(文量:新書の約13ページ分、約6500字)
自分にとって大きな課題に対峙している時、哲学的な思考が発動した経験はないでしょうか。
たとえば就職活動で志望企業を決めあぐねている時に、「そもそもなぜ働くのか、自分にとって仕事とは何なのか」と考えたり。たとえば何らかのプロジェクトで大きな壁が立ちはだかった時に、「そもそもこのプロジェクトをやる意義は何か、誰のためにやるのか」と考えたり。
このような一段高いところに登ってみて「そもそも」と考える時間は、苦しくもありますが、時に大きな前進のきっかけをくれます。
他方で、哲学的思考が発動すると、それに陥ってしまっている自分に不安や嫌悪感を抱くこともあるのではないでしょうか。「そんなことを考えている暇があったら現実に向き合い前に進むのだ」などというように。
哲学とは、空想の世界で終始する思考というようなイメージがあります。しかし、人生という長旅をより充実したものにするためには、哲学的な時間も必要であると感じるのです。
そこで今回は、哲学的に考えるとはどういうことなのか、またそれによって私たちの人生に何がもたらされるのかなどについて、考えてみたいと思います。リベルの知見や考えでは心もとないので、哲学者・野矢茂樹先生の著書『哲学な日々 〜考えさせない時代に抗して〜』を起点として考え進めていきます。
哲学“的”であるということ
哲学と聞くと、どんなことが頭に浮かぶでしょうか。たとえば、「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)なんて言葉が浮かぶ人もいるかもしれません。
この言葉自体は謎めいたものでありながらも、興味をそそられるものでもあります。しかし、私たちが考えることによってたどりつきたい先は、ここまで抽象的で難解なところでもないはずです。
ここでは、真の哲学者が目指す哲学的境地や思考ではなく、仕事や人生をより充実したものにしたいと思う私たちにとっての哲学的思考とはどのようなものなのかを、考えてみたいと思います。
哲学者・野矢茂樹先生は、哲学的思考についてこのように言っています[1]。
「哲学の問いは基本的に「私は何をしているのか」という形をとる。」「ある活動をしているとき、その活動について考えることを「メタ」と言う。」「野球をしていて、あんまり下手だからルールを変えよう、なんて話し合いを始めたとすると、それは野球のプレイそのものではなく、野球のプレイについての話し合いだから、「メタ野球」と言える。」「自分の仕事について「この仕事はいったいどういう意味であるのか」と考え始めたなら、それは「メタ仕事」(…)」
「私は何をしているのか」とはあまり使い慣れない言葉かもしれませんが、言い換えるならば、「そもそも〜」や「〜の意味は何か」などという切り口が、メタ思考であり哲学的思考なのではないかと思います。あるいは、「私や私たちを見つめ直すこと」などとも言えるのかもしれません。
これらの切り口は、雑談の中では面白い話題提起として受け入れられもしますが、会議などでは少し面倒がられることもあります。なぜなら、進むと決めてみんなが動いているところに、水を差すことになりかねないからです。つまり哲学的な思考や姿勢は、劇薬となることもあるのです。
しかし、野矢先生は言います[1]。
「走り続けること、立ち止まらないこと、そして決して振り返らないこと、そんな姿勢をかっこいいと思う向きもいるだろう。(…)しかしー。」「目的地を目指して走るだけでは、人生というのはもったいないのではないか。(…)」「それに、目的に向かってひた走る前のめりな姿勢はきわめて危険である。」「ときに効率よく進めねばならないことも、もちろんある。」「だが、それだけでは済まない。すべてを考慮して行動することはできず、私たちの能力も完璧ではない。」「また、不測の事態は必ず起きる。そんなとき、スピードと効率だけを考えて前のめりに行動していると視野が狭くなり、柔軟性を失う。」
哲学的な思考や姿勢は、決してちゃぶ台をひっくり返すものではなく、広い視野や柔軟性の維持という効用をもたらすものであるということです。
そして、哲学的な姿勢をとるためには、ぐっと脚を踏ん張って立ち止まる相当な脚力がいる、とも野矢先生は言います。メタ思考で今行っていること自体について考えるということは、その行っていることを止める必要があるからです。特に多くの人が携わっている場合は、止めることに相当なエネルギーを要すことでしょう。
さらに、現代はSNSなどによって、周りが目まぐるしく進んいることを過度に感じ取ってしまいます。仕事においても人生においても、立ち止まって考えるためには、脚力だけではなく勇気もいるのではないでしょうか。周りに感じる大きな流れに惑わされず、抗うことができる、脚力と勇気です。
つまり、私たちが哲学的であろうとするためには、「物事の意味を問い直したり、私(たち)を見つめ直すための、立ち止まる脚力と勇気が必要である」と言えるのではないでしょうか。哲学的であることで、広い視野や柔軟性を備えることができますが、他方で相応のエネルギーを必要とするようです。
