リベルのブックレット『遊動する生 〜ちょうどいい自由をさがして〜』に関して投稿いただいた感想です。
つやまさん(2021年3月23日)
【印象に残ったところ】
・縄文時代は一つの統一された国があったのではなく、言語も生活様式も異なる小集団が並存し、交易によるネットワークをつくっていた。集団の規模が大きくなり三内丸山のような大規模な集落が現れはじめると、血縁関係にない多数の人々をうまく統治することが課題になってきたが、祭をおこなったり共同の墓地をつくりモニュメントを建てたりすることで、集団への帰属意識を高めていた。
・縄文人は、亡くなった子供を子宮に見立てた土器に入れて埋葬することで再生を願うなど、人間や動物などが生と死の間を循環するという死生観をもっていた。また、人智を超えた大いなるものに畏敬の念を抱き、普段の生活をしている世界とは別のもう一つの世界である『異界』の存在を身近に感じながら暮らしていたと考えられている。
・大陸からもたらされた稲作を導入するということは、単に食糧を得る方法が変化するだけではなく、威信財や銭によって人々の間に身分が生まれる社会システムや、人間が自然を制御し利用する世界観を受け入れることを意味していた。アイヌ民族などはこれを拒絶して、縄文時代の延長線上にある贈与や分配をベースとした公平で平等な社会システムや、人間は自然の一部であり共生する関係であるという世界観を、その後も独自に維持していた。
・平等と公平を重んじる縄文的な社会は理想郷のようにも思えるが、一方で個人の努力や能力によって得られた成果を独占することが認められないため、自分の能力を活かして目標を達成するという人間が本来持っている喜びや意欲が削がれるという側面も持っている。
【感想】
縄文時代の社会は身分の差がなく争いもない、平和で理想的な社会というイメージが強かったのですが、集団の規模が大きくなるにつれて、明確ではないにせよ指導者が現れて何らかの統治をしていたということで、やはりいつの時代にあっても人間の本質は変わらないのだな、と理想化しすぎていた見方が改められ少し失望に似た感覚も持ちました。弥生時代にはじまる所有や階級の概念がある文化への変遷についても、稲作の到来で突如として価値観が変わったわけではなく、様々な面で十分に下地が整っていたからこそすんなりと受け入れることができたのかな、と感じました。とはいえ、縄文人のライフスタイルや死生観などには依然として魅力を感じる部分も多く、現代のあまりにも効率やスピードが偏重される社会の価値観から脱出しちょうどいい生き方や個人としての幸福感を見つける上で、そのエッセンスを取り入れることが役に立つのではないかと思いました。
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