像されます。

 ここ最近では、AIの登場によって、人間に求められる「考える」とは何かということが、改めて問い直されているのではないかと思います。また、そもそもリベルは異なる視座から物事を「考える」ことで、新たな視点やものの見方を得ることを目指しているので、「考える」ことに詳しくなくてはいけません。このような背景から、「考える」ということの理解を深めるために考えていきたいと思います。

 ・・・しかし、「考える」を考えるといっても、何から考えればいいか分かりません。そこで、哲学者・野矢茂樹先生の著書『はじめて考えるときのように』[1]から学んだことを切り口として、考え始めてみたいと思います。野矢茂樹先生は、著書を通じて「考える」に対して様々な示唆を与えてくれました。


「変なの」が考えるきっかけをくれるらしい

 野矢先生は著書の中で、上手に考えるための方法としてこのようなことを示してくれました。

「さまざまな意見に出会うこと、いろんなものの見方に出会うこと、新しいことば、新しい意味の広がりに出会うこと。」「そうしてはじめて、ぼくはぼく自身に出会えるわけだし、ぼくが思ってもみなかったところに踏み込むことができる。」

 さらに、このような言い換えでも表現しています。

「変なひとと出会う。変なものと出会う。」

 つまり、いつも通りの景色や時間からは「考える」を発動させることは難しく、「なんか変なの」に接することで「考える」が発動するのだと解釈しました。そういう意味で、野矢先生はこのようにも言っています。

「その意味では、共感よりも違和感や反感の方がだいじだ。」

 これはあくまでも「考える」を発動させるためには、共感よりも違和感や反感が大事であるということです。人生全体においては、共感もとても大切です。
 私たちが普段「なんか変なの〜」と言ったり思ったりするときは、単なるネガティブな感情というよりは、少し興味をそそられるような、ニヤッとするような感情も抱いているのではないでしょうか。
 「変なの」は人間にとって人生をすこし華やかにするものかもしれません。そして同時に、「考える」を発動するタネでもあると言えそうです。

 では、「変なの」をタネとして考え始めた先には何が広がっていくのでしょうか。

「変なの」の先にある大発見

 生物学者で主に進化理論を研究している吉村仁先生は、アメリカに生存するあるセミの「変な」特徴に着目しました[2]。それは、次のような特徴です。

①日本のセミは6〜7年で成虫になるのに、そのセミは13年 or 17年かかる
→なぜこんなに長い時間をかけて成虫になるのか?

②そのセミは、1平方キロメートルにも満たない狭いエリアに集中的に発生する。その数は、100メートル四方に40万匹、1メートル四方に40匹
→なぜこんなにいっぺんに同じ場所で発生するのか?

③そのセミは決まって13年ごと、17年ごとに大量に発生する
→なぜ13年と17年なのか

 言われてみると変、ですよね。特に③なんて変です。数字としても中途半端だし、13年で成虫になれるのであれば14年とか15年とか、17年よりも短く地上に出てきた方が繁殖のサイクルが短いので、生物の繁栄にとっては良いはずです。
 しかし、これらの特徴は氷河期を含む地球の長い歴史を考慮すると、生物が生き残る上では合理的であるという大発見につながっていくのです。以下にその大発見のほんの一部を紹介していきますが、少し長くなるので読み飛ばしていただいても問題ありません。
 ここで言いたいことは、①②③のようなよくよく考えてみると「変なの」が、「なんでだろう」という疑問を生み「考える」を発動し、頑張って突き詰めていくと大発見につながるのだということです。つまり、「変なの」という感覚には価値が潜んでいるということです。

―――――
 ここでは①②③の「変なの」の秘密全てを細かく紹介することはできませんが、特に③の特徴は面白いですよね。
 前提として、成虫となって地上に出てくるまでの周期が定まっていることは繁殖の上では重要です。なぜなら、みんなバラバラのタイミングで地上に出てきてしまったら繁殖相手を見つけることが難しくなってしまうからです。みんな同じタイミング・周期で、一斉に成虫になって地上に出てきた方が相手を見つけやすいため、繁殖活動を行う上では合理的なのです。
 ここで、大事になってくるのは「いかに成虫の周期性を維持するか」ということです。その周期性を維持するのは、13年周期のセミは13年同士で、14年周期のセミは14年同士で、15年周期のセミは15年同士で、というように同じ種同士でのみ繁殖活動を行う必要があります。
 ほかの種と繁殖活動をしてしまう「交雑」は避けなければいけません。交雑をしていまうと周期がバラバラになってしまい、成虫になって地上に出てきた時に繁殖相手を見つけることが難しくなってしまうからです。

