答えへの見通しが立たない問題について、どのように考えればいいのでしょうか。とにかく考えるのだと思って「う〜ん」と唸ってみても、シーンとなってさざ波ひとつ立ちません。子どもの頃は問題集の裏をそろりと覗けば答えが書いてあったのに、なんて思ったり。
リベルで様々な先生にお会いしたり、その先生が書いた本を読んでいたりすると、答えにたどりつくための考える方法は一つではないのだと感じさせられます。
今回は、決して網羅的ではありませんが、答えにたどりつくまでの考える方法について紹介してみたいと思います。
考えるとは「待つ」こと
哲学者・野矢茂樹先生は言います[1]。
「考えているしばしの間、私はとくに何かをしたわけではない。」「ただ、答えを思いつくのを待っていただけである。」「そう、この「待つ」ことこそ、考えることにほかならない。」
なるほど「待つ」こととは、確かに納得感があります。そもそも見通しの立てられない問題に向き合っているのですから、「この3段階を踏めば答えにたどり着ける」というようなものでもありません。
ただし、単に何もせず「待つ」ということではないようです。頭の中には常に「問い」を携えて、その眼差しですべてを見て聞くこと、問いの緊張を持続させることが必要なのだそうです。言い換えると「注意」を働かせることとも言えそうです。そうすると、「あ、これだ」と思えるものに出会えるのだそうです。
しかし、まだいささか抽象的なので、もう少し具体的な方法にも目を向けてみましょう。
考える技術
目の前のことに注意を働かせすぎて、考えて考えて考えていくと、そもそもなぜ考えているんだっけ、と我に返ることがあります。考えるときに、「目的を考える」ことは重要です。
「目的を考える」
17世紀に活躍した心理学者のハーヴェイは、心臓の弁を発見したことで知られています。ハーヴェイはこのように考えました。
「血液を循環させるためには、ポンプと同様、逆流を防ぐ弁が必要なはずだ」
つまり、心臓の目的を考えて、そこから備えているであろう機能や仕組みの仮説を立てたのです。そして実際に弁の発見に至りました。
ハーヴェイは、心臓の目的は血液を循環させることにある、だからポンプと類似の仕組みである、ポンプには逆流を防ぐ弁がある、だから心臓にも弁があるはずだ、考えました。
この思考の中には、心臓とポンプの目的が同じであることを前提として内在する仕組みを類推するという過程が見られます。このように類推して考えることを、「類推」は英語で「アナロジー」なので、アナロジー思考法やアナロジー発想法などと言います。
「アナロジー的に考える、相似形を探す」
アナロジー的に考える時には、まず相似形を探すことが重要です。
相似とは、例えば、二辺の角が等しいAとBの三角形があり、しかしAの一辺は5cmだが、Bは100cmだったとします。このような時、AとBは合同でも近似でもないですが、二等辺三角形という意味で相似であると言えます。
ハーヴェイの例では、心臓とポンプは、その目的が循環にあるという意味で相似です。ほかには例えば、日本とイギリスは、島国であり大陸の極部(ユーラシア大陸の極東と極西)に位置するという意味で相似である、というようなことです。性質が似ているものを見つけ、それらを比較しながら類推し、隠れた仕組みなどを解明していくのです。
ハーヴェイは、血液の目的は血液を循環させることにある、だからポンプと類似の仕組みである、ポンプには逆流を防ぐ弁がある、だから心臓にも弁があるはずだ、考えました。
この「だから」から、論理的思考という言葉が頭に浮かびます。しかし、論理とは既に出来上がった前提を組み合わせて、考えを整理したり他者に説明するときには有効ですが、それ自体はあまり考えることと同義ではないようです。
論理は、問題を分解する時に有効なのだそうです。
「論理的に分解する」
哲学者・野矢茂樹先生は言います。
「私たちはしばしば複数の問題が絡み合ったものをいっぺんに解決しようとして混乱してしまう。」「そこで、問題を分析して、いくつの問題が含まれているのか、それらはどう関係しあっているのかと捉える。」「ときには、その問題が依拠している暗黙の前提を明らかにすることが必要になる場合もあるだろう。」「こうして、考えるための下ごしらえを整える。」「ここで必要なのは堅実な論理力であって、閃きではない。」
最後の一文から、論理的に整理できる人と、閃き型の人は性格が違うように感じられます。役割分担をして協力し合った方が良いのかもしれません。
野矢先生の言葉の中に、「暗黙の前提を明らかにすることが必要になる場合もあるだろう」というのがあります。これは、言い換えると「常識を疑え」ということでしょうか。
私たちは、日々考えたり話したりする時に、無意識のうちに様々な前提を踏襲し、それに言及することなく過ごしていると考えられます。日常生活はそれで、いやその方がいいのだと思われますが、良い答えにたどりつくためには、時には前提や常識を疑うことも重要です。そこで必要とされるのが「批判的に考える」ことです。
