2020.02.22

「考える」という人間の力 〜考えることを考える #2〜

「考える」ことを他の生物と比べたり、人間の歴史を振り返ったりしながら考えてみました。改めて「考える」ことは人間の特徴であると感じられました。「考えることを考える」第2弾です。

(文量:新書の約12ページ分、約6000字)

 地球上で、人間だけが創り上げることができた文明社会を見ていると、人間は他の生物とは違う力を有していると思わざるを得ません。決してその力を誇示したいと思っているわけではありませんが、その力を認め、大切に養うことで、これからも可能性を開いていけると思うのです。

 人間が有する他の生物とは違うあるいは多少なりとも秀でた「その力」とは、「考える力」であると考えます。今回は人間が有する考える力について、前回と同様、哲学者・野矢茂樹先生の著書『はじめて考えるときのように』の力を借りながら考えてみたいと思います。

考えるのは人間だけ?

 そもそも、考えるのは人間“だけ”が有する力なのでしょうか?他の生物との比較を入り口として、人間が有する考える力について深めていきたいと思います。

 この質問に答えるのは容易ではありません。植物や昆虫は一見考えていないように思えますが、実は考えているかもしれません。
 動物でいうと、カラスなどはエサの獲得の方法などに考えている様子を見て取ることができます。しかし、直接聞くことはできません。もっと言うと、人間だって「考えている」と言っても実際は考えていないかもしれません。この質問に対する答えを見つけるには、「考える」について、ある程度の客観的な定義をしなければいけません。

 哲学者・野矢茂樹先生は、その著書の中で「考える」ということについて、こう説明していました[1]。ここでは、要約して紹介します。
 たとえば、チンパンジーが木に登って慣れた様子でバナナを採って食べていても、それは考えているとは言わないのではないでしょうか。しかし、ガランとした部屋の天井からバナナを吊るして、それをチンパンジーが採るまでの過程を見たらどうでしょうか。
 最初、チンパンジーはジャンプして採ろうとしますが、高すぎて届きません。チンパンジーは気づきます。部屋の隅には箱が置いてあったのです。チンパンジーは箱を持ってきて乗っかって採ろうとしてみます。しかしそれでも届きません。そこで今度は箱を縦にしてみましたが、それでも届きません。そしてさらに、箱を何個も重ねてみました。ついに、チンパンジーはバナナを採ることに成功したのです。

 どうでしょうか、このバナナを採るまでのチンパンジーの過程を想像すると、それは「考えている」と言うことができるのではないでしょうか。
 他方で、もしチンパンジーがガランとした部屋に入った途端に、迷うことなくせっせと箱を重ねてバナナを採ったら「考えている」とは言わないのではないでしょうか。
 つまり、私たちは、既に知っている方法を用いたり、反射的・習慣的に動いたりすることに対しては「考えている」と認識しないと言えます。

 野矢先生は、考えているか否かの違いを表すポイントは「もしかして」にあると言っています。
「もしかしてジャンプしたら、いやダメか。」「もしかして箱に乗ったら、いやダメか。」「さてと…じゃぁもしかして箱を縦にしてみたら、いやダメか。」「う〜ん…重ねる!?、採れた!」

 このように、「もしかして」の世界に入り込んで、あーでもないこーでもないと思案して試してみる過程を「考えている」と言うのではないかということです。少し言い換えて、考えるとは「現実性から可能性の世界に入っていくことを意味する」とも表現しています。

 さらに、この意味を考慮すると、考える上で大切なことを次のように言っています[1]。
「現実ベッタリなら「考える」ということは出てこない。」「考えるということは、現実から身を引き離すことを必要とする。」「現実からいったん離陸して、可能性へと舞い上がり、そして再び現実へと着地する。」「こんな運動がそこにはなくちゃいけない。」

言い換えると、考えるとは、可能性を想像し、それを試行錯誤の中で現実に創造していくことであると言えるのかもしれません。
 考えるという行為をこのように定義するならば、確かに先ほどのチンパンジーも考えています。カラスが、車道にクルミを置いて車に殻を割らせるという方法も、「もしかして」と思案する中で身につけた方法でしょう。反対に、私たちの日々の行為の中には、ルーティンや慣習として行っているものもあり、その時には考えているとは言えなそうです。

 では、冒頭の「考えるのは人間だけ?」という質問には、どのように答えておくのが妥当なのでしょうか。それは「考えるのは人間だけではないが、その“程度”に違いが見受けられる」ということではないかと思うのです。

人間の「考える」は止まらない!?