 その交雑を避けるにあたって、13と17が「素数」であるということが有効に作用するのです。
 素数とは、1とその数以外の数では割り切ることができない数のことを言います。たとえば、13は1と13以外に割り切れる数がないので素数ですが、14は1と14以外にも2や7でも割り切ることができるので素数ではありません。そして、この素数を周期に持ったセミは、他の数字の周期のセミに比べて、異なる周期のセミ同士で地上に出るタイミングが被ることが少ない、つまり交雑することが少なくなるのです。

 少し分かりにくいので具体例を挙げてみます。
 パターンAとして、12年ゼミと18年ゼミが出会ってしまう周期は、36年周期となります。12年周期の3回目(12×3=36)と、18年周期の2回目(18×2=36)が同じ年数となり、そこで両者は出会って交雑してしまうリスクが生じるのです。
 他方で、パターンBとして、13年ゼミと17年ゼミが出会ってしまう周期は、221年周期になります。13年周期の17回目(13×17=221)と、17年周期の13回目(17×13=221)が同じ年数となり、そこで初めて両者は出会います。
 これらの36や221といった数字は「最小公倍数」と呼ばれるものです。この計算は一例ですが、素数は他の数字に比べて最小公倍数が大きくなる性質があります。
 したがって、素数を周期とするセミは、他の周期のセミと出会う確率が小さくなり、交雑を避けられ繁殖活動がうまくいき、今日まで生き残ることができたのです。このようなアメリカに生息する13年と17年を周期とするセミを、吉村先生は「素数ゼミ」と名付けました。
 より詳しく分かりやすい説明は、『素数ゼミの謎』(吉村仁著)に書かれています。絵や表とともにまるで絵本のようにデザインされており、また「公倍数」などの用語の説明も丁寧にされているため、小学生くらいのお子さんと一緒に読んでみるのも良いかもしれません。(Amazonのレビューには実際にそのように利用したというものがありました。)

 このように、セミに感じた「変なの」という感覚や興味が、生物の生存戦略や進化の奥深さを説明するまでに至りました。なんてことはない日常に、こんなことがもっと溢れているのかもしれません。

「変なの」の先にある俯瞰的視点

 もう一つ、「変なの」から考える先にある広がりについて考えてみたいと思います。これはあくまでもリベルなりの考えですが、「環境とモノ(プロダクトやサービスなど)と人の視点・感覚」には以下のような関係があるのではないかと考えています。

スクリーンショット 2020-02-15 11.00.32


 iは、普段から慣れ親しんだ環境Aで、慣れ親しんだモノaに接している時の状態を示しています。この時、人は何の違和感もなくモノaを見たり利用したりしています。
 ⅱは、普段とは違う別環境Bにフィットしたモノbに出会った時の状態を示しています。別環境Bにフィットはしていても、モノaに慣れ親しんだ人にとってはモノbはこれまでに無いモノです。
 人は、これまでにないモノに出会っても、「変なの」程度の感覚しか持てないのではないでしょうか。それを見た瞬間には、モノの機能やデザインの背景までは理解が及ばないはずです。
 しかし、この「変なの」を掘り下げることには意義があると考えます。なぜなら、そのモノの機能やデザインの背景には、モノがおかれた社会環境が影響していると考えられるからです。

 たとえば、縄文土器のうねうねした文様には「変なの」という感覚を覚えます。それほどモノが潤沢ではなく、今よりも衣食住を整えることに必死であったと想像される時代に、土器になぜあれほどのデザインを施したのかという「変なの」という感覚です。
 しかし、その背景を探っていくと、デザインが施された土器は気持ちや価値観を共有するためのメディアとしての役割を果たしていたのだそうです。そして、そのメディアとしての土器が必要になった背景としては、縄文時代に始まった集住化・定住化により、人同士のストレスが増えコミュニケーション手段が必要とされたためという一つの解釈が成されています。