「批判的に考える」
哲学者であれば、自分の考えに対して厳しく批判的に別の意見をぶつけられるのかもしれませんが、普通は困難です。主観で考えたことを一旦別の場所に置いて客観性を確保することは困難ですし、また他者の意見に批判的意見をぶつけるのも人情的に困難です。
そこで、有効な手段として、「デビルズ・アドボケイト」と呼ばれる、批判的意見を言うという役割を決めて議論をする方法なども用意されています。
しかし、単に役割を決めて批判的な意見を言うにしても、それを意味のある批判にすることに一つの難しさがあると考えられます。一歩間違えるとただの揚げ足取りになり、考えなくてもいいようなことを考えてしまうことにもつながります。
そこで有効だと思われるのが、問題に関係する登場人物を設定して、考えてみることです。これは「ゲーム理論」的な考え方であると言えます。
「ゲーム理論的に考える」
たとえば、このような状況を想像してみてください。
あなたは、「1万円を受け取って他者に分配し、残額は自分のものとできる。分配金は1円以上でよい。ただし受け取ってもらえなければあなたも残額を受け取れない。」という権利を有していたとします。また、分配を受ける他者は、あなたのが提示した金額に「受け取るか」「受け取らないか」しか決められず、交渉などはできません。
あなたはいくら分配するでしょうか。
自分がちょっとだけ得するけど、そこまで不公平感がない4000円くらいでしょうか。それとも、受け取る他者はもらえるだけでありがたいのだから100円くらいでいいだろう、という感じでしょうか。
受け取る他者からすると、前者の4000円の方がうれしいですが、後者の100円だけでももらえるだけマシです。100円を提示されて受け取りを拒絶すれば、他者は1円ももらえないことになります。経済合理的な考え方でいくと、1円以上であればいくらでも受け取るだろうから100円くらいだけ渡す、というのが一つの考え方になります。
しかし、受け取る側に立ってみてください。100円を渡されて受け取るでしょうか。相手は9900円も懐に入れていることに腹を立てないでしょうか。「100円なんかいらねーよ!」といって受け取らないのが人間の性ではないでしょうか。このように、立ち位置を様々に変えて、より現実的に考えるのがゲーム理論の考え方です。
かつて、経済学者が経済合理性だけを考慮した理論を構築し、それが大きな失敗につながってから、心理学を踏まえた行動経済学という学問が注目され出したのは有名な話です。様々な視点、立ち位置から考えることは、本当の答えに近づく上で重要であると考えられます。ゲーム理論としては、「囚人のジレンマ」問題が有名ですので、よければ参照してみてください。
(参考:「囚人のジレンマとは?ゲーム理論の代表的なモデルを解説」)
リベルを通して様々な先生に接していると、研究者は、専門をもちろん有していますが、それに固執することなく、分野を横断して知識や考え方を仕入れ、多面的に考えていると感じられます。
自分の研究テーマに対して、いくつものジャンル(学問分野)から考えているのです。
「1テーマ多ジャンルで考える」
たとえば、「人類にとって『美』とは何か」ということを研究テーマとしたとします。
その時に、考古学的な見地から、人類がどのような美を創造し生活に取り入れてきたのかを見ることも一つの方法です。ほかにも、脳科学的に、何を見たときに脳が活性化するのかを見ることも一つの手でしょう。さらには、心理学的実験によって、美が人間の心にどのような作用を及ぼすかを知ることも方法としてあり得るかもしれません。
自らのテーマや課題に対して、様々な見地から考えてみることは、答えの精度を上げてくれると考えられます。また、1ジャンルからアプローチしてみて壁にぶつかったとき、別ジャンルがものの見方を変えてくれて、ブレークスルーにつながるかもしれません。いろいろなジャンルや専門領域に足を踏み入れてみることも、考えるための一つの方法であると言えそうです。
そして、「待つ」
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、考えるとはそんなようなものなのかもしれません。あえて言い換えるならば「考え尽くしてひとまず寝る」といった感じでしょうか。。
考えるとは、ある経路をたどれば答えに辿り着けるような錯覚を持ちますが、難解な問題であるほど、あの手この手を尽くしてみて見つかれば儲けもの、というような感覚なのかもしれません。答えが見つからないことを当たり前だとして悠然と構え、日々なんらかの前進を試みる、というのが考えるための必要なスタンスであると言えそうです。
〈参考文献〉
1.野矢茂樹著『哲学な日々 〜考えさせない時代に抗して〜』(講談社)
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(吉田)