2021.10.30

テーマについて。 ー考えることと生活 #1

考えることを、しなくていいと言われたらどうしたいでしょうか。考えることは生活のなかにごく自然にあるけれど、だからこそ知らないうちになくなっていくかもしれません。考えるかどうかを選択するにあたって。

 これからは、考えること自体が個人の選択の問題になっていったりするのかもしれません。なんでもすぐに知れるようになってきているからです。
 しかし、すぐに知れることや、すでに知っていることが多いことは、必ずしもいいことばかりではないと思います。たとえば、こんなおもしろい体験を逃してしまうことになります。

 いつもぶんぶん周りを飛び回っている虫がいます。ハエです。人間慣れしているのか目の前に止まったりするので、姿形もよく見知っています。
 ある時、ものすごく変なハエが目の前に現れました。とにかくデカイのです。何倍もありそうな巨大なハエに驚くとともに、想像が巡ります。なぜこんなにデカイのか。
 ハエの親玉なのか、女王アリならぬ女王ハエなのか。人間の家に潜入したら食料が豊富で食べすぎて巨大化したのか。はたまたゴジラのように放射線を浴びて突然変異したのか。あらゆる可能性が頭を巡ります。
 しかしこんなことは巨大なハエを写真に撮って画像検索すればすぐに知ることができます。ハエではなく、セミという全く違う生き物だったのです。

 人はその気になればさまざまな可能性に思いを巡らせることができるのだと思います。たとえば、バナナは食べ応えや食感がイモに似ていると私は思っています。もしかして、系譜をたどるとイモと祖先を同じにしているのではないか、なんてことも思ってしまいます。
 考えるとは、こういう未知なるものへの可能性の模索を言うのではないでしょうか。そして考えているとき、ノルマや責任を課されてなどいなければ、それは楽しい時間であるはずです。自分の思わぬ発想や勘違いが笑い話にもなるでしょう。
 哲学者の野矢茂樹氏は、『はじめて考えるときのように』[1]のなかで、「考える」ことについて次のように言っています[1,kindle892]。

いろんな可能性を思いついて、いろいろと試してみるほど、そしてその可能性が現実から飛躍していればいるほど、ぼくらはそれを「考えている」と言いたくなるだろう。

自分が変だと思うものに遭遇したとき、「もしかして…」と変な想像を膨らませます。変なものに遭遇したときだけではなく、手に入れたいけどなかなか手に入らないものがあるときも、「もしかして」が巡ります。もしかして、こうやったら手に入るのではないか、別のやり方ではどうかと可能性を模索するのです。可能性の世界に身を投じているとき、「考えている」というのだと思います。

 しかし知ることで、この「もしかして」の連鎖はストップします。考える必要がなくなるとも言えるでしょう。巨大なハエがセミだと知れば、「もしかしてハエの親玉なのではないか」なんて考えることはなくなります。バナナはフルーツだと知っていれば、もしかしてバナナはイモなのではないかなんて考えないのでしょう。知ることで、可能性の旅は終わります。現実とされるものに戻されるのです。その一方で、どんなに正しいとされることを突きつけられても、探求し続ける人もいます。そういう人が、変人から偉人へと成っていくのだと思います。

 セミやバナナのことなどだけでなく、これからは自分の生き方についても、もしかしたら知れるようになっていくのかもしれません。ネット上に蓄積された自分の足跡から導き出される趣味趣向や、DNAから知ることができるかもしれない適性を、なんらかのデータベースと照合させれば生き方のレコメンドなんかもできるのでしょう。自分で「もしかして」と可能性を模索していくことは、あらゆる面において、もはや必須のことではなくなっていくのかもしれません。
 もしも、考えなくても生きていけるようになったとき、考えなくても生活できるようになったとき、考えるかどうかはどんどん個人の選択に委ねられるようになっていくのではないでしょうか。考えないでも済むのならばそれが標準となり、考えることはあえて選んでいくオプションのような位置付けになるかもしれません。そんなことは考えられないと思うかもしれませんが、今や人とリアルで会うこともオプションになっているような気がします。あたり前にやっていたことが、いつしか特別なこと、オプションになっていくことはこれまでもずっとあったのだと思います。

 そんなことを考えているとすこし怖くなってきますが、もし考えること自体がオプションになるのであれば、考えることが生活や生きることにどのように関わっているのか、一度振り返ってみることは大事なことのように思います。ただなんとなく考えることが生活のなかから失くなっていくのも味気ないでしょう。考えることの意味について、損得だけではなく、生活のおもしろさや豊かさにどう関わっているのかという観点も交えて、考えを巡らせてみたいと思っています。これから何回かにわたって、そんなことを考えてみたいと思います。今回は、着目してみたいと思っているキーワードをいくつか簡単に書いて終わりにしたいと思います。