では、そのようなエネルギーを要する哲学的思考や姿勢は、社会にどのような影響を与えうるものなのでしょうか。私たちが哲学的である意義とは、どのようなものなのでしょうか。
哲学の威力
イギリスの哲学者ジョン・ロック(1632-1704年)は、ある考え方を提示することで、人々の平等意識や教育意識に大きな影響を与えました[2]。
その「ある考え方」とは、生まれた時の人の心は「何も書かれていない石版=ダブラ・ラサ」のようなもので、その後の経験によって、個々の考えや現実世界に対する理解が築かれていくというものです。
現代に生きる私たちからすると当たり前に聞こえますが、これは当時のある考え方を否定する画期的なものでした。ロックが否定した考え方とは、プラトンの「人は生まれながらにして前世で得た知識を有している」という考え方です。
プラトンの考え方が否定されるということは、人間に生まれついての優劣がない、身分に関係なく生まれた後の経験によって優劣が決まるのだ、ということが認められることを意味しました。つまり、封建的な思想から民主的な思想への転換です。
このような考え方の転換、言い換えると当時の社会常識の転換は、教育意識にも影響を与えました。なぜなら、人間に生まれながらの優劣がなく、その後の経験によって決まるのであれば、大衆も教育を受けることによって、生まれついての身分の差を越えられるという意識形成につながるからです。不平等に不満を抱きながらも仕方のないものとして受け入れていた人々に対して、ロックの新たな考え方は教育や学習に関する大きなモチベーションを与えたことでしょう。
もう少し現代的で身近な例も挙げてみます。それはスポーツに関するルール変更の例です。
1998年の長野オリンピックで、日本のスキージャンプ陣は大活躍を演じました。ラージヒル団体で金メダル、ラージヒル個人で船木選手が金メダル、原田選手が銅メダル、ノーマルヒル個人で船木選手が銀メダルを獲得したのです。ラージヒル団体で、原田選手が船木選手のジャンプの成功を称えて「ふ〜な〜き〜」と呼んでいた映像が記憶に残っている人も少なくないのではないでしょうか。翌年の1999年ノルディックスキー世界選手権でも団体で銀メダル、個人ノーマルヒルでは船木、宮平秀治、原田の3選手で表彰台を独占するなど、日の丸飛行隊と呼ばれる日本のジャンプ陣は圧倒的な強さを誇っていました。
しかし、翌年から成績が振るわなくなります。その原因はスキーの長さに関するルール変更にありました。日本選手にとって不利になるようなルール変更が、国際スキー連盟によって成されたのです。当時は、ルール変更が日本の好成績に対するやっかみだとする声もありましたが、必ずしもそうではないと思います。変更の内容やその理由は妥当であると考えられるものでした。
ただ、ここで言いたいことは、ルール変更を進めた国際スキー連盟は、スキージャンプに対する「メタ思考」をしたということです。
「身長の低い日本人ジャンパーが勝ちすぎている。私たちは何をしているのか。どのようなスポーツであるべきなのか。」といった、スキージャンプそのものを問うような思考や姿勢です。その思考の結果生み出されたルール変更により、表彰台の顔ぶれはガラリを変わりました。ルール変更が良かったかどうかは別にして、それによって日の目を浴びるようになる者もいれば、反対に日の陰に隠れていき悔しい思いをする者もいるということです。
哲学のたずさえ方
さて、哲学はときにすごい威力を発揮することを紹介しましたが、導き出された答えは必ずしも真理ではありません。また、私たちが自分の仕事や人生に哲学的思考を用いて導き出す答えは、真理であることを求める必要がないとも考えています。
ジョン・ロックは、生まれた時の人の心は「何も書かれていない石版=ダブラ・ラサ」であると言いました。
しかし、現代では遺伝に関する理解が進み、ロックのこの考え方は正しいとは言い難くなってきていると考えられます。学業成績や性格、スポーツや芸術活動に対する遺伝の寄与度が、研究によって明らかにされてきているからです。つまり、人は生まれながらに一定程度の得手不得手が定まっており、「何も書かれていない石版」ではないということです。
では、哲学的思考の結果導き出された答えが真理ではなかった場合、それは意味がないものとなってしまうのでしょうか。これに対する答えは、ロックが新たな考え方を提示した先の社会変化に目を向けると、自ずと見えてくると考えます。
ロックは、プラトンの「人は生まれながらにして前世で得た知識を有している」という考えを否定することで、大衆に「人は平等である」という信念を抱くきっかけを与えました。言い換えると、封建的社会から民主的社会への橋渡しをしたと言えると考えられます。
また、教育に対する意識も変化させ、人々は学ぶことに意味を感じるようになりました。もちろん、封建的社会から民主的社会への移行は、ロックの一つの考えによって一気に巻き起こったことではないでしょう。おそらく、社会全体に封建的社会への不満や限界を感じる空気のようなものが既に形成されており、そこにロックの考え方がフィットし、人々に火をつけたのだと考えられます。