 つまり、「変なの」という感覚の先をたどって考えていくと、より俯瞰的な社会環境や人間自体の理解につながっていくと考えられるのです。

 もう少し現代的な例も挙げてみます。
 先日ひょんなことからMBAの説明会に参加することになりました。そこでは、一般的なMBAよりも経営に近い人を対象とした「EMBA(エグエクティブMBA)」というものの意義やカリキュラムの説明がされました。その説明の中に、興味をくすぐるような「変なの」という感覚を覚えました。
 それは、経営者にはセンスが必要だが、センスは教えられない、しかし教えられないことでも養う場を提供することでスクールとして成立させている、という点でした。その受講料は年間数百万円というレベルです。
 そのようなあいまいで不確実な価値提供にそれだけのお金を払う人がいるのか、正確には企業派遣が多ので企業があるのか、という「変なの」を感じたのです。その「変なの」の背景には、価値があいまいなものには人はお金を出しにくい、ましてや大金を払うという意思決定はしにくいという自分なりの常識があったからです。特にこの傾向はto Cではなくto Bの場合に顕著に表れると認識していました。
 そこから推察される背景の環境変化は、以下のようなことでした。
・企業サイド:スキルではなくセンスを備えた人材を企業が逼迫度高く必要としている。あるいは自社で育成することが困難であると明確に認識している
・ビジネススクールサイド:MBAがコモディティ化しているためEMBAのような新たなチャレンジが必要とされている

 この推察が正しいかどうかは分かりませんが、EMBAというモノに感じた「変なの」という感覚から、なんとなくではありますがその周辺環境にまで思考を巡らせることができました。
 「なんでこんなものが売れ始めているんだろう」という「変なの」の先には、消費者のライフスタイルの変化を見て取れるのかもしれません。「なんで自分がこんなものを買うようになったんだろう」の「変なの」の先には、自分自身の価値観の変化を見て取ることができるかもしれません。「なんでこの地域ではこんなサービスが利用されているんだろう」の「変なの」の先には、生活インフラや居住者層などの違いが影響しているのかもしれません。
 「変なの」という感覚の先をたどって考えていくと、より俯瞰的な環境変化や環境の違いを理解するに至るのではないでしょうか。

 「変なの」を考えた先にどうするかは人それぞれだと思います。自分の仕事や人生の進歩を求めてさらに考えていってもいいと思いますし、頭の体操やトレーニングに活用してもいいと思います。
 いずれにしても、「変なの」とは「考える」を発動させるスイッチであり、その考えるの先には新たな世界の広がりを見て取ることができるのだと言えそうです。

「変なの」をより感じるために

 これまで紹介してきたように、「変なの」は身の回りに多く存在します。しかし、もっと敏感に、あるいは人とは違う角度や深さで「変なの」を感じる方法があります。それは、「学ぶ」ことです。

 「変なの」は、「普通」を知っているからこそ感じることができます。それまでの自分の概念にはない全く初めてのものを見聞きしたり経験しても、それは「そういうものだ」と受け入れ、「変なの」とは思わないのではないでしょうか。自分の中に、普通、常識、既存の枠組みがあるからこそ、「変」という感覚が芽生えるのです。(ということが、『はじめて考えるときのように』の中に書いてありました。)

 素数ゼミも、日本のセミの周期や出現の仕方が知識として備わっていたから「変なの」という感覚を持てたのだと考えられます。つまり、何か発見をしたい時、すぐに周りの「変なもの」を探し回ることも一つの手かもしれませんが、既存の知識や理論を学ぶことで発見につながることもあると言えそうです。学ぶことの先に「変なの」があり、それが起点となって発見や思考の広がりや深まりが生まれると考えられるのです。


 「自分で考えなさい」とはよく言われる言葉ですが、ここまでを振り返ると、「考える」とはどうやら外的刺激によって発動するものなのではないかと考えられます。自分の中の常識から外れる観察結果や、よく分からないけど何だか惹かれるモノなど、周りの「変なの」が考えるスイッチを入れてくれるように思われます。また、その「変なの」を感じさせてくれるのも、既に世の中にある理論や常識であり、これも何らかの媒体を通してインプットしなければいけません。
 今のところ、どうやら「考える」とは外界との相互作用の中で発動するというのが一つの理解となりそうです。

 人間が古来より向き合ってきた「考える」ということ、機械の進化により生じた人間に求められる「考える」とは何かという問い。なんだかよく分からないけど、「考える」を考える必要があるように思われる世の中だから、引き続き「考える」を考えていきたいと思います。


〈参考文献〉
1.野矢茂樹著『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)
2.吉村仁著『素数ゼミの謎』(文藝春秋)

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(吉田)

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