 考えるということが「現実性から可能性の世界に入っていくことを意味する」のであれば、その現実性と可能性の乖離の“程度”が考える力の大きさを示すとは言えないでしょうか。言い換えると、少し前の現実と、可能性を想像し新たに創造した現実との差が、考える力の大きさを示すということです。

 これは、ドイツのシュターデル洞窟で発見された象牙彫りの「ライオン人間」の像です。

ライオン人間 (1)


 およそ3万2000年前のものと考えられており、芸術作品というだけではなく、おそらく宗教的な意味を持っていたと考えられています[2]。
 一体何を想像して、人間の体とライオンの頭を組み合わせた像を創造したのでしょうか。このような偶像は、人間以外の他の生物の世界では見受けられません。

 ほかにも、巣=家を見ても、人間と他の生物の考える力の違いを見て取れます。巣は、雨風や寒さ暑さをしのいだり、エサを貯蔵しておくことに利用されます。動物は、穴を掘ったり、木に穴を開けたり、草木を集めるなどして巣を作ります。人間も、かつては洞窟に住んでいたと考えられており、他の動物と同様、自然を利用して住み処としていました。では、何をきっかけとして現代のような人工的な家を作り始めたのでしょうか。
 進化理論を研究する静岡大学の吉村仁先生は、人間の家作りの起源は農業にあったのではないかと考えています[3]。人間の農業は約1万年前に始まったと言われていますが、農業では畑を管理することが求められ、遠くの洞窟ではなく、畑の近くに定住することが必要になったからではないかということです。
 最初は、草木だけで作った簡単なテントのようなものだったのではないしょうか。その後、定住化が進むにつれてより堅牢な家が求められ、柱を立て、壁のようなものも作られていったのかもしれません。また、自然環境に対応するために、湿気や害獣の対策として床を高くしたり、寒さをしのぐために竪穴を掘って地面を低くしていったのかもしれません。
 そこには、様々な「もしかして」という可能性と現実性の間の往来があったと想像されます。そして現代では、鉄筋コンクリート、耐震・免震構造、オール電化など、様々な機能を備えた家を作るに至っています。

 このような「ライオン人間」や巣・家などの創造物を見ると、人間の「もしかして」と考える力は果てしないものであると感じられます。想像力が豊かすぎる人は少し距離を置かれてしまうことがありますが、人間はそのような力をもって今の高度に文明化された世界を創ってきたのです。

「アイディア」と「考える」

 さらに、「もしかして」や「想像と創造」というキーワードから、「アイディア」という言葉が頭に浮かびました。「アイディア」と「考える」ということには、どのようなつながりがあるのでしょうか。「アイディア=考える行為」なのでしょうか。「考える」を深めるために、この点についても考えてみたいと思います。

 原著の初版が1940年に出版され、日本では今でも版を重ね続けているロングセラー『アイデアのつくり方』(ジェームス・W・ヤング著)には、アイディア作成の一般原理が以下のように記されています。

「アイデアとは既存の要素の組み合わせ以外の何ものでもない」

 これを読んだ時、ソフトバンクグループ・孫正義氏のあるエピソードが頭に浮かびました。孫氏は、16歳で高校を中退しアメリカに渡り、カリフォルニア大学バークレー校に入学しました。アメリカでは「世界で一番勉強した」と言うほど勉強に明け暮れていたそうです。
 ただ、将来的には起業を志していたため、何らかの方法で軍資金を貯めなければいけません。他の学生のようにアルバイトをしていては勉強の時間がなくなってしまう。そこで考えたのが、発明をすることによって軍資金を得ることでした。
 しかし、勉強が優先であるため、発明の時間にとれる時間はわずかしかありません。そこで、孫氏は発明を生み出す装置を発明したのです。
 それは、異なるキーワードをコンピューターで自動的に組み合わせ表示させるというものでした。その中から筋の良いものを見つけ出し、発明に結びつけたのです。その結果生み出されたのが電子翻訳機で、孫氏はそれをシャープに売却することによって1億円を超える軍資金を手に入れました。これは、『アイデアのつくり方』の「アイデアとは既存の要素の組み合わせ以外の何ものでもない」を体現する装置であると言えます。