哲学は世界をどう変えたのか

 最近は『ソフィーの世界』[2]という児童文学を読んでいます。14歳の少女・ソフィーのもとに手紙が届くのですが、そこには哲学的な問いや哲学の歴史などが書かれています。紀元前にまでさかのぼって、哲学者が世に登場することで世界がどのように変わっていったのかが手紙に書かれているのです。まだ序盤しか読んでいませんが、印象的だったのは手紙のなかのこの記述です[1,P48]。

こうして哲学者たちは宗教から自由になりました。

宗教とは、ここでは自然現象などを説明した神話のことを指しています。たとえば、雷はある神がある武器を振り下ろしたときに起こる、といった神話です。哲学者は、人々のあいだで信じられていた神話を怪しく思い、批判していきます。そうして、自然現象や世界のことを、ひとつひとつ説明していこうと試みていきます。そうすることで、世の摂理や真理とされていた宗教・神話から解放されていったというのです。
 物事の前提や常識から疑う哲学は世界をどのように変えていったのでしょうか。そして、哲学的に考えることを学んだ14歳のソフィーは、どのように変わっていくのでしょうか。個人的にはこちらの方が気になっていて、哲学を得ることによって人がどう変わるのかは興味深いです。続きを読みながら、考えてみたいと思います。

集団だと考えなくなる

 考えるかどうかは選択の問題、と言ってはみましたが、ひとりひとりが考えないことで起こることは知っておいた方がいいのではないかと思うことがあります。そのひとつが「群衆心理」です。
 読書会で『群衆心理』[3]を読んでいた人の感想を何度か聞いただけですが、人は一人でいるときよりも、集団になったときの方が、考えなくなるというのです。周りの考えを正しいと思い込み、それを自分の考えとして言動に反映させていくようなのです。あのナチス・ドイツを率いたヒトラーもこの群衆心理を利用していたといいます。人は案外簡単に操られ、残虐すぎる行為にも及んでしまうようなのです。
 知識や考え、情報などをなにかに委ねるということは、操作される危険をはらんでいるということなのだと思います。すこし怖い話として、群衆心理については理解を深めておきたいと思っています。

読書は人をバ〇にする…?

 これも、なにかに委ねすぎると、、、という話ではあるのですが、群衆心理よりは愉快・不愉快の問題で片付けられるものかもしれません。
 ショーペンハウアーは『読書について』[4]のなかで、本は読めば読むほどバカになる、というようなことを言っているのだそうです。私も序盤だけ読みましたが、たしかに刺激的な表現で、本を読みすぎることなどを批判しています。それを本に書くあたりがショーペンハウアーのすごいところ、驚きです。この本を手に取った人は、本を読みながら本を読んでいる自分を批判されることになるからです。一体何人の人が、読んでいる際中にこの本を投げ捨てたことでしょう。
 しかしショーペンハウアーも本は読んでいたはずなので、どういう読書を批判しているのか読んでみたいと思います。本を読むと、頭が疲れます。しかしそれと考えることとは、きっと違うということなのでしょう。ショーペンハウアーに、どういう本の読み方がいいと考えているのか、聴いてみたいと思います。

創作者の生活

 作品でも研究でも、独自のものを生み出す人は、どんな風にその考えや想像を生み出しているのか気になります。
 先日、NHKの100分de名著で作家・ヘミングウェイの特集をしていました。ヘミングウェイは、なにかアイディアが閃いたらあえてすこし寝かせて、もっと湧いてくるのは待つのだそうです。そういったヘミングウェイの生活が覗けそうな『移動祝祭日』[5]からは豊かな発想のヒントが得られそうな気がしました。ほかにも宮崎駿の『出発点ー1979〜1996』[6]も、読みかけで積読になっていますが、同じような印象を持っています。
 偉人たちはどのようなものに触れ、どんな気持ちで事にあたっていたのでしょうか。ヘミングウェイでも宮崎駿でも、あるいはダーウィンのような学者でも、その生活や心の持ち方にはとても興味があります。それを専門とする人まではいかなくても、自分で考えて自分なりの何かを生んでいけることは、きっと充実につながっていくのだと思います。


 このコンテンツを作りながら考えることについて、いろいろと巡っていきたいと思います。考えることは生活や生きることに、一体どんなことをもたらしてくれているのでしょうか。

 


〈参考図書〉
1.野矢茂樹著『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)
2.ヨースタイン・ゴルデル著/池田香代子訳『ソフィーの世界』(NHK出版)
3.ギュスターヴ・ル・ボン著/桜井成夫訳『群衆心理』(講談社学術文庫)
4.ショーペンハウアー著/鈴木芳子訳『読書について』(光文社古典新訳文庫)
5.ヘミングウェイ著/高見浩訳『移動祝祭日』(新潮文庫)
6.宮崎駿著『出発点ー1979〜1996』(徳間書店)

 
〈「考えることと生活」他のコンテンツ〉

(吉田)

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