このような哲学の社会との関わり方を踏まえると、哲学的思考や姿勢をとることの意味は、その結果導き出される答えが真理かどうかにあるのではなく、既存の社会常識をメタ的に考え直すことで、社会を多少なりとも前に進められる可能性を生み出すことにあると考えられます。
他方で、哲学的に考えたことが影響を及ぼす対象は、社会や周囲だけではなく、自分自身であることも当然あります。
リベルのブックレットの作成の中で、縄文時代を中心に研究する考古学者の山田康弘先生はこんな話をしてくれました。概要をかいつまんで紹介します。
「縄文時代の日本列島の人々の暮らしや、現代でも狩猟採集・移動型生活をしている民族の暮らしに接していると、現代の日本は人口密度が高く、様々な社会規範やシステムが築かれた複雑化した社会であるということがよく分かります。」「その複雑化の極地がスマホだと思っています。」「移動型生活をしている民族は、集団内や集団同士でいざこざがあると離散し、時間を置いて頭を冷やしてまた集合するということが当たり前です。つまり、逃げることが当たり前なのです。人間の脳が処理できる情報量はあまり変わっていない中で、元来人間は、現代に比べると圧倒的に少ない人数で過ごし、しかも逃げることも悪いことではありませんでした。」
「しかしスマホは、つながりの薄い多数の人とも常時つながった状態をつくり、なかなか逃げることもできません。」「だから私は、SNSもやめましたし、メールアドレスなどもなるべく教えないようにしているのですよ(笑)。」
これは、「スマホを持つ私は何をしているのか」というメタ思考の結果、SNSやスマホの利用を制限するに至ったということを表すエピソードであると言えます。
しかしながら、複雑でストレスフルな社会における解決策がスマホの利用制限である、ということは一つの答えに過ぎず、誰に対しても当てはまるものではありません。スマホの制限をすることで大きな不便が生じたり、逆にストレスになる人もいるはずです。
ここで重要なことは、「スマホを持つ私の生活」という当たり前の毎日に対して、一旦立ち止まりメタ的に思考し、「なにやらおかしい」という問題意識を抱き、解決策の仮説を立て自分で試してみているということです。哲学的思考の結果、問題と解決策の仮説に気づき、それを試すことでより良い生活に近づける可能性が生じるということです。
哲学的思考や姿勢は時に大きな威力を発揮します。その威力ある哲学を、仕事や人生の武器としてたずさえておくと様々な可能性が広がっていくことでしょう。他方で、大きな威力の裏では、度重なる深く広い思考や、周囲との軋轢なども生じていることも想像されます。
真の哲学者ではなく仕事人や生活者の私たちにとっての哲学のたずさえ方としては、必ずしも社会に大きな影響を与えるような答えや真理を導き出そうという、気合いやストイックさのようなものを伴わなくも良いと考えます。
仕事ややるべきことに溢れるオンタイムの中に、立ち止まって「私は何をしているのか」とメタ的に考えるオフタイムを作る。そして、違和感や問題に気づき、解決策の仮説をもって、あまり負担にならない程度に試してみる。そうして、現状を少しずつよりよいものに近づけていくというのも、一つの哲学のたずさえ方ではないかなと思うのです。
生活の中に哲学的な時間を
長い人生において哲学的な時間が必要なのではないかという直感のもと、ここまで考え進めてきました。どうやらその直感は外れてはいなかったようです。
哲学とは、「私は何をしているのか」というメタ思考を一つの入り口としました。言い換えると、「そもそも〜」や「〜の意味は何か」などといった切り口から始まる思考であると解釈しましたが、これは人生の節目で頭に浮かんだことがあるような、馴染みがある言葉や思考記憶ではなかったでしょうか。つまり、哲学的な思考や姿勢は、それほど遠い存在ではないと言えます。
哲学は、時に社会を動かすほどの威力を発揮するものでした。他方で、影響を与える対象を社会ではなく自分自身と置くことでも成立し、この場合は自分自身の様々な問題に思考を巡らせ、解決策の仮説を立て、試すことも容易にできそうです。決して真理を追求する必要はなく、自分のイマ・ココをより良いものにしていこうという気持ちで活用しても良いと考えます。
学生時代のような時間がある時には哲学的思考が働きやすいですが、社会人のような目まぐるしく日々が動く時には哲学的思考は遠ざけられやすいと思います。しかし、哲学的であることの効用を考えると、学生なのか社会人なのかに関わらず、そのような時間を設けた方が良いと感じられるのではないでしょうか。
変化が激しい時代、人生が100年と言われる時代、様々な前提が変わっていき、自分の価値観も変わっていき、「私は何をしているのか」というメタ思考はより有効に働くはずです。哲学者としての哲学ではなく、仕事人や生活者としての哲学の時間を生活の中に組み込んでいくことで、よりよい仕事や人生につながっていくと考えられるのです。
〈参考文献〉
1.野矢茂樹著『哲学な日々』(講談社)
2.山口周著『武器になる哲学』(KADOKAWA)
〈関連するコンテンツ〉
(吉田)