 しかし、ここで疑問が浮かびます。「単に異なる要素を組み合わせることは考えていると言えるのだろう?」ということです。孫氏はその組み合わせ作業を機械化しました。
 その機械的にはじき出される過程に、「もしかして」とか「想像と創造」という過程は含まれているのでしょうか。答えは「No」であると考えています。
 考える過程は、組み合わせられた要素の先にあるモノを想像するところに、さらにはそのモノの意味を想像するところにあったのではないでしょうか。電子翻訳機は、「電卓」と「和英辞書」あたりが機械的に組み合わせとして表示された結果のものではないかと想像しています。
 その組み合わせが表示され、「もしかしたら電卓のように文字を打ち込んだら画面に翻訳が表示される装置はアリかもしれない」と想像する。そして、そのような装置があれば、言語の壁を越えてコミュニケーションができる。それが意味するところは、世界中の学問や文化を学べるようになることかもしれませんし、あるいは世界平和につながるということかもしれません。
 孫氏が、その当時どこまで想像していたかは分かりませんが、異なる要素の組み合わせのアイディアを世の中に必要とされる発明品に昇華させる過程には、モノに対してだけではなく、そのモノの意味に対する想像もあったのだと考えます。
 たとえば近年急拡大をしているメルカリは、家の中にはまだまだ余剰なモノがあることに気づき、それが流通した先に物が捨てられにくい世の中を想像したと言われています。そして今では、人々の購買行動に影響を与えるほどに発展しています。
 そのような大きなサービスを作り上げる過程は、まさに想像と創造であり、サービスによって巻き起こる様々な現象や顧客行動への意味付けの連続であったと想像されます。

 実生活に直結する発明品やサービスだけではなく、私たちが生きる文化や文明に対しても同様のことが言えます。人間は、物質的な面だけではなく精神的な面でも、「もしかして」と想像し文明を築き上げてきました。
 たとえば、縄文時代には、異なる血族同士の墓を一緒にすることで先祖がつながっていることをイメージさせ、共同体内で人々が協力し合うことを促しました。「お金」も、金貨や銀貨から紙切れ(紙幣)に変わり、さらに金を通貨基準とする金本位制から脱却した今でも、問題なくお金は価値あるものとして出回っています。
 人間はその考える力によって、それまでに無かったものを生み出し、文明化した社会を築き上げてきました。そしてその創造物は、目に見えないものも少なくないのです。

考える力を信じて

 日常のふとした時に、無意識のうちに考え事を始めてしまうことはないでしょうか。
 少し変わった形のものを見つけた時や、その日のある出来事がふと思い出された時など、考え事モードに突入することもあるはずです。人間にとって考えるとは、ごく日常的なものです。

 人間は、その考える力で、様々なモノや文化、ひいては文明を築きあげてきました。そして、生物種として地球上に繁栄してきました。日本列島で言えば、縄文早期には2万人程度であった人口が、現在では1億人を越えています。しかも、その急激な増加は農耕革命や産業革命といった、人間自身が引き起こした革命と時期を一緒にしています。つまり、人間は、自らの考える力、想像力と創造力によって繁栄できる環境を自ら創り出してきたと考えられるのです。

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(出典:「人口から読む日本の歴史」http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/hito.htm


 衣食住が十分に整った現代でも、私たちは様々な課題を抱えています。世界的には気候変動問題であり、日本に関して言えば少子高齢化問題がその最たるものでしょうか。また、身近なところでは、人生設計やキャリア設計の問題や、その他仕事やプライベートでも様々な問題を抱えていると思います。
 それら一つ一つは一朝一夕で解決策が見つかるものではないのかもしれません。気候変動や少子高齢化などの社会問題は、さらに複雑です。しかし、大きな視点で見ると、人間は考える力でそのような問題を解決してきました。その考える力を信じて、目の前の問題に向き合っていけば自ずと答えは見えてくるのではないでしょうか。これまでの人間の歴史を見ていると、それが私たち人間の生き方であるとも言えるのかもしれません。


〈参考文献〉
1.野矢茂樹著『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)
2.ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史 上』(河出書房新社)
3.吉村仁著『強い者は生き残れない』(新潮選書)

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(吉田)

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